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下山事件を読む 第12章 下山事件の証言者たち(その1)

 事件後、下山事件について情報発信した人たちがいる。この章では、彼らが下山事件をどのように捉えていたのか見ていきたい。

宮下英二郎(元CIA協力者)の証言

 宮下英二郎は、下山総裁を誘拐したのは姫路CICに所属する日系二世の将校たちで、この将校に引き合わせたのが銀座にあるR出版社のK部長(元関東軍情報将校)だったと述べている。
 以下、宮下証言を要約する。
 1949年(昭和24年)7月4日夕方、宮下は有楽町の東鉄レイルウェイ・クラブでKと会った。Kは「下山さんに明日渡す日本共産党情報が欲しい」と言った。
 同日夜、宮下は日本共産党の中央委員会事務局に潜入していたCIA機関員から「指令」を入手した。
 翌5日午前9時、宮下は約束どおり日本橋交差点近くにある八洲ホテルに行った。ホテルの玄関にいたKは、宮下をホテルの一室に案内した。その部屋でKは宮下に姫路CICの日系二世メンバー4名、フジナミ・コバヤシ・ヤマダ・タニを紹介した。9時半ごろ、かかってきた電話をフジナミが受けたが、電話が終わるとフジナミ・ヤマダ・コバヤシは拳銃を携帯してKとともに出ていった。Kは去り際に「今夜7時、またレイルウェイ・クラブで会おう」と言った。

 午後9時、Kはレイルウェイ・クラブに約束の時間から2時間遅れて現れ、宮下にこの日の顛末について次のように話した。
 前日の4日、米国独立記念日のパーティーで、Kはヤマダから下山総裁に会わせてほしいと言われた。Kが下山に連絡すると、下山は5日午前9時45分に三越1階中央階段付近で会おうと言った。
 この日の朝、少し遅れてきた下山とともにKは地下街に下りた。後ろからはヤマダとコバヤシが続いた。地下街の飲食店で、Kは下山にヤマダとコバヤシを紹介した。その時、ヤマダは「下山さんに見せたい重要資料がある」と言って自分たちに同行するよう下山に求めた。この要求に対して下山は「会議とGHQへの報告があるから」と言って断ると、ヤマダは拳銃を出して脅しながら同行するよう再び求めた。Kは下山にその重要資料を見るように促し、K・下山・ヤマダ・コバヤシの4名は地上に出て三井銀行本店前に停めてあった高級車に乗り込んだ。
 この高級車は、神田⇨九段下⇨神宮外苑と都内をあてどなく回り、キャノン機関の拠点である本郷ハウス(旧岩崎邸)に行き着いた。ここでKはヤマダと下山の二人とは別の部屋に案内され、そこでしばらく待たされた。午後4時30分ごろ、Kがヤマダに呼ばれて部屋に入ると、下山がソファーの上に倒れて医師の診察を受けていた。その後、Kは隣室に連れて行かれ、「目撃した事実は他言しない」という誓約書に署名させられた後に解放された。Kはこの時はじめて下山の誘拐役をやらされたことに気づいた。
 宮下は、海軍の先輩で宮下が札幌CICの150機関で働いていた時に機関長であった有満美蔵を訪ね、Kの今後の身の振り方について相談した。

 宮下は「昭和24年春ころのアメリカの占領政策は共産党弾圧が中心で、下山・松川の両事件は日本共産党をやっつけるために仕組まれた謀略だったと思う」と述べている。また、下山へ情報提供するようKに依頼したのが村井順(国警警備課長)だったと宮下は述べている。

 宮下によれば、Kは後に東京地検に呼び出されたという。

こんなことがあって十年後、もういいだろうと週刊誌に書いたのが原因で、Kさんは東京地検に呼び出され、佐久間検事の取り調べをうけたというが、顔があまりにも下山に似ていたので、“ニセ下山”つまり替え玉をやったのではないかと、疑われたという。Kさんは顔の広い人で加賀山さんも知人だといっていた。

出典 矢田喜美雄 著『謀殺 下山事件』

 この件について矢田喜美雄はこう書いている。

問題とされているK氏については、東京地検佐久間検事が本人を調べたことは事実であった。同検事によると「K氏は73キログラムの総裁と同じような体重で顔もよく似ていたが、身長が低く替え玉にはなれまい」といい、キャノンハウスで殺されたという話はまったくのデタラメだと、この情報を問題にしていない。また宮下氏の話に出てくる鹿児島出身、海軍の先輩であるという有満美蔵という人については、私の調べでも事件当時は実在の人で在京していたことがわかったが、昭和29年に死亡した。有満という人は札幌CIC日本協力部隊150機関のキャップだったことも事実のようで、7月5日、事件の夜に下山家へかかってきた電話の主「アリマ」という人と同じ姓である点が注目された。

出典 矢田喜美雄 著『謀殺 下山事件』

 なぜKは宮下に姫路CICのメンバーを紹介したのか、なぜKはレイルウェイ・クラブに2時間も遅れてきたのか、なぜヤマダはKを呼んで倒れていた下山を見せたのか、などの疑問が残り、全体的にどこか胡散臭い感じがする内容になっている。

新谷波夫(元大阪CIC協力者)の証言

 矢田の著書にある新谷波夫の証言を要約すると次のようになる。
 新谷が大阪CICに出入りしはじめたのが1947年(昭和22年)で、東京CICなどに書類を届ける仕事を始めたのが翌1948年だった。1949年7月初頭、新谷は不思議な体験をした。
 7月3日、ジョン・タナカ中尉から切符をもらい急行列車で上京した。その夜は新宿に泊まり、地震で目を覚ました。
 翌朝、新谷が東京CICに電話して確認したところ、タナカは明朝上京すると言うので、4日の夜は浅草に泊まった。
 5日朝、東京CICにいたタナカと連絡がとれ、東京駅のRTO(鉄道輸送事務所)で落ち合い、午前10時からジープを新谷が運転して半日ほど都内巡りをした。
 その「都内巡り」については次のようになっている。
 RTOのすぐ近くにある国鉄本社ビル玄関にジープを止めさせたタナカは、ビルの中に入って行き15分後に出てきた。その後は和田倉門⇨竹橋⇨半蔵門⇨三宅坂⇨警視庁前⇨虎ノ門とお濠端を半周した。虎ノ門を過ぎてからは、六本木⇨広尾⇨渋谷⇨道玄坂⇨大橋と進んだが、ここで新谷はタナカにUターンを命じられた。ワシントン・ハイツ(米軍宿舎)前から新宿へ行き、四谷に向かう途中の新宿御苑で休憩した。そこから明治神宮外苑競技場前に行き芝生の上で昼食をした。
 正午過ぎ、またドライブを続け、四谷見附⇨九段と行き、旧軍人会館(GHQのクラブ)に立ち寄った。その後は都電通りを神保町から須田町へ進み、小川町交差点付近にあった銀行の近くで新谷はタナカに停車を命じられた。ここで「あの銀行のところから出てくる黒いセダンがあったら、それを追いかけろ」とタナカに命じられた。
 20分後、黒いセダンが出てきたので、すぐ尾行した。運転手と一人の男が乗った黒いセダンは、小川町交差点を左に曲がり松住町のほうへ向かった。新谷がスピードを上げて追走すると、すぐに追いついた。総武線のガード下で黒いセダンを追い越してしまい、タナカから「後ろに回れ」と注意された。黒いセダンの尾行は間もなく終わった。湯島天神下でUターンして神田駅のほうに向かった。新谷は、仕事が終わったと思い東京駅に向かってジープを走らせていると、「三越南口駐車場へ行け」とタナカに命じられた。午後2時過ぎ、駐車場に着くと、タナカは三越店内に入って行った。
 30分後、三越から出てきたタナカは、ハトロン紙の包みを新谷に渡して、「俺は仕事が残っているから、お前は先に帰れ」と言って汽車賃を新谷に渡した後、再び三越店内に入って行った。新谷はRTOにジープを返した後、夜汽車で大阪に戻った。
 それから4日後、大阪に帰ってきたタナカは「東京で私たちがやったことを絶対に口外するな。しゃべったら命の保証はないぞ」と新谷に言った。
 新谷は、尾行した黒いセダンの中に誘拐者と見られる連れはいなかったので、「本番に備えた予行練習だったかもしれない」と推測している。また、タナカが三越に出入りしていたので、「下山総裁誘拐計画の本部は三越内の貸事務所のなかにあったと思う」と述べている。

 矢田によると、1949年(昭和24年)7月2日午前6時52分に東京で震度1の地震があったという。このことから、新谷は7月1日に上京し、2日夜に浅草で宿泊し、3日朝にタナカと落ち合ったことになるので、黒いセダンを尾行したのは事件の前々日ということになる。

 上記の「ハトロン紙の包み」の中身は、矢田の文章からは何か分からないが、松本清張は『週刊文春』に掲載された新谷の記事を参考にして、こう書いている。

「国鉄本庁に戻ると、田中は5分ほど中に入っていたが、出てくると“急いで三越に行け”と言った。私は三越の裏側から入り、田中を送り込むと駐車場に車を置いた。
 暫く待っていると、20分ぐらい経っただろうか。田中は大きな茶のハトロン封筒を持って出て来た。そしてそれを私に渡して、“これを持って大阪に真直ぐ帰れ。俺はまだ用事があるから、待たずに直ぐ行け”と言い、そのまま再び三越の中に姿を消してしまった。私は狐につままれたような感じで一瞬ぽかんとしていたが、その晩私は言われた通り真直ぐ大阪に帰ったのである。封筒の中身は国鉄の人員整理名簿であった。私は下山事件が起こったのを新聞で知った。しかし、その事件に自分が少しでも関係しているとはゆめ思わなかった」

出典 松本清張 著「下山国鉄総裁謀殺論」(『日本の黒い霧』に掲載)

 新谷によると「ハトロン紙の包み」の中身は人員整理名簿だったというが、なぜ大阪CICがいち早く人員整理名簿を手に入れる必要があったのかよく分からない。

 なお、松本清張が『週刊文春』の記事を参考にして書いた文章には、矢田の文章の内容と異なる部分がある。一例を挙げると、「チーフのジョン・田中中尉という二世に連れられて東京に来た」となっている。

大野達三(作家)の見解

 まず、大野達三の見解について要点を箇条書きする。
・下山は情報屋から情報をとるために三越に行った。
・予定されていた会議に遅れてまで会おうという以上、情報屋は下山より上位の人、またはその人の使いとみるのか至当である。
・「総裁は本庁へ行くと殺される。共産党は暗殺者を出した」と言われたかもしれない。
・下山は情報屋に誘われるまま車に乗せられたのだろう。
・五反野に現れた下山らしき者は下山総裁の替え玉だろう。
・この替え玉は下山の上着と靴を履いていた。
・事件に任務を帯びて活動した者の中心は下部に働く日本人だろう。
・情報屋が下山を連れ出した車の中には日系二世のCIC要員が乗っていた。
・下山事件を計画し実施したのは米国の情報機関(DRS=CIA極東支部第三部)で、この破壊活動班にCICが協力していたと推定している。
・東京にCIA支部が設置されたのは1947年2月だった。CIA支部の全権を握るガーゲットが東京に来て、日本郵船ビルにDRS(資料調査局)という偽装の看板を掲げてスタートした。ガーゲットはG2から有能な人材を引き抜いて日本におけるスパイ機関を再編成し、この時キャノン機関のキャノン中佐もCIA機関員となった。

 なお、CIAの初代東京支局長はポール・ブルームという人物で、ブルームは1948年に来日しているようだ。ガーゲットが北海道CICの任務を終えて東京に来たのは1949年7月初頭で、それから間もなく一旦米国に帰国したと諸永裕司のインタビューで語っている。また、CIA東京支局長として再来日したのは1951年だったとガーゲットは語っている。

 ここからは、下山事件の計画者は、なぜ替え玉まで使って自殺を装ったのかという謎についての大野の見解を見ていく。
 下山事件を企画した米国情報機関の幹部はGHQ高官にはその計画を知らせず実行したが、日本の捜査機関や国内外のメディアだけでなくGHQの捜査機関も事件を追うだろうから、その真相の一部が暴露されることを警戒する必要があった。
 当時の社会情勢は、何か衝撃的な事件が起これば、それは自然と共産党員や労働組合員がやったと多くの人に思い込ませることができるほど異常な雰囲気がみなぎっていた。共産党員や労働組合員の仕業とされることを望んでいた計画者は、強引に犯人をでっち上げるようなことをしなくても、この謀略は成功すると思っただろう。
 ところが、共産党員の容疑者は出てこず、下山を乗せた自動車を目撃した政府要人(佐藤栄作)の秘書(大津正)が現れたり、死体を運んだルートに血痕が見つかったり、死体から油や色素が検出されたりして、捜査の方向が事件の計画者のほうを向きつつあった。そこで計画者は、警視庁に捜査打ち切りを希望し、あらかじめ用意しておいた「自殺」の伏線で事件を収拾しようとした。
 
 この大野の推論は核心を突いているように思われる。

鎗水徹(元読売新聞記者)の証言

 1949年(昭和24年)7月24日、鎗水徹はシベリア抑留を終えて舞鶴に帰還した。その直後、米国情報機関のDRS(記録調査部)の呼び出しを受けたので出頭した。その時、先方から職を斡旋されたが断った。
 1951年(昭和26年)春、内外タイムスの記者として働いていた時、鎗水は再び米国情報機関から呼び出しを受けたので出頭した。その時、CICの藤井から「君は下山事件に興味はないか? 下山を乗せた車はナッシュ47型の黒いセダンで、米軍キャンプのものだ」という話を聞いた。藤井は何故そのような話をしたのか理由を言わなかったが、鎗水はその車に強い興味を覚え、第八軍の司令部に行って在日米軍の輸入車リストを調べることにした。
 なお、藤井は陸軍中野学校の卒業生で、当時はG2に所属し、公安課の通訳をしていたと諸永の著書に書いてある。
 1952年(昭和27年)、鎗水は内外タイムスを辞めて読売新聞横浜支局に勤めるようになっていたが、下山を乗せたとされるナッシュ47型を追い続けていた。そして遂にその車にスタントン(第八軍情報部勤務の軍属)という人物が乗っていたことを突き止めたが、スタントンは既に日本を去っていた。さらにその車は神奈川県庁に払い下げられていたことが判ったので、神奈川県庁に行って調べてみると、廃車になって鉄屑屋に売られていたことが判明した。
 鎗水は苦労が報われず気落ちしていると、藤井が至急会いたいと言ってきた。そして、すぐに藤井はやってきて、「ナッシュを何の目的で調べているのか? それは新聞社の命令でやっているのか、それとも個人的興味からか?」と言って鎗水を問い詰めた。鎗水が個人的興味からやっていたと答えると、「そういうことをしていいかどうか考えたことがあるのか?」と藤井は鎗水をさらに問い詰めた。この時以来、鎗水は藤井から電話で嫌がらせを受けるようになり、それは半年間も続いた。
 1956年(昭和31年)、鎗水は大阪読売新聞に転勤して間もなく神戸CICから呼び出しを受けたので出頭すると、先方から「下山をまだやっているのか?」と質問を受けた。
 1957年(昭和32年)秋、懇意にしていた熱海の旅館経営者から、是非見せたいものがあるから立ち寄ってほしいという内容の手紙が届いた。年末にこの旅館に立ち寄った鎗水に、この経営者はH・Oという人物が書き残したノートを渡した。この経営者によると、半年前に自分が経営する旅館に数日泊まったH・Oは、近くの海に身を投げて死んだという。

 ここからはH・Oが書いたノートの内容になる。
 小樽出身のH・Oは、樺太で終戦を迎え、短期間の抑留生活を経て、復員と同時に国鉄に就職した。
 1948年(昭和23年)8月、マッカーサー書簡に基づく「政令201号」に反発して四百名の急進左派の労働組合員が職場離脱して上京した。H・Oはこの中の一人であった。その後、H・Oは日本共産党派遣の情報屋グループの一員となった。
 1949年(昭和24年)7月初頭、人員整理に関する団体交渉中、共産党派遣の情報屋は下山と頻繁に会っていた。下山への共産党系労組の動きについての情報提供が、第一次人員整理発表(4日)の翌日朝に行われることが決まった。
 5日朝、H・Oら4人の情報屋グループが乗った車は、日本橋室町3丁目で下山を乗せた車とともに走り出した。神宮外苑に着いた時、下山を乗せた車と別れワシントン・ハイツに入った。ワシントン・ハイツでH・Oたちは、入浴させてもらい、新しい服をもらった。その夜、下山誘拐の偽装工作に巻き込まれたと感じ取ったH・Oは、身の危険を感じワシントン・ハイツから逃亡した。情報屋グループの中にスパイがいて、そのスパイがCICに5日朝に下山と会うことを知らせていたとH・Oは思った。
 その後H・Oは、仲間の3人が台湾の米軍基地で働かされていることを知った。H・Oは、秘密を背負った3人は永久に日本には帰れないと思った。

 ここから鎗水の裏づけ調査の話になる。
 このノートには下山誘拐に参加した仲間の氏名・年齢・出身地が書いてあった。また、職場を離脱して上京して以来、H・Oたちの生活の面倒をみてきたSというスポンサーの氏名・住所・職業などが書いてあった。このノートに書いてあることが事実であるかどうか確かめるため、鎗水は東京都北区の金属会社経営者のSに会いに行ったが、Sに面会拒否されて会うことはできなかった。
 H・Oについては、昭和23年8月に退職届も出さず上京したことや、上京直後は家族によく手紙を送ってきたが一年ほどして消息が途絶えてしまったことを鎗水は確認した。心配した家族は警察に捜索願を出したが、未だにH・Oの消息をつかめない。しかし家族はH・Oの生存を信じて疑わなかった。なぜならば、毎月家族あてにかなりの額の現金が送金され続けているからだ。山形県にいるH・Oの仲間の家族にも鎗水は会ったが、その家族にもH・Oの家族と同様に毎月一定額の送金があることを鎗水は確かめた。東京に帰った鎗水が送金元を調べてみると、国鉄の関連企業である鉄道弘済会が送金していることが判明した。
 最後に鎗水は、情報屋の四人組の中にスパイがいたのではなく、最初からこの四人組はCICの手中にあったというようなことを言っている。

 上記の情報屋グループのスポンサー「S」について、諸永裕司は大原茂夫(元警視庁捜査二課刑事)から実名を教えてもらっている。

 大原は、H・O氏に経済的な援助をするスポンサーがいたことを教えてくれた。
「東京の北区に鈴木金属という会社があったんだが、そこの社長だよ。村山祐太郎というんだ。ピアノ線の製造を手がける会社でね、工場は荒川沖にあった。(元朝日新聞記者の)矢田さんが一度、会いに行ったときは門前払いをくらったらしい」

出典 諸永裕司 著『葬られた夏』

 鈴木金属工業は、戦中はピアノ線の信管バネを陸軍に納入していた軍需産業だった。戦後は国鉄やGHQとの取引で成長していった。鈴木金属工業の社長である村山祐太郎の本籍地は、鎗水と同じ山形県天童市老野森町であった。
 大原によると、鈴木金属工業は以前にも名前が上がったことがあるという。下山家は五千人の会葬者に挨拶状を送ったが、そのうち一通だけ「告別式に参列していません」という内容の手紙とともに返送されてきた。K製油の専務をやっている人物からであった。遺族が改めて調べてみると、告別式の参列者が出した名刺の中にK製油の専務の名刺は間違いなくあった。K製油はヌカ油の捜査対象リストにも挙がっていた。斎藤茂男(ジャーナリスト)によると、K製油はある油脂会社と取引や人事の面で密接な繋がりがあり、その油脂会社が鈴木金属工業の系列会社だったという。

 ここからは、鈴木金属工業とK製油について、諸永の著書から要点を抜粋する。
・K製油は、戦後、米糠からヌカ油を作り、このヌカ油から作った列車洗浄用の洗剤を国鉄などに納入していた。
・K製油の専務は、東久邇宮内閣の頃、政治家の鞄持ちをしていた。その頃、加賀山と知り合った。
・K製油の専務は加賀山とは知り合いであったが、下山夫人への手紙には「下山総裁とは面識がない」と書いていた。
・斎藤が下山の告別式会場にあった名刺のことを尋ねると、K製油の専務は「不思議なことだ」と言い、鈴木金属工業については「知らない」と言った。
・K製油は下山事件の二、三年後に倒産した。
・鈴木金属工業の工場のある場所に、以前、羊毛の染色工場があった。そして、系列の油脂会社もK製油も油を扱っていたので、下山の死体に付着していた染料とヌカ油が重なり合う。
・村山は田中栄一(警視総監)とも縁があった。

 70歳で紫綬褒章を受けたという村山は、キャノンが「友人」として名前を挙げていた警視総監の田中栄一と浅からぬ縁があった。
 東京都北区にある赤羽警察署が戦時中に強制疎開で立ち退かせたアパートを戦後になっても使っていたため、警視総監の田中は立ち退きを求める住民から提訴されたことがある。このとき、鈴木金属がある北区の警察懇談会会員だった村山がこのアパートを購入して警察に寄付し、ことを収めたというのだ。

出典 諸永裕司 著『葬られた夏』

 上記の「ナッシュ」の話も「H・O」の話も唐突な感じがする場面が多々あり全体的に疑わしい内容になっているのだが、諸永も鎗水情報の信憑性が疑わしいとしている。
・H・Oがノートに書いた情報にはいくつも疑問点があったが、インタビューの時、鎗水はそのどれにもまともに答えなかった。
・鎗水の知人が経営していたとされる熱海の旅館を当時の電話帳で調べてみても該当するものがなかった。
などの根拠を挙げて、最後に「鎗水情報とは、謀略を闇のなかに葬り去るための新たな謀略ではなかったか」と述べている。

 最後に、ここで取り上げた者たちの証言内容から読み取れることを以下の表にまとめておく。

(つづく)

参考文献
矢田喜美雄 著『謀殺 下山事件』講談社文庫(1985年)
松本清張 著「下山国鉄総裁謀殺論」(『日本の黒い霧』に掲載)文春文庫(2004年)
諸永裕司 著『葬られた夏』朝日文庫(2006年)

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