わたしが死んだら海にまいてほしい
遺骨ダイヤモンドとは?
先日、知り合いのかたとお茶をしたときに、『遺骨ダイヤモンド』の話になりました。
遺骨ダイヤモンド、メモリアル・ダイヤモンドなど、さまざまないい方があるようで。
簡単にいうと、故人のご遺骨で、人口宝石を作るというもの。
そうすれば、死後も肌身離さずいっしょにいられる、というサービスとのこと。
メモリアルダイヤモンドを作っている、代表的なスイスの会社『アルゴダンザ』
アルゴダンザのサイトより抜粋
死生観のちがい
お茶をしたかたを仮に、Aさんとして話を進めます。
まず、なぜAさんと遺骨ダイヤモンドの話しになったのかというと、墓じまいのことが話題にあがったから。
墓じまいでトラブルが多い、檀家を減らしたくない寺が墓じまいでぼったくりのような値段をふっかけてくる、などなど盛りあがりました。
そこから、遺骨ダイヤモンドの話になりました。
「遺骨ダイヤモンドを作る人が増えてるそうですよ」
「へえ、いいね。自分も母親の遺骨で作りたいな、と思ったことがあるんだよ。でもうちは、兄弟が多いから、そういうことはムリだったな。親の遺骨を分けたところで、米粒よりも小さいダイヤモンドになっちゃいそうだったからね」
「そうなんですね。でももし、ダイヤモンドを作ったとして、ちょっと怖いとか思ったりはしませんか?」
「え? どうして?」
「だって、人の遺骨から作ったものですし、思いがこもったものなので、そこから物語が続いていきそうで、いろいろ想像しちゃいません?」
「いや、しょせんは〝モノ〟だから、そんなふうに思ったりしないよ。なんで怖がるの? 悪いものじゃないでしょう」
「自分も、Aさんが作ったダイヤモンドにそんなことは思ったりしませんよ。でも、なかにはさまざまな人たちが、遺骨でダイヤモンドを作るわけでしょう。どんな人が遺骨をダイヤモンドにいて、どんな人が遺骨からダイヤモンドになったんだろうって。いろいろ、想像しちゃうんですよね」
「う~ん、自分はそんなふうには考えないかな。魂とか、幽霊とか、信じてないからさ。スピリチュアル的なことを信じているのといないのとでは、遺骨ダイヤモンドのとらえかたもさまざまかもね」
「でも魂になっても、ダイヤモンドにして、いっしょにいたいと思ったわけじゃないですか。そこにいると、思っているからですよね」
「うん、そうだね。でも、〝思いがこもっている〟のと〝モノとなったダイヤモンド〟は別々のところにあるんだよね」
「うーん、わからない」
「考えは平行線で終わりそうかな。でも、十分歩みよったよ」
遺骨ダイヤモンドを残すということ
Aさんはそういって、コーヒーを飲み干しました。
考えがあまりに真逆だったので、わたしは驚いていました。
身内、あるいは深い関係だった人を、遺骨ダイヤモンドにする人たちの考えは、わたしだって十分にわかっていました。
でも、モノに宿る魂や、呪いのたぐいについてを信じるわたしにとっては、これを後世まで残すということは――とつい考えてしまっていたのです。
ダイヤモンドは、棺桶に入れてもらうことはできない。
なら、自分がなくなったら誰の手に渡るだろう。
さまざまな人の手に渡っていく、人の魂が宿ったダイヤモンドを想像して、物語を感じずにはいられませんでした。
Aさんは、わたしの考えに否定的で、理解できないようでした。
遺骨ダイヤモンドを「怖いもの」といったわたしとは、反対の考えだったので、当然です。
今後、わたしもいつ、遺骨ダイヤモンドを作ろうと思う日が来るかもしれません。
出来あがったいつかの誰かのダイヤモンドを見て、わたしは何を感じるでしょう。
もう「怖い」とは、思わなくなっているかもしれません。
遺骨ダイヤモンドの輝きに、魂のきらめきを感じることができるでしょうか。
自分をダイヤモンドにしたいと思ってくれる人の存在を、わたしはどう思うのでしょうか。
風が冷たくなってきたので、こんなことばかり考えてしまいます。
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