見出し画像

下山事件を読む 第7章 自殺説 対 他殺説

 前章で登場した辻一郎が見た五反野の「下山」は、下山総裁の替玉であった。「下山白書」には、その替玉の様子に関する辻の供述が次のとおり掲載されている。

東武線に沿って消防小屋の方から常磐線の現場手前のガードの処に来ると千住方面からガードの方へ線路の枕木の上をブラブラ歩いて来る男と一緒になった。(中略)其の男は電車のくる方向に背を向けて歩いて居たので随分命しらずの者だと思った。

 このように、替玉は「自殺寸前の下山総裁」を演じたのである。しかし、だからと言って本物の下山が自殺していないという結論にはならない。実際のところはどうなのだろうか?

司法解剖

 1949年(昭和24年)7月6日午後1時40分ごろから、東京大学の法医学解剖室で古畑種基(教授)指揮、桑島直樹(講師)執刀のもと司法解剖は行われた。古畑は、下山の遺体にあった傷に生活反応が認められないことから、死後轢断と結論づけた。つまり、列車は死体を轢いたことになり、したがって下山の死は他殺によってもたらされたことになる。なお、「生活反応」とは、生きている人間の身体にだけ起こる反応のことで、具体的には皮下出血や炎症などのことをいう。ただし、局部など数か所に皮下出血などの生活反応を有する傷が認められた。これらの傷は、生前に局部蹴り上げなどの暴力を受けたことによりできた可能性も指摘された。

 その一方で、慶應義塾大学の中舘久平(教授)が生体轢断を主張し、死後轢断を主張する古畑と対立した。ただし、中館は下山総裁の遺体を実際に診ていない。
 
 東京12チャンネル(現在のテレビ東京)で1961年(昭和41年)に放送された『私の昭和史』という番組で、古畑が「他殺であるという考え方は今でも変わっていない」と述べたことが、畠山清行の著書『何も知らなかった日本人』には書かれている。

警視庁内での見解の対立

 強盗や殺人などの犯罪を担当する捜査一課と知能犯などを担当する捜査二課は事件当初から意見が対立していた。捜査一課は自殺の線で、捜査二課は他殺の線で捜査を行っていた。ここで、捜査一課と言えば、かつて共産党対策の専門家であった長島勝三郎(末広旅館の主人)と知り合いである関口由三(捜査一課主任)が事件当時在籍していた部署だということを想起してもらいたい。      
 また、メディアも自殺説と他殺説で二分した。毎日新聞は自殺説で論陣を張り、朝日新聞と読売新聞は他殺説で論陣を張った。世間も自殺説と他殺説で真っ二つに割れた。
 ところが、警視庁では事件から1か月後の1949年(昭和24年)8月3日に行われた捜査本部合同会議の場で、急転直下「下山総裁は自殺した」と断定し、事実上捜査を打ち切ってしまった。その一方で、捜査二課は捜査を継続して行っていったが、同年12月初め、捜査二課で陣頭指揮をとっていた吉武辰雄(二係長)が上野警察署へ異動となってしまった。そして同月31日、田中栄一(警視総監)は捜査本部を解散した。翌年4月には捜査二課の刑事たちの多くが異動させられ、捜査二課による下山事件の捜査が事実上終了させられた。
 
 ここで一応、自殺説の根拠について簡単に触れておく。主なものを4つ挙げると、①(轢断現場に程近い五反野で)多数の目撃者がいたから、②下山はノイローゼだったから、③ベテラン刑事の勘が働いたから、④下山の上着のポケットからカラスムギが出てきたから、⑤轢断列車に下山のものと思われるゼリー状の血痕が付いていたから、ということになる。
 ④については、五反野の「下山」がカラスムギを摘んでいたところを目撃した者の供述と一致するので、五反野の「下山」は下山本人であり、したがって下山総裁は自殺したという理屈になるらしい。しかし、五反野の「下山」が替玉であることが判明した今となっては自殺説を補強する理由にはならない。むしろ、五反野の「下山」=替玉が下山本人の洋服を身にまとっていたことの証拠となる重要な事実である。
 ⑤について、小宮喬介(元名古屋大学法医学教授)はこう言っている。

ゼリー状というのはまだ固くかたまった状態ではないが、ある程度固まった状態である。そのようなゼリー状を呈する血液というものは、生体から出た血液に限る。死体から出たものは凝固しないのだ。そこでぼくは、死後れき断ではなく“生体れき断”とみている。生体れき断とすれば、まずは自殺と考えなくちゃなるまい。

出典 矢田喜美雄 著『謀殺 下山事件』

 それに対して、古畑は「むかしは凝血を生前のものだとしたが、今日では死後でも数時間内は凝血することが定説である」と説明している。

 古畑教授は、東京12チャンネルの番組『私の昭和史』で事件当時の捜査について感想を述べている。畠山清行の著書『何も知らなかった日本人』には次のように書かれている
 古畑は、警視庁は捜査を非常によくやったとした上で、「警視庁の調べ方は、ふつうの殺人事件として捜査しているところに大きなミスがあります。あれを国際犯罪の一つとしてね、頭を切り替えて捜査しなけりゃならなかった」と批判しつつも、「当時の警視庁としては、そんな日本人以外のことを調べるということは、困難があってなかなかできなかったのではないかと思いますね」と一定の理解も示している。

「下山白書」の“スクープ”

 警視庁では当初、内部で既に決定した捜査結果(下山の「自殺」)を公式に発表しようとしていたが、何者かにその発表を止められた。そこで、故意に内部資料を流出させて、雑誌に掲載させることにより非公式に捜査結果を公表して事件の幕引きを図ろうとしたと言われている。その内部資料とは今まで何度も出てきている「下山白書」(正式名称「下山国鉄総裁事件捜査報告」)のことで、実際に1950年(昭和25年)1月5日に『文藝春秋』(昭和25年2月号)と『改造』(昭和25年2月号)の誌上に掲載された。
 松本清張は、これに関して「或る通信社の記者が警視庁から資料をひそかに手に入れたと称して(『文藝春秋』と『改造』に)売りつけたもの」としながら、「この資料の出し方に警視庁側の芸の細かい演出の匂いが強い」と記述している。このように松本は、警視庁側が意図的に「或る通信社の記者」にリークしたことを示唆している。警視庁が苦肉の策として「下山白書」を故意に漏洩させたことは、私には事実だと思われる。
 ここで、誰が捜査結果の発表を止めたのか疑問がわく。毎日新聞の取材に対して坂本智元(刑事部長)は「GHQ、日本政府、どちらからも目に見える圧力はなかった」と語っている。しかし、事件当時、捜査当局に口出しできるのはGHQしかいなかったとする意見も根強い。たとえば、佐藤一(『下山事件全研究』の著者)はGHQが抑えたと考えていたらしい。では、GHQが捜査結果の発表をストップしたならば、その理由は何だろうか? それは、GHQが他殺をにおわすことも重要だと考えていたから、と推測することもできるのだ。つまり、日本共産党員あるいは日本共産党シンパの仕業だと見せたかったということだ。反共宣伝のために利用するという考え方だ。レッド・パージが本格的に行われつつある時のことだから、そのような穿った見方をする者も出てくるだろう。下山の遺体が見つかったのが1949年7月6日で、同月19日以降“すかさず”イールズ声明が出されていったことは前述のとおりだ。
 いずれにしても、捜査当局としては、このような強引な形で捜査の決着をつけた。その結果、自他殺不明という非常に後味の悪いものになった。しかし、まさにこの自他殺不明こそ、事件の黒幕がねらっていたことであるとする作家も複数いることは注目に値する。諸永裕司は著書『葬られた夏』に「自他殺どちらとも結論が出ないという、この状況こそが本当の狙いだったのではないか」と書いている。

 事件発生から「下山白書」の発表まで時系列に沿ってまとめておく。

他殺説の根拠

 ここからは、他殺説の根拠となりそうなものを以下に列挙し、それらの内容を見た上で、最終的に自殺なのか他殺なのか判断したい。

① 貸金庫に春画が残されていたこと
 下山総裁が失踪する直前の1949年(昭和24年)7月5日午前9時ごろ、下山が千代田銀行に立ち寄ったことは第5章で述べた。下山は、そこで貸金庫を開けたのだが、事件後に調べてみると、その中に春画が残されていた。松本清張は、「もし覚悟の自殺ならば、そんな物は必ず持ち出して処分しているであろう。まして、下山総裁は日頃から見栄坊であったという」と書いている。

② 死体に生活反応が認められなかったこと
 上記のとおりである。

③ 死亡推定時刻が列車に轢かれる前の時間であること
 東京大学(裁判化学教室)の秋谷七郎(教授)の実験から、死亡推定時刻は「7月5日午後9時30分を中心とする前後2時間のうち」という結果がでた。なお、司法解剖を行った東京大学(法医学教室)の桑島直樹(講師)が出した死亡推定時刻は、「7月5日午後9時を中心に前後2時間の幅のなか」というものであった。轢断列車が事件現場を通過したのは6日午前零時20分ごろである。

④ 失血死の疑いがあること
 これに関しては、第6章で次のとおり記述した。
「斎藤は、列車運行の邪魔にならないように下山の胴体を少し移動させた。その時、大雨にも拘わらず胴体が置かれていた部分の石がまったく濡れておらず、血も全然ついていなかったことを斎藤は不思議に思った」
 これは、言うまでもなく、地面に血がついておらず、また雨と共に血が地面に浸み込んでもいないということを意味する。
 松本清張は著書「下山国鉄総裁謀殺論」に「ワイシャツ、ズボン、アンダーシャツ、下着、靴も調べたが、どれも血がついていないようであった」と書いている。

⑤ 衣類に油や染料の付着があったこと
 下山が着ていた衣類については、血が付いていなかったものの、上着と靴を除いて油汚れがひどかった。ワイシャツや肌着、フンドシ、靴下に付着していた油の量はコップ一杯分とも二杯分とも言われている。この油は、機関車に使われる鉱物油ではなく、植物性のヌカ油であることが後に判明した。
 また、衣類からは色素が検出され、その後、衣類や靴から色のついた粉末が発見された。この粉末を分析した結果、最初に見つかった色素は塩基性のもので、染料の成分であることが判明した。その色については、青緑・紫・赤・褐色などであった。
 衣類についた油や染料は、工場のようなところで殺害されたのではないかという考えを起こさせる。松本清張は、その工場とは進駐軍の軍需工場ではないかと推理している。

⑥ 靴の内外にヌカ油の付着がなかったこと
 
靴下にヌカ油の付着があったにもかかわらず、靴の内側も外側もヌカ油の付着がなかった。このことから、下山が轢断場所で靴を履いていなかったことが分かる。しかし、靴には大きく破損している部分があった。これについて、東京大学の研究室員の見解は次のとおりである。

総裁は靴をはいていなかったのに、左右の靴が列車にひかれてこわれたということは、第三者が靴をレールに置きでもしないことには起こりえないことである。

出典 矢田喜美雄 著『謀殺 下山事件』

⑦ 靴にチョコレート色の靴墨が塗られていたこと
 
下山家同居人の中村量平は、毎晩だいだい色の靴墨で下山の靴を磨いていた。ところが、事件後に下山の靴にはチョコレート色の靴墨がベタベタに塗られていたことが判明した。中村は「町の靴磨きならこんな手荒い磨きかたはしない」と言っている。

⑧ 靴ひもの結び方が下山のやり方と違っていたこと
 下山夫人は「主人のヒモの結びかたとはまったくちがいます」と言っている。

⑨ 死体と比べて洋服の損傷が軽微であること
 
洋服の損傷が軽微であることは、何者かが下山の死体の上、あるいはその近くに置いたことを想像させる。松本清張は次のとおり書いている。

線路上に横たわった下山の死体は、確かにワイシャツと上着が掛けられてあったと思われる。つまり裸の上に被せられた状態ではなく、掛けられていたのである。そのことは死体が轢断されているのにワイシャツも上着も少しも破れても裂けてもいなかったことで立証出来る。もし、死体がそれらのワイシャツ、上着を着ていたならば、肉体と共に切られたり裂かれたりしていなければならないのである。

松本清張 著「下山国鉄総裁謀殺論」(『日本の黒い霧』に掲載)

 松本は「ワイシャツも上着も少しも破れても裂けてもいなかった」と書いているが、矢田の著書『謀殺 下山事件』には「ワイシャツ(中略)背中部がまんなかから右よりにさけていた」「上着(中略)背中中央部から下方へ右斜めに切れ、右ソデ付の後ろまでさけていた」とあり、ひっくり返して見れば損傷があったというのが事実であろう。
 また矢田によると、上着の右胸内側の部分にだけヌカ油がついており、その部分がワイシャツのヌカ油が付着していた部分と一致するとしている。したがって、下山がワイシャツを着ていたならば上着も着ていたことになりそうだ。矢田は、「上着内側胸部の油の汚染は、轢断現場で上着が着せられたことを推定させる材料である」と述べている。
 上着とワイシャツが密着していたとすれば、それらは下山に着せられていた可能性が高く、この件に関しては矢田に軍配が上がりそうだ。

⑩ 死体発見現場に下山の眼鏡やライターがなかったこと
 第6章で書いたとおりである。

⑪ 下山のものと思われる血痕が轢断現場より手前の場所で発見されたこと
 矢田喜美雄(朝日新聞記者)は、轢断現場より手前の場所で血痕が発見されたという情報を7月15日にCIL(GHQの犯罪捜査研究室)のフォスター軍曹から得た。その血は、国家警察科学研究所で既に鑑定済みで、下山と同じA型血液であるという結果がでているとフォスターは言った。矢田は、実際に現場に行ってルミノールを散布してみた。その結果、列車進行方向とは逆に向かって轢断現場から上り方向(北千住駅方向)約200メートルの間に83か所の血痕が発見された。採取ができた52か所の血痕のうち検体となったのが39か所の血痕で、また、そのうち人間の血液で間違いないとされたものが29か所の血痕で、さらに、そのうち科学的に間違いがない反応が出たものが15か所の血痕であった。その結果は、驚くべきことに15か所の血痕すべてが下山と同じA型の血液型という判定であった。
 下山の血液型をさらに詳しく分析すると、親族の血液型に基づいて約70%の確率でAMQ型という結果がでた。AMQという血液型は、100人に3人しかいないという珍しいもので、A型の血液型と判定された15か所の血痕のうち4か所の血痕からAMQ型の血液型が検出された。その4か所の血痕のうち一つは、現場近くにあったロープ小屋で見つかった血痕であったことから、下山の死体は、線路に置かれる前、このロープ小屋に隠されていたのではないかと推測する者は多い。
 以上のことから、発見された血痕は下山の死体が運ばれたルートを物語ると思われる。
 
 ④と⑪がやや矛盾しているようにも感じるが、東大の古畑教授によれば、轢断地点から上手で発見された血痕の血量は多くても15ccと少量なので、矛盾することはないようである。
 結論として、上記の事柄を総合的に判断すると、他殺であることは間違いないということになる。

(つづく)

参考文献
畠山清行 著『何も知らなかった日本人』祥伝社文庫(2007年)
松本清張 著「下山国鉄総裁謀殺論」(『日本の黒い霧』に掲載)文春文庫(2004年)
諸永裕司 著『葬られた夏』朝日文庫(2006年)
矢田喜美雄 著『謀殺 下山事件』講談社文庫(1985年)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?