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【短編小説】和女食堂・豚キュウリのそうめん


食欲がない。夏バテだから? そうかもしれない。でも最大の原因は、実家のワンコの具合が悪いから。

シーズーのリリカは、わたしが中1のとき我が家にやってきた。家を新築すると同時に、母の夢だった犬を飼うことを実現した形で。

母の親友が茶色いシーズーを飼っていて、飼うなら絶対に茶色いシーズーがいいと決めていたらしい。リリカはそのお友だちの知り合いのペット仲間から譲り受けた子。

母の溺愛ぶりもさることながら、負けじとわたしもどんどん夢中になっていった。学校にいるときも、友だちと遊んでいるときも、塾に行ってるときも、ずっとリリカのことを考えてばかり。

帰宅すると、「待ってたよ!」と言わんばかりの顔でリリカが走り寄ってくる。それがわたしの一番幸せな瞬間。

リリカの笑顔は世界一かわいい。リリカの匂いは世界一いい匂い。

実家から遠く離れた東京の大学に合格して、わたしは一人暮らしをすることになった。リリカを連れて行きたいと必死に頼んだけれど、ペットを飼える割高なマンションを借りる余裕もなく、そもそも母が彼女を手放すはずもなく断念。

一人きりのワンルームマンションは、静かで落ち着くけどときどき物足りない。寂しいという言葉は使いたくない。だって、楽しい大学生活を送るために、リリカと離れてまで来たんだもの。

夏休みだからといって、ずっと実家に帰るわけにもいかない。バイトとデートと英会話の勉強が忙しい。3年生になったら交換留学でカナダに行く。それまでに、ある程度は英語がわかるようにならなければ。

昨日の夕方、母からLINEがきた。いきなりリリカがペットクリニックの先生に診察してもらっている写真。そのあと「原因不明でグッタリしてるから青山先生に診てもらっています」の文面が。

あまりにも心配で、そのあと食事が喉を通らなくなった。「おそらく熱中症でしょう」との診断。

ワンコの熱中症はばかにならない。すぐにGoogleで検索すると、「熱中症で受診する犬の死亡率は50%」という文字が目に飛び込んできた。信じられない。絶対にそんなのいやだ。

今朝の様子では、「昨日より良さそうだけど、ずっと寝ていてよくわからない」という報告のみ。「あとでまたクリニックに連れて行ってみる」って。

ああ。今日はバイトも休んでしまった。どうしても動けない。ごはんも食べてない。ものすごくおなかが空いたけど食べられない。

近所に住む、同じ大学の友だちからLINEがきた。

「今家にいる? 行ってみたいお店あるんだけど、一緒にランチしない?」

行ける気がしないけど、おなかが空いてる。それに、彼女ならワンコの話を聞いてくれそう。彼女も実家に犬がいると言っていたから。

【お品書き】 
豚キュウリのそうめん 400円
明太子パスタ 250円
ちょっとだけあるマッシュルームのカナッペ 80円
もり蕎麦 200円
おにぎり 10円
たぬきおにぎり 30円
たまごサンド 50円
カレーピラフ 120円
海老チャーハン 350円
熱いとうもろこし 130円
水茄子のオリーブオイルかけ 300円
生マッシュルームとベビーリーフのサラダ 200円
レタスサラダ 30円
レタスとウィンナーのスープ 80円
梅干しと小ネギのお吸い物 80円
味噌汁(玉ねぎ、おかわかめ)60円
麦茶 20円
アイスティー 40円
牛乳 100円
ホットケーキ 200円

「どうしたの? なんか元気ないね。とりあえずなんか食べて元気出そう!」

ただうなずくわたし。

「豚キュウリのそうめんだって! 美味しそうじゃない? わたしそれにしようかな。あ、水茄子好きー! 食べたことある?」

首を横に振る。

「なになに? 本格的にヤバイね。あとで話聞くから、先に注文するね」

彼女はそうめんふたつと、水茄子をひとつ頼んでシェアして食べようと言った。ほとんど食べられないかもしれない。

ゆっくりと口を開き、話を聞いてもらう。彼女は真面目な顔で何度もうなずきながら、ほとんど口を挟まずに全部聞いてくれた。

「そうなんだね。それは本当に心配だよね。うちの子も入院したことあるし、不安な気持ちよくわかるよ。でもね、あんまり悪く考えるのはやめたほうがいいんじゃないかな。不安なことがあるときは、一度だけ最悪どうなるかを考えて、あとは良い結果が出ることだけに気持ちを集中させたほうがいいって聞いたことあるよ」

本当にその通りだと思うんだけどね。なかなか心はコントロールできないよ。

「お待たせしました〜! 水茄子と、豚キュウリそうめんです。これね、今日からの新作なんすよ。めっちゃ自信作。食べて食べて」

明るい店主さん。この人には悩みや心配なんてないのかな。

「はーい! ではいただきます。ねえ桜、無理しないでね。ゆっくり食べて」

箸を握ってみる。あまりにも元気がないと友だちに悪い。水茄子をかじってみた。まるで軽量な果実のよう。少しなら食べられるかな。

そのとき母からLINEが。もう泣きそうな気持ちで急いで読む。

「リリカちゃん、すっかり元気になりました! 点滴が効いたみたい。一安心です」

ああ。あああああ、良かった。リリカがテレビの前でジャンプしてる動画が送られてきた。いつもの彼女だ。

「ありがとう! ワンコが元気になったってLINEきた。ごめんね、心配させちゃって。さあ食べるぞ!」

そう言いながら、少し涙ぐむ。同時にものすごい食欲が。こんなにおなかすいてたんだなー、わたし。

この豚しゃぶ、なんて美味しいんだろう。ほんのり酸味が効いてて、お醤油と胡麻油の香りがフワッとしてる。しかも素麺かー。

正直言って、さっき何をオーダーしていたかよく聞こえてなかった。そうめんだったんだね。久しぶりに食べたな。こんな食べ方もあるんだなあ。

「よかったあ、ワンコも桜も元気になって!  わたし、そうめん二杯食べることになるかなって思ってたよ今!」

二人で笑った。でも本当に、こんなタイミングで連れ出してくれてありがとう。一人だったら、今のLINEが来てもごはん食べずに安心して寝ちゃってたと思う。

「ありがとうございまーす! 1140円です」

「なんかわたし泣いちゃってて、すみませんでした。水茄子もそうめんも美味しかったです」

「いやいや、そんなときもありますよね。いいお友だちがいてよかったね! ねえ知ってる? 神様を信じてなくても、お祈りって届くのよ。ひとりで祈ったらひとりぶん。ふたりで祈ったらふたりぶん。きっと届いたんだね!」

また少し涙が出てきてしまった。ありがとう、神様。ありがとう、美祐。そしてありがとう、店主さん。

そういえば、お店の奥にシンプルな神棚があったな。店主さんはいつも何をお祈りしてるんだろう。悩みなんて何もなさそうなのになあ。

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