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わたしが映画として見たWurtS『Talking Box』(脳内で)


・あらすじ

米ソ冷戦が終結した翌年、1992年のカリフォルニア西部。オレンジの目出し帽がトレードマークの秘密諜報員“おしゃべりマスク”ことダーティーは、某国の軍事機密情報の受け渡し場所として指定された国道沿いのダイナーに向かっていた。席に着くやいなや情報屋のリリーから電話がかかってくる。
「到着確認。合図を待て」
ほどなくしてウェイトレスが運んできた皿には乱雑にソースのかかったブルーベリー・パイ。コードBB-P、“交渉開始”の合図だ。電話越しのリリーに聞こえる程度の小声で「どいつだ」とつぶやくダーティー。
「既に到着している。正面のシートを見てみろ」
通話したまま目をやれば、そこにはだらりと伸ばした右腕に頬をあずけ眠りこんでいる、およそスパイらしからぬ美少女の姿が!
ウェイトレスに変装した謎の少女エマは、迅速な取り引きを望むダーティーを軽口ではぐらかしつつ、「ねえ、ドライブに連れてってよ」と囁く。
娘ほども年の離れたエマをしぶしぶドライブへ連れ出すダーティー。
約束の地“カナン・モーテル”に向かって、二人の運命のカウントダウンが始まるーー

・映画のなりたち

カナダ出身の新鋭ケヴィン・ファンク監督による待望の2作目『おしゃべりマスク』(原題“Talking Box”)が早くもドロップ!
ソ連崩壊直後のアメリカを舞台に、寡黙で人間嫌いのスパイ・ダーティーが、エキセントリックな美少女エマと行動をともにするうち、あれよあれよという間に国家的な陰謀に巻き込まれていくジャンルレスな作品だ。(ちなみに邦題になっている“おしゃべりマスク”とは、無口なダーティーをからかって政府高官がつけたあだ名である)
前作『東京サマー』が80年代オマージュの映画だったのに対し、こちらは90年代カルチャーを大きくフィーチャーした内容になっている。公開に先立ち行われた来日記者会見の場で、ケヴィンはその動機を次のように語っている。
「次は90sでいこうと決めたのは、音楽を担当してくれたWurtSとの出会いが大きいね。彼は日本で社会学やマーケティングの勉強をしている大学院生で、僕らは映画とは関係なく研究活動を通じて知り合ったんだ。Google Scholarでたまたま彼の論文を目にしたのがきっかけでね。それは今流行りの90年代文化のリヴァイヴァル現象について分析したものだったんだけど、実に興味深い内容だった。次に撮る映画は今までと違ったものにしたいと考えていたところだったから、すぐにピンと来たよ」
ケヴィンがFacebookを通じてオファーを送った時、WurtSは決断を迷っている様子だったというが、その後Zoomで打ち合わせを重ね、京都で開かれたシンポジウムの会場で初対面した二人はたちまち意気投合、夢のタッグ結成へと至った。
「WurtSと初めて会った日のことは忘れられない。好きな映画や音楽のこと、お互いが住んでいる街の印象から政治的な話題まで、とにかく話が盛り上がってね。清水や金閣を回りながら、10時間ぐらいノンストップでしゃべったよ(笑)会話の中で、彼が映像制作に興味を持っていること、自身の楽曲のMVを製作していることを知った。そこで思い切って聞いてみたんだ。だったら、音楽だけじゃなく予告編もやってみない?と。自分以外の人間に編集を任せるのは不安だったけど、彼は見事に期待に応えてくれたよ」
大学卒業と同時にMV監督としてのキャリアをスタートさせたケヴィンは、これまで有名無名を問わずさまざまなミュージシャンとコラボレーションを行ってきた。しかし本人曰く「コントロール・フリークなところがある」彼は、他者が映像編集にタッチすることがどうしても許せなかったという。
それが今回、楽曲制作を全面的に依頼するばかりか(Wurtsは主題歌『Talking Box』も担当)、予告編の編集まで一任したというのだから驚きだ。ケヴィンにとってWurtsとの出会いはそれほど大きな出来事だったのだろう。
こうして、研究者の顔を持つ映像作家(ケヴィンはアートスクール時代に宇宙工学とプロダクトデザインを学んでいた)は、フィールドワークの一環として音楽活動を始めた社会学者の卵(「バズる要素を詰め込んだ実験調査」としてリリースされたWurtsの『わかってないよ』は、TikTokで100万回再生を記録している)と運命的に巡り会った。
そうして、二つの若き才能の融合によって生まれた作品が本作『おしゃべりマスク』なのだ。

・主題(テーマ)の分析に当たって

「いつもはどちらかと言えば、どうやって画面を構成するか、人物やオブジェにどんな演技をつけるか、という技法の側面にこだわることが多いんだけど、今回は相棒の意見を取り入れながら、いろいろなテーマに挑戦してみた」とケヴィン監督自ら語る通り、アクション・カット繋ぎやダブル・イメージの借用などに技の冴えを見せた前作『東京サマー』とは対照的に、今作は種々雑多なイメージが飛び交う実験的な内容となっている。
そこで以下では、映画中から主要なテーマを5つ取り出し、ささやかながら分析を加えてみたい。

①フード・メス

合理主義の国アメリカは、その代償として数々の倒錯趣味やフェティシズムの傾向を生んできた。
例えば、ビキニブラジャーにデニムのホットパンツ、カウボーイハットとといういでたちのブロンド美女が洗車する様子に興奮を覚える“カーウォッシュ・フェティシズム”は、カウボーイ・自動車・ブロンド憧憬という米三大トラウマの見やすい形象化だし、男女が、時にダイヴィング・スーツや酸素マスクまでをも着用の上水中で性的な行為に及ぶ“UW(アンダー・ウォーター・フェティシズム)”が一大ジャンルを形成している事実を知れば、かの国の病状の深刻さが伺い知れるというものだろう。
しかし、なんといってもアメリカンフェティシズムのうちで最も重要なジャンルは“W&M(ウェット・アンド・メッシー)”をおいて他にない。パイやケーキ、生卵や泥などを投げつけあい、半液体状の混沌の中で男女がむつみ合うこのジャンルは、単に病的であるというだけでなく、優れたアクション性を含んでいたために昔から映像作品との相性が良かった。
W&Mのサブジャンルとも呼べそうな演出の一手法、登場人物たちがテーブル上の料理を投げつけ合う“フード・メス”は、笑いの背後に「食べものを粗末にする」タブーを犯す快楽を折り込みつつ、コメディー作品はもちろんのこと、ハリウッド黄金時代のミュージカル映画から現代の恋愛映画にまで顔を覗かせてきた。
今でもよく目にするラブロマンスものの定番シーンーー恋人たちが狭いバスタブの中でじゃれ合いながら泡を投げつけ合うーーもまた、W&Mから性的な要素を取り払ったフードメスのポップな形態であるにほかならない。
してみるに、恋愛映画のパロディーでもある『おしゃべりマスク』において、フード・メス描写が頻出する点は興味深い。
初めて出会ったダイナーで、モーテルに向かう車の中で、ダーティーとエマは笑い合いながら食べ物を投げつけ合う。ウェイトレスが運んでくるブルーベリーパイの上にかかったソースの乱雑さは後にやってくるフード・メス・シーンの前フリになっており、モーテルでの愉快な枕投げシーンや部屋中に羽毛が飛び交う幻想的な情景はメス(mess=散らかす、ひっかき回す)演出の総仕上げとなっている。
また、いたずらっぽい笑みを浮かべて車に戻ってきたエマが手にしたコーラをダーティーにぶっかけるくだりは実にキュートで、エマの襲撃を受けるたびに車を止め、ダッシュボードから黙って予備のマスクを取り出すダーティーの様子もおかしい。
スパイという職業の匿名性を逆手に取ったナンセンスな笑い、「スパイは凡庸に徹すべし。目立ってはならない。だから俺は同じ制服を何着も持ち歩く」というモノローグと目立ちまくりな“制服”とのアンバランスがたまらない。

②スペースシャトルと霊的国防

ここから映画の具体的な内容に踏み込んでいくため、少々重たい話になってしまうことをお許し願いたい。いわゆるところのネタバレにも御容赦を。
本作の舞台は、アメリカ率いる西側陣営とソ連率いる東側陣営の直接の戦火を交えない対立、いわゆる冷戦が1991年のソ連崩壊を契機に一応の終息を見た翌年、1992年のロサンゼルス。
旧政府が敵国に残した負の遺産たる人間兵器・エマの回収を目論むロシア側と、ダーティーをパイプ役にアメリカへの亡命を図るエマとの水面下の攻防が、スペースシャトル打ち上げのカウントダウンの様子になぞらえつつ描かれる。
車内でしばらくダーティーをじっと見つめた後(信用に値する相手かどうか吟味していたのだろう)、エマが切り出すところによれば、なんでも、エマは劣勢に追い込まれたソ連側が最後の望みを託して開発した戦略兵器“リバース・テック・タイム・マシーン”の第一号なのだそう。敵地に潜入し、特殊能力によって局地的に時間を逆行させた上で工作を行うことにより、不利な戦況を一挙にひっくり返す目的があったようだ。彼女の首筋に刻まれた“RTTM”の文字は言うまでもなく“Reverse Tech(nology) Time Machine”の略称であり、戦災で身寄りを失くした孤児に無理な人体改造を施した結果、体内から色素が抜け落ち、その肌は透き通るようなスノウホワイトに、髪はおよそ人間離れしたピンクアッシュに変化してしまったのだという。
ばかばかしい。一見してあまりに荒唐無稽な設定ではないか。ところが実は、時代背景を知ってみればこれがそう突飛な行き方でもないのだから驚く。
冷戦時代、米ソは直接戦火を交えることこそなかったが、逆に言えばそれ以外のことならなんでもやった。外向きには、ベトナムやカンボジアなどの“第三国”において代理戦争を展開し、アジア諸地域に癒しがたい傷跡を残した。内向きには、テクノロジーの熾烈な開発競争を通じて敵勢力を威嚇し続けた。この時期に宇宙工学の技術が大いに発展を遂げたことは偶然ではない。遥かなる宇宙への夢を託したスペースシャトル打ち上げには、ミサイル攻撃の性能の高さを誇示する目的があったわけだ。
だが、驚くにはまだ早い。インターネットの夢が胎動を始めようかというこの時代、米ソ両国は全力を挙げてESP(超能力)開発などのオカルト研究に取り組んでいたのだ。
“霊的国防”という言葉がある。文字通り、霊的・オカルト的な力を使って国を守ろうとする発想のことだ。諸宗教の政治利用までをも含めた“霊的国防”は国体維持においてばかにできない重要な観点であり、先の見えぬ戦況の中で、「あ〜なんかしら人間を超越した神的な存在を爆誕させて一瞬にして戦争終わらせて〜」という妄想じみた願望が膨れ上がっていった結果、為政者たちは人の道に外れたいかがわしい研究実験に精を出すことになったわけだ。
大友克洋の漫画『AKIRA』では、近未来、世界大戦集結直後のNEO TOKYOを舞台に、旧軍の極秘実験により超能力を授かり人間兵器として目覚めた子供たちと、その事実をひた隠しにしようとする軍や政府関係者、そして“健康優良不良少年”たるバイカー少年たちの三つ巴の争いが描かれているが、これは半分は歴史的事実に基づいた内容なのだ。
以上からして、ソ連軍の人体実験によって時間逆行能力を獲得した人間兵器というエマの設定が、冷戦状況下の異様な時代を背景にしてこそ、容易には一蹴できぬ説得力を持ったものであることが頷けるだろう。
実際、二度の大戦後、人体実験を含む禁断の研究が各国で行なわれていた事実が次々と明るみになっている。例えば、ナチス・ドイツが行っていた大規模な人体実験の記録が暴かれた時、世界は戦慄と恐怖を覚えたものだが、その地下シェルターで得られた“成果”が後の医学研究の飛躍的な発展へと繋がった事実は皮肉と言うしかない。
今日、かつてはナチス・ドイツの同盟国であったわれわれ日本国民は、直接の物理攻撃によってだけでなく、オカルト的な想像力の暴走によって奪われた無数の命の上に立っている事実をけっして忘れるべきではないだろう。

③カウントダウン

オカルト的な想像力の現実世界への侵入といえば、いまひとつ指摘しておかなければならない点がある。
本作は、ダーティーとエマ、偶然知り合った“恋人”二人がダイナーからモーテルまでの道中をともにするロードムービーの形式を取っており、その間に物語とは直接関係のないスペースシャトル打ち上げの記録映像が適宜カットバックされる構成となっている。
オカルト的な想像力の高まりとテクノロジーとの関わりについては先の章で指摘した通りだが、こうした構成からはさらに、若き天才ケヴィン・ファンクの企み、「虚構の想像力が現実をジャックする」例の具体的な形を見て取ることができる。
ご存知の通り、スペースシャトル発射のカウントでは10から始まり0に終わるカウントダウン方式が採用されているわけだが、では、なぜわざわざ10から数え始めるのか、なぜカウントアップではなくカウントダウンなのか?という理由についてはあまり知られていない。
実はこれは、1929年にドイツの名匠フリッツ・ラング監督によって製作された映画『月世界の女』に登場するシャトル発射シーンが10から0へのカウントダウン方式を取っていたためなのだ。
つまり、実際のシャトル打ち上げに先行して表れ出たフィクショナルな想像力が、現実世界におけるひとつの様式を決定付けてしまったのである。
アートスクール時代に宇宙工学を学んだケヴィン監督のことだ。当然、本作の画面左側に表示された謎の数字がカウントダウン方式になっているのはゆえなきことではないだろう。実を言えば、あの数字の謎を解く鍵はここに隠されているのだ。
いわく「RTTM、リヴァース・タイム・トラヴェラー=逆行時間旅行者であるエマが体験している特殊な身体時間を表現している」というこのカウントダウンは、同時に、エマがダーティーと過ごす幸福な時間が燃え尽きていくさまを表している。
映画の画面を分割し複数のドラマを同時展開する“スプリット・ウィンドウ”と呼ばれる手法を活用することにより、観客は過ぎゆく刹那の時間を主人公二人と共有することが可能になるわけだ。
愛を知らぬ孤独なスパイと、生まれて初めて人間的な愛情に巡り会った少女。はぐれ者同士のつかの間の逃避行は、モーテルを終着駅に悲劇的な最期を迎えることになる。
瞬間、エマの身体時間のカウントダウンはオールゼロを記録し、“Shuttle Down”の時が訪れるーー
遥かなる宇宙の向こう側からやって来た少女は、再び虚構の想像力の中へと帰っていくのだ。

④ポップなスパイとアンダーステイトメント

ダーティーとエマに迫るロシア側の魔の手は、直接の描写を避け、テレビのブラウン管越しに表現される。新たに設立された情報統制局のキーマン、メッチャコフ・オフロスキー長官による演説(ステイトメント)が二人の行く先々で映し出されるのだ。あたかも、哀れな恋人たちの動向を逐一把握しているかのように。
実はこの場面は、ダーティーとエマが初めての出会うシーンにおいて早くも現れ出ている。シートに向かい合って座る二人の姿がキャメラのパン(水平)移動によって捉えられるところで、ちょうどその中央に設置されたモノクロのテレビモニターに、オフロスキー長官が興奮した面持ちでなにごとかを述べ立てている様子が捉えられるのだ。
注意深く見ていないとなかなか気づきにくいが、サブリミナル的に観客の不安を煽る憎い演出である。
メッチャスキーの風貌はいかにもロシア的な禿頭の怪人物として描かれており、その姿を見ているうち、筆者にはふと、近年のアクションジャンルにおける最大の収穫『キングスマン ファースト・エージェント』のことが思い出された。
『キングスマン』はマナーと伝統を重んじる英国紳士が秘密組織のスパイとして大活躍する人気シリーズで、『ファースト・エージェント』は今のところの最新作に当たる。同作の内容は、第一次世界大戦を背景にキングスマン結成へと至るまでの前日譚が描くものだが、ポップでエキセントリックなスパイムービー、戦争時の混乱に乗じたある過失、世界的なスケールで展開されるオカルト陰謀論など、多くの主題を『おしゃべりマスク』と共有している。
わけても、怪しげな術と謀略によってロシア宮廷を隠然と支配した一代の怪人物・ラスプーチンのキャラクター造形はどこかオフロスキーに通じるものがあり、その彼がレイフ・ファインズ演じる主人公の英国紳士とフェンシング流儀で対決するアクションシーンは、映画中の最大の見せ場となっている。
また、キングスマンの作戦本部は、スーツ・テーラリングの本場であるロンドンはサヴィル・ロウ街の一角に佇む仕立て屋の地下シェルター。そのため、新たに組織に加わった人間が最初にこなすべきミッションは自らの体に添うスーツをオーダーメイドで誂えることであり、シリーズの主人公たちはみな最高級のウール地のスーツを一部の隙もなく着こなしている。にも関わらず、どういうわけかわれわれがその装いから受ける印象は至って地味。傍目には大手百貨店の吊るし品と区別がつかないほどだ。
それもそのはず、人目を忍ぶ服装の所以はイギリスのジェントルマン階級=英国紳士が“アンダーステイトメント(控えめな主張)”と呼ばれる美学を持っているためで、いわく「最高級の品を人目に立つことなくさらりと身につけるのが“オックスフォード流”でかっこいい」のだと。
筆者は常々、英国紳士の美に対する姿勢はわが国の戦国時代における忍者や“忍びの美学”に近いものがあるのではないかと考えているのだが、スパイというキーワードと忍び装束からの連想も手伝ってか、本作でダーティーがオレンジのマスクで素顔を隠しているさまを見た時にはつい嬉しくなってしまった。
強引に解釈すれば、『おしゃべりマスク』はイギリス流のアンダーステイトメントに対する日本からの回答であり、英国マナーをアメリカ的なポップさによって読み替えた不敵な挑戦であるとも言えるだろう。
なぜアメリカか?という疑問については、1992年という時代設定の中にヒントが潜んでいる。実はこの年はアメリカのオルタナティブ・ロック・バンド、ソニック・ユースが名盤『Dirty』をリリースした年なのだ。たとえ音楽に明るくない層であってもアルバムジャケットを見れば一目瞭然、だれかさんとよく似たオレンジの編みぐるみが照れくさそうに微笑んでいる。
おそらくは本作の主人公の名前“ダーティー”と、WurtSによる主題歌『Talking Box 〜Dirty Pop remix〜』の“ダーティー”はここから来ているのに違いない。
いかにも90年代カルチャーを参照源とするWurtSらしい発想だが、ケヴィンによるビジュアル化にはちょっとしたいたずら心が含まれてもいる。本人に聞いてみよう。
「ダーティーがオレンジのマスクを着用していることには二つの理由がある。ひとつは、僕の父が車の中でよくかけていたソニック・ユースのアルバムにリスペクトを捧げようと思ったこと。そしてもうひとつは、日本でマスク(覆面)アーティストとして活動しているWurtSをからかってみたくなったこと(笑)実際、僕の中でのダーティーのイメージには、WurtSに対する個人的な印象が反映されているんだ」
もっとも、WurtSが着用しているのはオレンジの目出し帽ではなく、ウサギやライオンなど動物のマスクなのだが。いずれにせよ、覆面アーティストとしての彼の冷静な活動ぶりは、SNSを通じてだれもが手軽に有名になれる時代との間に紳士的な距離を保とうとする、現代流のアンダーステイトメントの発露だと言えるかもしれない。

⑤モーテルと逃避行

さて、われわれの旅も終盤へ差しかかった。
一気に話を進めよう。
車中でことの真相を知ったダーティーは、エマの身柄の保護を求めて方々に手を尽くすが、最後の砦として期待を寄せた上司“モナリザの微笑み”スマイルは、どういうわけかまるで取り合ってくれない。
「残念だがそれはできない」
「もう決まったことなんだ、ダート」
木で鼻をくくったようなスマイルの対応に、珍しく感情をあらわにし、電話越しに怒りを爆発させるダーティー。
「なぜなんだスマイリー!」
「あんたは野良犬同然だった俺をここまで育ててくれた。仕事でしくじった時だって真っ先に庇ってくれた。俺はその恩を一度として忘れたことがない。それが今になってどうして!」
実はダーティーは知るよしもなかったが、この時、オフロスキー長官の画策によって、アメリカと新ロシア政府との間である密約が取り交わされていたのだ。
通話を終え、海の前で呆然とうなだれるダーティー。いつの間にか側に来ていたエマを心配させまいと
「安心しろ。話はついた。信頼できる上司が上にかけ合ってくれるそうだ」
などと気丈なセリフを吐いてみせるが、右頬がほんの少し吊り上げるその笑顔は、いつにもましてぎこちない。
「嘘が下手ね」
一瞬にしてすべてを悟ったエマは、「朝焼けが見たい」とダーティーの手を握る。
はたして夜が明け、水平線の向こうに真っ赤な朝陽が昇る頃。ここまで努めて明るくふるまってきたエマは初めての涙を流す。ガラスとナノファイバーでできているはずの、吸い込まれそうに巨大な瞳から。
「おまえ·····」
「なにも言わないで。最後まで笑顔でいたいの」
再び車に乗り込み、行き着いた先はカナン・モーテル。カナン、旧約聖書に登場する“約束の地”の名称だ。
そもそもモーテルとはモーター(自動車)とホテルの合成語であり、車を横付けして入場できる安価な宿を指す。ダイナーと並ぶアメリカ的空間の象徴としてのモーテルは、数々の名作映画の脇役を担ってきた。
サイコサスペンスの元祖ヒッチコックの『サイコ』に登場する“ベイツ・モーテル”を皮切りに、『俺たちに明日はない』『ワイルドアットハート』『ハネムーンキラーズ』『ノーカントリー』といったあまりにアメリカ的な映画群、さらにはアメリカ的なるものを確信犯的にリミックスしたゴダールの『勝手にしやがれ』などなど、あげつらっていけばキリがない。
要するに、自動車が持つ加速の運動性とホテルという減速及び停滞の運動性が交錯(インターチェンジ)するモーテルこそは、映画内の時間進行を宙吊りにすることによってサスペンスの緊張を盛り上げる、”逃避行映画”の見えざる結節点なのだ。
無論、純然たる逃避行映画であり“モーテル映画”である本作とて、その例外ではない。
己の無力に打ちひしがれ、茫然自失のていでカナン・モーテルのベッドに腰かけたダーティー。その傍らで「最後まで笑顔でいたい」との言葉通り、修学旅行生のように無邪気に跳ね回るエマ。ベッドから飛び出した羽毛が一面に舞い上がる。
羽。翼。空。宇宙。
ここではないどこかへの憧れ。
無慈悲なカウントダウンを宙吊りに(suspend)するこの愉快なシーンは、やがて来る破局のアクションを劇的に際立たせる。
平穏は突如として破られる。二人が泊まった部屋の窓に、人工的な光が差し込む。今しがたヘリに乗って到着したオフロスキーの特殊部隊が投光器を投げかけたのだ。
「やばいぞ、隠れろ!」
ダーティーがそう叫ぶやいなや、隊員たちが雪崩を打って突入してくる。同時に閃光弾と催涙ガスの雨あられ。
「エマ·····俺は·····」
もうもうたる煙と薄れゆく意識の中でダーティーが最後に見たものは、宇宙飛行士のような防護服に身を包んだ隊員たちと、反ボーア式撹拌機能装置を搭載した特殊な寝袋の中に収納され、深く目をつむったままどこかへと連れ去られるエマの姿だった。

・エピローグ

ダーティーが目を覚ました時、あたりはひっそりと静まり返っていた。
虫どもの鳴き声が聞こえる·····
静かな夜だ。
まるですべてが夢の中の出来事だったかのような·····
「ここはどこだ?ちくしょう、俺はなにをしていた?そうだ、エマ·····」
ぼんやりしたダーティーの頭を覚ましたのは一本の電話だった。
「目が覚めたか?」
「スマイル!なんで!俺は·····」
「しゃべるな。いいか、今から私が言うことをよく聞け。それさえ守っていれば、おまえは身の危険を感じることなく一生を送ることができる。ひとつ。ここ数日間でおまえの身の回りに起きたことはすべて忘れろ。誰に会ったとか、どんな会話を交わしたとか、そういうことのいっさいをだ。ふたつ。スパイとは縁を切れ。そうだな、ウィスコンシンやミズーリ·····とにかくできるだけロスから離れた田舎にでも移住して、いい嫁さんをもらって、健康な子供を生んでもらうことだ。田舎はいいぞ、ダーティー」
「スマイル!」
「しゃべるなと言ったはずだ。私の立場も安泰じゃない。みっつめ。これが最後のメッセージだ。二度は言わないから覚悟して聞け」
「なにを····」
「すまない。俺はおまえを守るので精一杯だった。あのシステムはわれわれには·····(聞き取り不能)、幸せになるんだ、ダート」
「スマイル?おいスマイリー!?」
通話は唐突に途切れた。

10年後、アメリカのミズーリ州の北西部に位置するとある村。広々とした田舎の一軒家で妻とともに幸福に暮らしている様子のダーティー。草木の生い茂った庭では、エマとリバース、二人の子供が走り回っている。
その夜、ダーティーが居間で一人で新聞を読んでいると、エマが奇妙な物を持ってやって来る。
「パパ、これなに〜?」
振り返ると、エマが右手にぶら下げていたものは、くたくたになったオレンジのマスク。
なつかしい·····
あれはたしか、例の事件の後、スパイ稼業からきっぱり足を洗い、生まれ変わるつもりでこの村に越してすぐのこと。仕事に応じて使い分けていた数十種類の名刺やパスポートをまとめてドラム缶に入れて焼き捨てた後、あれだけはどうしても捨てられずに納屋の奥にしまい込んでいたのだ。
「こら、危ないから納屋に入ってはいけないと言っただろう」
「ごめんなさ〜い」
「わかればいい。さあハニー、夜も遅いからもう寝なさい。明日は遠足日だろう?」
エマが二階に上がり、再び一人になると、ダーティーは静かな気持ちで娘と同じ名前を持つ少女のことを思い出していた。
暴力と殺戮が支配する残酷な時代に生まれ落ちた人間兵器、とびきりキュートな少女の笑顔を。
そうして気づく。
『あの時、なぜエマは時間を巻き戻さなかったのだろう?』
考えてみれば奇妙だ。
エマが本当に時間旅行者であったなら、最初から敵国のスパイである自分に助力など求めず、戦争の影すら見えぬ幸福な時代にタイムリープしていれば済んだはずではないか。すると、彼女に聞かされた話は嘘だったのだろうか?あるいはすべてが偽りではないにしろ、“Reverse Tech Time Machine”などというばかげた技術は実用化されなかったのだろうか?
しかし一方で、もしそれらが事実でなかったとすれば、ロシア政府が動くはずもなく、あのスマイルが寝返ることも考えられない。なによりもあの夜の出来事をどう説明する?
不思議なことはもうひとつあった。
ガラスとナノファイバーでできた人工の瞳しか持たぬはずのエマが、あの海で見せた涙はなんだったのか。
ひょっとするとあれは、はぐれもの同士の愛が生んだ奇跡だったのではないか?
そう、すべては愛ゆえに·····
そこまで考えた時、ダーティーは不意に破顔した。妻にすら見せたことのない、右頬を吊り上げる例の笑みだ。そしてつぶやく。
「柄じゃない。“おしゃべりマスク”はもう卒業したんだ」
続けざま、ダーティーが乱暴にマスクを放り捨てると、それはひらひらと宙を舞い、カメラに覆い被さる。
オレンジ一色に染まる画面。数秒を置いて、白抜きのタイトルクレジット。
『Talking Box』
暗転ののち、WurtSによる同名主題歌が流れ出し、エンドロールとなる。
「We Can Grow Up Hi-FiなTalking Box
惹かれ合って触れ合って Calling Night·····」

・映画のその後

2034年9月7日。本国カナダのモントリオール映画祭の場でプレミア上映された本作は、観客から大絶賛を浴び、審査員らの評価も上々。インディペンデント製作の映画としては初のゴールデン・バナナ賞を受賞するのみならず、ケヴィン監督は最優秀監督賞の栄誉に輝いた。
WurtSによるミュージック・スコアは、惜しくも同じアジアからの刺客フェイ・カーウァイ監督とタッグを組んだMountiesの前に敗れたが、彼の名はカナダを飛び越えアメリカ全土へと知れ渡ることになるだろう。
よほど馬が合ったものか、聞くところによれば、二人は次作でも引き続きタッグを組む予定だという。若き才能の更なる飛躍が期待される。
『おしゃべりマスク』の日本公開予定は来年10月。
それまでの期間、下記予告編を観賞しつつ、大いに胸躍らせてほしい。
あなたがこれから見る映画は、あなたの中にしかないのだから。



ーーユニコーン映画社代表取締役・脱輪

野生動物の保護にご協力をお願いします!当方、のらです。