見出し画像

下山事件を読む 第5章 下山総裁の失踪

 前置きが長くなったが、ここから下山事件の具体的内容を見ていく。    
 
 下山総裁は、国鉄総裁就任から1か月後の1949年(昭和24年)7月2日、大規模な人員削減計画について労働組合と最後の団体交渉を行った。組合側の「それでは、どうしてもやる気か?」との最後の問いに対して、下山は「どうしてもやるのだ」と毅然と宣言した。その後、国鉄側は整理の具体的進め方の協議に入った。第一次人員整理言い渡し(国鉄職員の解雇通告)は、同月4日が米国独立記念日であることからこの日を避け、5日に行うことを決定した。

下山総裁に対するシャグノンの圧力

 労組との最後の話し合い直後のことに関して、警視庁が作成した下山国鉄総裁事件捜査報告(通称「下山白書」)に以下のような記述がある。
 7月2日午後10時ごろ、下山はCTS(GHQ 民間運輸局)のシャグノン中佐のもとへ加賀山(副総裁)とともに出向く予定であった。しかし、加賀山との待ち合わせ場所に下山が現れなかったので、加賀山は一人でGHQに行き、シャグノンに話を伝えてもらうようGHQ宿直将校に依頼して帰った。
(下山は無断で帰宅してしまったのか? また、どういう内容の「話」だろうか?)
 その後、シャグノンから帰宅していた下山に呼び出しの電話があったが、下山は「車がないので行けない」と断った。
(それならば、こちらから下山邸に行こうとシャグノンは決めたのだろう)
 3日午前1時ごろシャグノンが下山邸に到着し、午前3時ごろまで下山と何か話をして帰っていった。1日に行う予定であった人員整理の言い渡しを先延ばしにした下山を、シャグノンが叱責するために下山邸を訪れたようである。

 かっこ内は私の想像であるが、以上の「下山白書」の文章では内容がよく掴めない。加賀山は回顧録『下山事件の陰』のなかで、より具体的に次のように記述している。
 CTSは、第一次人員整理の言い渡しを1日でも早くやれと国鉄に圧力をかけていた。しかし国鉄は、万全の準備が必要であったため、すぐには言い渡しを行えないという決定を7月3日夕方に行った。この決定をシャグノンに報告するため、同日午後11時ごろ、下山と加賀山はGHQに行ったが、シャグノンは不在だった。そこで、その決定内容をシャグノンに伝えてもらうようGHQ当直の将校に依頼して帰宅した。その直後、翌4日午前零時過ぎ、下山から加賀山に電話があり「シャグノンが東京駅から電話をかけてきて大変怒っている。俺の家へ来ると言って電話を切った。何かあったらまた連絡する」と言って一旦電話を切った。加賀山が寝ないで待機していると、再び下山から電話がかかってきた。下山は、シャグノンの様子を加賀山に次のように伝えた。「酒を飲んでいるらしいが、大きなピストルを胸につけて何かくどくど言っていた。(人員整理の言い渡しをすぐには行えないという決定を)了解したと見えて大人しく帰って行った」

 加賀山によると、下山は待ち合わせ場所に現れなかったわけではなく、下山と二人で予定通りシャグノンのもとを訪れている。また、日付が「下山白書」のものより一日ずれている。両者の記述内容にいくらか齟齬があるものの、下山がシャグノンから相当な圧力を加えられていたことは間違いなさそうだ。

シャグノンについて

 シャグノンとは、どのような人物なのか少し見ていきたい。加賀山は次のとおり書いている。

シャグノンはかなり悪い事もしたが伝えられている程の大悪人ではなく、私は彼のことをドン・キホーテを地でいったような人間だと思っていた。

出典 加賀山之雄 著「下山事件の陰」(文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』に掲載)

 畠山は以下のとおり書いている。

シカゴのイリノイ大学工学部の出身で、イリノイ・セントラル鉄道に勤めたのち、第一次世界大戦に従軍、第二次大戦でも軍事輸送専門の将校として欧州戦線を駆けまわったが、日本本土侵攻にあたってマニラの米軍に配属された人物だ。もともと現場の主任級の男で、鉄道全般の広い知識などないのだが、それが日本へきて、国鉄という大世帯の運営と改組指導の全権をまかされたのだから、まるで天下をとったような気になったのも当然である。日本の鉄道を「マイ・レールロード(俺の鉄道)」と称し、気に入らないことがあるとピストルをひねくりまわす、こんな粗野な一面があった。

出典 畠山清行 著『何も知らなかった日本人』

 松本清張によると、同じ幕僚部のGS側にいたシャグノンは、後に参謀部のG2側についたという。また松本は、CTSの一担当者でしかないシャグノンは大した男ではないと言いつつも、彼のバックにウィロビー(G2部長)が控えていたので絶大な権力を持っていたと言っている。

下山総裁の奇行

 シャグノンの下山邸退去から十数時間後の下山に関しては、「下山白書」に以下のような記述がある。下山の精神状態が尋常ではないと思わせるような内容になっている。
 7月4日午後3時ごろ、下山は法務庁の受付の所に行き「佐藤(藤佐)長官(法務総裁官房長)に会いたい」と言った。受付は、佐藤の後任に柳川(真文)が長官に就任していることを伝えた後、柳川と会うかどうか下山に尋ねたら「会う」と言うので柳川のもとに案内した。下山は、柳川の部屋に入るなり「電話をちょっと貸して下さい」と言って勝手にどこかへ電話をかけてしばらく誰かと会話をした。その後、下山は、とりとめのない話をして柳川のもとから去って行った。この件について柳川は「失礼な人だ」「普通でない」という感想をもらしている。
 東京駅でもおかしな行動をとっている。
 同日午後5時半ごろ、下山は東京駅の2階にあった国鉄公安局長室に現れた。そこで、芥川(局長)が職員に「お茶を持ってこい」と命じると、下山は「お茶はいらない」と言っておきながら、芥川の飲みかけのお茶を手に取り飲んでしまった。しばらくして、芥川が下山にアイスクリームを勧めると、下山は「いらない」と断っておきながら、新聞を買いに行って席を外していた橋本(国鉄公安一課長)の席に置かれたアイスクリームを取って食べてしまった。

 シャグノンの訪問が原因でノイローゼ気味の下山の病状がさらに悪化したことにより、下山がこのような奇妙な行動をとったとも考えられる。これらの証言内容が事実なら、下山の精神状態が異常をきたしていたということは確からしいので、この後に下山が自殺しても不思議ではないと感じる。後に「自殺説 対 他殺説」の論争が巻き起こるが、自殺説の有力な根拠が、この下山の「ノイローゼ」なのだ。

失踪直前の下山総裁

 このような異常行動が目撃された日の翌日に下山は失踪した。「下山白書」にある大西運転手の供述内容を読むと、下山が失踪するまで、だいたい次のようになっている。
 1949年(昭和24年)7月5日午前8時20分ごろ大西政雄(運転手)が運転する公用車(黒の1941年式ビュイック)で自宅を出発した。御成門付近で下山が「佐藤(栄作・衆議院議員)さんのところへ寄るのだった」と言ったので、大西が「引き返しましょうか?」と尋ねると、下山は「いや、よろしい」と言った。東京駅前ロータリーの所で下山は「買い物がしたいから三越(日本橋三越本店)へ行ってくれ」と言った後「今日は10時までに役所へ行けばよいのだから」と言った。その後「白木屋でもよい」と下山が言ったので、大西はまず白木屋前に行ったが入り口がまだ開いていなかった。次に向かった三越も同じく開店前であった。「役所へ帰りますか?」と大西が聞いたら、下山は「うん」と言った。ところが、左折すれば国鉄本社にすぐ着くという場所(常盤橋付近)で、突然「神田駅に回ってくれ」と言った。神田駅付近まで来て大西が「お寄りになりますか?」と尋ねたら、下山は「いや」と言った。その後、下山が国鉄本社に出勤するものと思って運転していた大西は、下山から「三菱本店(実際は財閥解体で千代田銀行になっていた)に行ってくれ」と命じられ、国鉄本社前で「もう少し早く行け」と命じられた。下山は、千代田銀行で20分ほど過ごし、乗車後「今から行けばちょうどよいだろう」と言って再び三越に行くよう大西に命じた。午前9時35分ごろ三越南口に到着し、「5分位だから待っていてくれ」と大西に言い残して下山は三越店内に消えていった。
 大西が生前の下山を見たのは、この時が最後となる。なお、大西は午後5時に車のラジオから下山総裁が行方不明になったというニュースを聞くまで同じ場所で待機していたという。大西は、一時疑いの目で見られていたようだが、下山が大西を長時間待たせることは度々あったようで、警察による取り調べの結果、疑わしいところはないと判断された。

 下山は事件当日の朝、何度も行き先を変更するという不可解な行動をとっている。このことについて、畠山清行は著書『何も知らなかった日本人』のなかで「幾度も行先を変更する癖があった」と書いた上で、「その日に会う約束の相手に不安をもち、会うべきか否か思いなやんでの度々の行先変更だったのではないか」と推理しているが、なんとなく私も畠山の推理が的を射ているように思う。ただ、下山が「もう少し早く行け」と強い言葉を発しているので、何者かに追跡されているという情報を情報屋か誰かから得た下山が、尾行をまいているようにも思えるのである。なお、畠山は同著に「総裁は、国鉄職員に姿を見られるのがいやだったのではないでしょうか」と大西が後に言ったと書いている。大西は、下山が国鉄本社ビルを見ながら「もう少し早く行け」と言ったのを目撃している。だから、大西はそのような想像を働かせたのである。
 
「その日に会う約束の相手」が本当に存在したならば、その相手とは誰なのであろうか?

(つづく)

参考文献
加賀山之雄 著「下山事件の陰」(文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』に掲載)文藝春秋社(1955年)
畠山清行 著『何も知らなかった日本人』祥伝社文庫(2007年)
松本清張 著「下山国鉄総裁謀殺論」(『日本の黒い霧』に掲載)文春文庫(2004年)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?