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黒井さんからの手紙への手紙 あるいはぶぶ漬けでもどおどす?

ベルギーの鬼才ファブリス・ドゥ・ヴェルツの映画『依存魔』にかこつけて、森の表象とゴシックの美学とのオカルト(隠秘学)ちっくな結びつき=ひとつのドイツ美術史について詩的な空想を巡らした拙文

に、
小説家の黒井瓶さんから、素敵なご感想を頂戴しました。
黒井さん、ありがとうございます!🙏🐻



さて、以下は黒井さんの下記ツイート

に対する脱輪の返信ツイートをまとめたものです。


嬉しさのあまり速攻で返信したため、ずいぶんと荒れた文章になってしまっていますが、後からあれこれ付け足して持論を補強するのもなんとなくひきょーな気がするので、最低限の誤字脱字の修正以外、そのままの内容を転載することとします。
念のため断っておきますが、僕と黒井さんは一連のやり取りを通してそれなりに真剣なお遊びとしての言語ゲームを楽しんでいるのであって、とても仲良しです(笑)
批評的にものを見ている人間は、こんなにもいぢわるに(ロジカル=論理的に?ノンノン、レトリカル=技巧的・修辞的に!)言葉を使用することができるんだな〜せーかくわるう!と、日本語の奥深さを味わうような気持ちで楽しんでいただければ幸いです(笑)



🌳


ありがとうございます!めちゃめちゃおもしろかったです!僕の詐術に見事に気付かれていますね(笑)
アルトドルファーに関する明らかな解釈ミスは、半分は意識的、もう半分は無意識的なものです。この詐術を成り立たせるために詩の文体を流用しているところもあり、文体に触れていただいていない点のみ残念に思います。
解釈というのは常にどうとでも言えるものに過ぎず、だからこそ僕は語りの詐術とそのうちに暴露される「他ならぬわたしがこう見たかった」という無意識の欲望の表出を押し止めないことに力点を置いているからです。
まーこのへんは批評の倫理と対立するところなので両者への配慮のバランスは文章によってまちまちですが(例えば同じ映画を8回見て画面内に確認される事実にこだわって書いたものもあります)、この文章は詩的なエッセイといったところで、僕の主眼は読む者を幻惑して酔わせるところに(のみ)ありました。
なので、黒井さんに酔っていただけなかったことは残念です。
一方で、醒めた目で論理を追い、解釈についてうんぬんするなら、まず黒井さんが僕のアルトドルファー解釈の明らかな誤りについて「徴候的なもの」「無意識のうちに排除」と書かれているのはまったく妥当でしょう。
ただし、僕は「無意識を使って(その欲望を働かせて、これ無理筋じゃね?と思っても抗わずに)排除している」のですが。
で、別にこの“論”の根幹が成り立たなくてもそれはそれでいーのですが、その観点からちょっと遊んでみましょうか。

「竜は(小さく)描かれている」「画中に洞窟は現れていない」という欠点を認め、仮にそこの部分の解釈提示を捨象したところで、アルトドルファーの『聖ジョルジュ』がやはり同主題の作品群の中にあって突出して奇妙な絵であることや、人間と自然の神秘的合一を描く作品であるとする解釈が即座に打ち砕かれるものではないでしょう。
理由は簡単で、この絵の画面の8〜9割程度が森に覆われており点景の騎士を囲繞していることは解釈の余地なく明らかだろうからです。
黒井さんの解釈は、こうしたごくごく自然な視覚的印象の“絶対性”を不当に軽視することによって成り立っている(ように見せかけている)レトリックであるに過ぎません。
要するに僕は筆者(黒井さん)の「わたしはこう見たい!」という無意識的欲望の表出を、反論としてというよりからかいとして(何度も言いますが解釈というのは単なるゲームです。それはそれでおもしろいものですが、僕にとってはその奥にある個人的な欲望の乗り物としての意味合いの方が遥かに重要なのです)指摘してみたいのですが、だってほら、素直になって絵をよく眺めてみてください。
この見事なまでに森に覆い尽くされた絵が人間の自然に対する勝利を謳い上げていると、まさか本気でお考えですか?このほんの僅か森の空隙から覗いている“光”がenlightenment=啓蒙なり理性化の象徴であると、本気で?
まさかそんなことはないでしょう。これらの文章は(僕と同じように)レトリックであることを知りつつ書かれているはずです。
よーするに、レトリックこそ見事ですが、黒井さんの反論は反論としては極めて弱いものです。
なぜなら、脱輪のミスを指摘するに止まり、「人間が巨大な自然に圧倒されている暗い絵である」という(脱輪が基本線でそれに沿っている)絶対的な視覚的印象の“事実”を覆すほど強力な根拠を提出するに至っていないためです。
例えば、黒井さんは脱輪の解釈について現に絵画中に現れている視覚的な事実を根拠として不成立である点を指摘されていますが、一方ではその実、持説を主張する際には❝ ではないか·····❞❝僕は思います❞と突如あやふやな調子になり、あまつさえ❝5世紀前の絵画についての鑑賞はそういった推測のもとになされるべきだ❞と「本当は自然に対する人間理性の勝利を謳い上げる図像なのだ!」という無理筋の主張に繋げるための「騎士は本当は色鮮やかに描かれていたのだ!」という(一見ニューアートヒストリー的な)解釈がなんの根拠もない単なる❝推測❞に過ぎないことを自ら認めてしまっています。
それでは本質的に言って僕の解釈となにが異なるのでしょう?
脱輪は森の空隙から覗く空間にかつて洞窟が描かれていたであろうことを❝推測❞したのかもしれないのに(笑)
が、実のところ本質的な相違は存在しています。それは、脱輪の主張が大多数の素直な人間にとって名証的な視覚的事実に沿っているのに対し、黒井さんの主張はそうではないということです(笑)
実際、これがディベート的に考えると相当不利な立場であることは、僕の文章が存在せず先に黒井さんの文章だけがある状態を想定してみれば明らかでしょう。
「どう見ても森が人間を圧倒している絵」についてそれと正反対のことを主張しようとしているのですから当たり前ですが、脱輪の“論”の欠陥への指摘部分を取り払ってしまえば、黒井さんの“論”は単独では立ち得ないことがおわかりになるのではないでしょうか?
これがロジックではなく「レトリックによって成立している」というのはそーゆー理由です。
とはいえ、これはあくまでアルトドルファーについての記述をめぐっての話で、以降の記述はロジカルだと思いますし、たいへんおもしろく読みました。

つまり、「“論”の根幹に(のみ)ケアレスミスとは言い難い論理的欠陥がある」という黒井さんの脱輪文へのご指摘は、ちょうど鏡写しのようになって、かなりの程度ご自身にも当てはまるのではないですか?ということです(笑)
精神分析者としての僕の❝推測❞によれば、黒井さん(の無意識)はそうした弱みにたしかに気付いていると思います。特に先ほどの「元々は色鮮やかな絵だった!」という主張部分にはなんというかおずおず·····といった自信なさげな調子が垣間見えますね(笑)
つまりなんとでも言える話なんですよ!例えば今回僕が意図的に捨象した竜という中間項(捨象した上でもなお「自然が人間を圧倒している絵」という解釈は成り立つんですよ〜という自負のゆえでもありますが)を強調して再反論を行うことも可能でしょう。
そのへんはどうぞご自由に。僕としてはこれ以上拝復はいたしません。


フリードリヒガン無視問題についてはその通りで、爆笑しました。おっしゃる通り、例の代表作を取り上げるとパッ見の視覚的印象としてまず「意外に明るくて清々しい絵」なので、主張に不都合が出てくるため隠蔽しました(笑)
後はふつーにあまりいい画像が見つからなかったのとフリードリヒやドイツロマン派について書き始めると新たに一稿を設ける必要が出てき、全体が(特にここで目論んだ目眩を催すような“詩”としては)煩雑になってしまうので避けた、という事情もあります。
とはいえ、これとても黒井さんが上げられているフリードリヒの“代表作”ではなく、人間の描かれていない、荒涼とした氷河や険峻な山、あるいは相当程度に暗い画面内に廃墟を描いた絵やスケッチなどを持ち出してきて「闇の美学」なり「人間を圧倒する自然」「崇高(sublime)の概念」を強調することも可能だったでしょう。
そこからさらにフリードリヒに強い影響を受けたベックリンの『死の島』連作などを引っ張ってきてドイツ・ヒットラー・闇の美学の系譜などとやれば、“論”はさらに強力なものになったはずです。
でもそれじゃ、「他ならぬこの僕が見た『依存魔』という映画」のボディーを「そのまま」「文章に移し替える」今回の僕の目的(そのために詩の文体とレトリックによる詐術が必要とされた)からは離れていってしまうんですよ。

最後に、
❝すなわち、フリードリヒのようなドイツ・ロマン主義絵画を正しく継承しているのは、エルンストではなくマグリットなのではないか、と。少なくとも視覚的な印象においてフリードリヒの絵画はエルンストよりもマグリットに類似して見えます。脱輪さんも言及しているようにマグリットはよく「黒ずくめの紳士」を描きますが、この紳士はフリードリヒの旅人の末裔なのではないでしょうか。またマグリットだけでなくホッパーの絵画についても、僕はそれをロマン主義からの断絶ではなくむしろロマン主義との連続として捉えることが出来ると考えます。❞
とのご指摘には「なるほどー!」と唸り、目の覚めるような思いがいたしました。
というか、僕はフリードリヒについて言及するなら氷河の絵を上げて「人気の絶えた自然の情景」というところでマグリットに繋げようと思っていたのと、そもそもエルンストに関しては「フリードリヒを深く尊敬していた」と書いてはいても、継承しているのはむしろアルトドルファーの方であると言っているわけですが、黒井さんの明晰なご指摘を受け、自分の中からなにか新たなものが広がっていきそうな予感がするのです。いまだ萌芽のようなものではありますが。
以上、拙文を丁寧にお読みいただき、また批評をいただいてありがとうございました!
まじで嬉しかったです🐻🍯

🌳🍃

※ヘッダー画像はフリードリヒの“代表作”と言える連作『樫の木の廃墟』。
森が廃墟と化す時、人間は、歴史は、そして記憶は·····🤔❔


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