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下山事件を読む 第6章 「下山総裁」を目撃した者たち

変わり果てた下山総裁

 1949年(昭和24年)7月6日午前零時25分ごろ、国鉄(常磐線)・下り(上野発・松戸行)の最終電車の運転士は、東武鉄道(伊勢崎線)の高架下を少し過ぎたあたりで轢死体らしきものを発見した。運転士は、発見場所の最寄り駅である綾瀬駅の助役に「調べてもらいたい」と伝え、最終電車を次の駅に向けて発車させた。助役は、ただちに2名の綾瀬駅員を現場に向かわせた。
 現場に駆け付けた綾瀬駅員は「轢死体」を確認した。東武鉄道の高架下を綾瀬駅側にぬけて数メートルのところから約90メートルにわったて遺体や衣類が散乱していた。午前1時ごろ、小菅刑務所(現在の東京拘置所)近くにあった電話で、この綾瀬駅員は、皮膚が白かったので女の死体であるようだと助役に伝えた。報告を受けた助役は、保線区へ現場に急行するよう連絡を入れた。小雨が降りはじめた午前1時半ごろ、助役から連絡を受けた保線係員2名が現場に到着し、下山総裁の名刺や東武鉄道の優待乗車券などを確認した。その後、この保線係員は近くの駐在所で警察官に報告を行い、その報告を受けた警察官はすぐに現場に向かった。
 斎藤(綾瀬駅長)が現場に到着した午前3時20分ごろ、雨は本降りになっていた。斎藤は、列車運行の邪魔にならないように下山の胴体を少し移動させた。その時、大雨にも拘わらず胴体が置かれていた部分の石がまったく濡れておらず、血も全然ついていなかったことを斎藤は不思議に思った。もう一つ不可解なことがあった。斎藤は、警察官や保線係員などと共に、下山がかけていた眼鏡を探した。しかし、眼鏡は遂に見つからなかった。また、ライターも見つかっていない。松本清張は「ネクタイ」、畠山清行は「シガレットケース」、諸永裕司は「ネクタイピン」もなかったとしている。

三越から五反野に行った「下山総裁」

 下山が三越本店の店内に入っていったのが7月5日午前9時半ごろであった。そして、下山の「轢死体」が発見されたのが翌6日午前零時半ごろであった。空白の15時間のあいだ、下山はどこで何をしていたのだろうか?
 それを知るためには、まず「下山白書」を見なければならない。「下山白書」には、失踪後の下山を目撃した者たちの供述が数多く掲載されている。それらを総合すると、下山は三越とその付近を歩いた後、7月5日午前11時半過ぎの地下鉄で浅草に行き、そこで東武鉄道(伊勢崎線)に乗り換え、同日午後1時40分過ぎに五反野駅で下車している。その後、午後2時から5時半ごろまで末広旅館で休憩し、午後6時ごろに轢断現場付近を歩いていることになる。
 しかし、事実はまったく異なるのだ。

三越での目撃証言

 まず、三越での目撃証言から見ていこう。矢田喜美雄(朝日新聞記者)の警察取材によって明らかになった「下山白書」に掲載されなかった供述も含めると、三越店内での下山らしき男の行動は次のようになる。

 三越店内での目撃証言について、松本清張は以下のとおり書いている。

「下山白書」で三越店員高田喜美子、同じく長島シズ子が下山総裁らしき者を目撃したと証言しているのは、いずれも午前9時半から10時過ぎの時間である。この時間から考えて、その人物はまさしく下山本人であったと思う。殊に高田喜美子の口述に、「年齢50歳前後で、背は五尺六寸(約170cm)ぐらい、十七、八貫(約64kg~約68kg)もあろうと思われる肥った社長タイプの人を見かけた。その男のあとを2、3人の男が同時に階段を降りて行ったが、その男達は伴れかどうかは分らない」とあるのは注目してよい。(かっこ内筆者)

出典 松本清張 著「下山国鉄総裁謀殺論」(『日本の黒い霧』に掲載)

 この高田喜美子の証言に関して、柴田哲孝は、捜査一課は目撃者の供述に「絶妙な脚色を施し、自殺説への誘導を目論んでいる」と「下山白書」の問題点を指摘している。

 『下山白書』によると、高田喜美子は「その男の後を2~3人の男が同時に階段を下りて行った」が、「連れかどうかはわからない」と証言したことになっている。だが後に矢田喜美雄が担当捜査官に確認すると、実際の供述は次のようなものだった。
「北口エレベーターのほうから3~4人連れが灰色洋服、黒縁眼鏡でりっぱな体格をした下山さんらしい人といっしょに案内所前を通って地下鉄の方へ出ていった。いっしょの人は連れという感じだった」
 どうやら捜査一課は、どうしても下山総裁が単独行動であったと主張したいらしい。“連れ”の正体が明るみに出ると、よほどまずい事情があるようだ。

出典 柴田哲孝 著『下山事件 最後の証言』

五反野に現れた「下山総裁」

 次に、五反野での目撃証言を見ていく。「下山白書」には五反野での目撃証言が数多く取り上げられているが、矢田喜美雄の著書を読めば多くの供述調書が改ざん・捏造されていたことがよく分かる。そのことについては、以下にいくつか取り上げる。
 しかし、最初に取り上げる長島フク(末広旅館の女将)の供述調書は警察官の「作文」ではないのだ。

 長島勝三郎(長島フクの夫)は、下山の死体が発見された7月6日の翌日正午前、次のように言って西新井署に届け出たという。

下山総裁と思われる人が5日昼過ぎに玄関に現れ、休ませてくれと言って二階へ上がり、5時半ごろまでいた。詳しいことは妻に聞けばわかる。

出典 諸永裕司 著『葬られた夏』

 長島勝三郎が言う「詳しいこと」を知るために、「下山白書」にある長島フクの供述内容の一部を抜粋する。

その男の人相着衣を申し上げると、丈五尺七寸(約173cm)位、色白面長ふくらみのある顔で、眉毛の間が普通の人よりあいていてロイド眼鏡をかけ、髪は七・三に分けており、上品な優しい顔でした。無帽でネズミ色背広、白ワイシャツ、ネクタイをしてチョコレート色ひだのある進駐軍の靴、紺木綿の靴下、黒革財布、メガネ、荷物はなく単独で、酷似するので七月七日に西新井署に届け出る。(かっこ内筆者)

出典 矢田喜美雄 著『謀殺 下山事件』

 長島フクは、失踪当日の下山の姿を寸分たがわず言い当てている。フクの話を信じれば、下山が五反野に現れたことを疑う人はいないだろう。
 これに関して、諸永裕司は著書『葬られた夏』に斎藤茂男(ジャーナリスト)の話を次のように書いている。
 フクの供述が「どうもできすぎている」と疑いを持った検察事務官は、前日にフクの取り調べを行った検察官がどのような服装であったか尋ねてみた。フクの記憶力を試してみたのだ。その結果、フクの回答は「何も記憶には残っておりません」というものだった。
 
 供述調書が捏造されていたことを裏づける証言もある。事件当時、捜査員に供述を行った成島正男は、事件から15年後の1964年、矢田喜美雄(朝日新聞記者)に次のように語っている。
 調書に「家内には、下山さんに違いあるまいと話しましたが」とあるが、成島は「そんな話はだれにもしていません」と言い、「背も高く目も大きく、顔は脂ぎって浅黒く、眉は濃くキリリとした顔で、八の字型眉の下山さんの人相とはまったく似ても似つかない別人でした」と語っている。
 また、「下山白書」で下山総裁を目撃したことになっている辻一郎は、当時目撃した男について矢田には次のとおり語っている。

顔は日焼けして浅黒く、ホホ骨が突き出ていてマユもつり上がり、土工の親分というようにガッチリした大男で胸を張って歩いていました。(中略)私がみた男は西尾末広さんに似ていました。

出典 矢田喜美雄 著『謀殺 下山事件』

 西尾末広は昭和の大物政治家(民主社会党所属)であるが、この画像を見れば、西尾が「土工の親分」なら、下山は「鉄道オタク風」であり、両者は似ても似つかぬ感じがする。
 以上のように、真っ黒に日焼けした肉体労働者風の男がいかにも色白の下山総裁であるかの如く、捜査員は供述調書をでっち上げていったのだ。

 ところで、長島勝三郎について興味深い話が諸永の著書にある。諸永から後年取材を受けた金井岩雄(元捜査一課刑事)の話では、長島勝三郎は金井の先輩で、かつて特高(特別高等警察)に在籍していたという。しかも、金井は「(長島勝三郎とは)関口由三(事件当時捜査一課主任)も顔見知りだった」と述べている。これでは長島夫妻が捜査一課とグルであったかのようだ。いや、何らかのやりとりがあった可能性は極めて高いと思われる。
 関口は長島勝三郎と顔見知りだったことを隠していたようだ。

長島勝三郎と「顔見知りだった」とされる関口由三は、警視庁を引退後の昭和45年、『真実を追う・下山事件捜査官の記録』をサンケイ新聞社から発表している。この本は、もちろん捜査一課の見解を主張する“自殺論”だ。その中で関口は末広旅館に触れ、長島勝三郎について「経歴から見ても対談しても、りっぱな人であった」と評しているが、「知り合いだった」とは一言も書いていない。ちなみに長島フクから調書を取ったのも、関口由三である――。

出典 柴田哲孝 著『下山事件 最後の証言』

 また、「あれはねえ、一目でそれとわかる汚い連れ込み宿でね、とても国鉄の総裁なんかが休むようなところじゃなかった。おかしいねって近所でも噂してたんだよ」と末広旅館の隣に住んでいた高橋初之助の話を、諸永は著書に書いている。長島夫妻は、事件当初から近所の人々に疑いの目で見られていたのである。

 この色黒の肉体労働者のような男は、おそらく末広旅館で休憩した男と同一人物であろう。では、この男は何者だろうか? 加賀山が雑誌「日本」(昭和34年7月号)に寄稿した手記には次の一文がある。

おそらくこの末広旅館の下山氏は替え玉だと思う。旅館の人も総裁その人を知っているわけではない。それらしき替玉を使えば容易にごまかせるというものだ。

出典 加賀山之雄 著「下山事件! その盲点と背景」(雑誌『日本』に掲載)

 松本清張も加賀山と同様に替玉説を採っている。具体的根拠を挙げて以下のとおり推理している。

それがニセの下山であることは、長島フクの所で休憩した時の動作でも分るのである。ここでは3時間半ほど休憩しているが、あれほど煙草好きの下山が、一本も煙草を吸っていないのである。吸殻が一つも残っていないことでその事が分る。普通、思い悩んでいる人間は、煙草を吸う人である限り不断より余計に吸う筈なのである。3時間半もいて一本も吸わないという理由が分らない。私がこの稿の取材に遭難現場に行ったとき、下山さんの遭難碑の前に誰が供したのか中身のつまったピース一缶が置いてあった。それが雨に濡れていたのは印象的だった。供えた人は、下山の煙草好きを知っていたのであろう。

出典 松本清張 著「下山国鉄総裁謀殺論」(『日本の黒い霧』に掲載)

 末広旅館に現れた「下山」は、本物の下山ではなく、下山の替玉だった。その替玉は、下着以外は下山が失踪した日に身につけていた物を身にまとっていた。そして、その身なりを長島フクに暗記させたのだ。長島夫妻と替玉もグルだったのである。下山とはまったく似ていない、下山の洋服をまとった肉体労働者のような男のことを、長島勝三郎が「下山総裁と思われる」として、あまりにも素早く自ら警察に届け出たことと、長島フクが不自然なまでに正確無比な供述を行ったことをもって、長島夫妻は替玉と共謀したと認定してもよいのではなかろうか。長島夫妻は犯行グループの計画に一役買ったわけである。
 ここで、替玉(犯行グループ)と長島夫妻と警察が繋がった。警察を動かすことのできる大きな組織が犯行グループの背後に既に見え隠れしている。
 加賀山は、長島夫妻が替玉に騙されていたという口ぶりだが、仮に長島夫婦と替玉がグルであることに加賀山が気づいていたとしても、あるいは知っていたとしても、そんなことは立場上口が裂けても言えないわけである。

 長島フクに暗記させるためだけではなく、付近の住民に「下山」を“目撃”させるためにも替玉は下山総裁の物を身にまとう必要があった。これに関して、上記の成島正男は矢田にもう一つ重要なことを語っている。次のとおりである。

それにしてもおかしいのは、警視庁で見せられた(下山の)靴のことです。私がトンネルで会った男の履いていた靴と瓜二つでした。すると、別の男(トンネルで会った男)が下山さんの靴をはいていたとでもいうのでしょうか。(かっこ内筆者)

出典 矢田喜美雄 著『謀殺 下山事件』

 五反野の「下山」が替玉であることは判った。では、本物の下山はどうなったのだろうか? 加賀山は、雑誌「日本」に発表した手記で下記のとおり推理している。

下山総裁は非常な情報好きであった。自分の配下や友達を通じて私達の知らないような情報をキャッチし、それを後で私達にひけらかして、俺はこういう事まで知っているんだぜ、と得意になるようなところがあった。だから彼のこういう習癖を知っている犯人が、重大な情報があるから独りで三越へ来てくれないか、と巧みにおびき出した可能性は十分ある。そして三越の地下で脅迫されてどこかへ連れ出されたのだ。つまり三越地下から誘拐される可能性は十分にあるわけである。

出典 加賀山之雄 著「下山事件! その盲点と背景」(雑誌『日本』に掲載)

 下山は、三越からどこかへ連れ去られ、そして身ぐるみ剥がされ下着だけの状態になっていたのだ。

 ここで、そもそも、なぜ犯行グループは五反野に替玉を出現させたのか考えてみたい。それは、言うまでもなく本物の下山総裁が自殺したように見せかけるためだ。轢断現場の程近くにある五反野に独りぼっちの「下山」を出現させることにより、「自殺寸前の下山総裁」を演出したのだ。また、五反野に「下山」を出現させた理由をもう一つ考えることができる。それは、下山総裁が五反野に本当にいて後に下山が自殺したと警察が判断したならば、事件発覚後、実際の拉致監禁場所に捜査が及ばないというメリットが生まれるからだ。

 最後に、替玉について松本清張は、「下山になりすました替玉はむろん日本人であろう。(中略)その男は今となっては永久に追及することは出来ないに違いない」と著書「下山国鉄総裁謀殺論」に書いているが、かつてCIAの協力者であった真木一英によれば、替玉は東京都江東区に住む李という男で、下山総裁の替玉であったことが露見しそうになったので昭和30年秋に殺されたとのことである。                                                             

(つづく)

参考文献
畠山清行 著『何も知らなかった日本人』祥伝社文庫(2007年)
松本清張 著「下山国鉄総裁謀殺論」(『日本の黒い霧』に掲載)文春文庫(2004年)
柴田哲孝 著『下山事件 最後の証言』祥伝社(2005年)
諸永裕司 著『葬られた夏』朝日文庫(2006年)
矢田喜美雄 著『謀殺 下山事件』講談社文庫(1985年)
加賀山之雄 著「下山事件! その盲点と背景」(雑誌『日本』に掲載)講談社(1959 年)

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