ショートエッセイ集 「踊るロンドン奮闘記」
ロンドンで抹茶ケーキを焼いてます
イギリスのお菓子は甘い。日本人には甘すぎる。
イギリスに住みはじめてから、砂糖の激しい主張を感じる市販品に辟易して、時々焼き菓子を作るようになった。
最近家族や友人に好評だったのは抹茶ケーキだ。故郷の福岡で買い込んでおいた抹茶を使い、友人の餞別として焼いた。
インドネシア人のメイとは友人の紹介で出会い、その後互いの家がごく近いこと、二人とも散歩好きなことがわかってよく一緒に出かけるようになった。だがその矢先、急にパリへ引っ越すことになってしまったのだった。
生真面目な直方体に焼き上がった抹茶パウンドケーキは、包丁を入れると断面が鮮やかな若緑色に仕上がっていた。
メイは娘と食べてとても美味しかったと言ってくれ、私たちは別れを惜しみつつパリでの再会を約束した。
普段でも気が向いた時や、娘の一週間分のアフタースクールスナックとしてケーキやクッキーを焼く。小さな気晴らしであり、ささやかな趣味ともなりつつある。
もちろん押し付けるつもりは全くないけれど、もらってくれるという人があれば差し上げる。
「けっこう美味しくできたと思うから、よかったら食べてみて」
自分が書くものも、そんなふうにおすそ分けできたらと思う。
日々の暮らしの延長線上に、書き物も置きたい。
難しく考えず、お互い身構えないで、気軽にシェアできたらうれしい。
私たちの毎日を彩ってくれるものはまた、お菓子の他にもたくさんある。
ドラマや映画、ミュージカルにファッション。
特に今住んでいるロンドンは、ミュージカルやダンス、演劇や音楽といった文化が身近にある街だ。
私は欲張りだから、何でも味見してみたい。縁あって数年間住むこととなったこの街で味わった経験をスパイスに、私なりにエッセイというケーキを焼いてみようと思う。
わりと良くできたと思うものはここに並べておくので、良かったらぜひ試してみてほしい。
中にはキャロットケーキに仕込まれたカルダモンのようにほろ苦いものもあるかもしれないけれど、様々な国から多様な人々が集うロンドンの香りをお届けできたら、と願っている。
先の見えない人生。とりあえずロンドンで踊る七人の外国人
一年間留学する夫に付いて、ロンドンに来た。その後どこに住むかは、最初の一年が終わる間際まで決まっていなかった。
会社派遣での留学だったので、夫は卒業後会社に戻ることになっていたのだが、そのままロンドン勤務となるかもしれないし、あるいはアメリカで働く可能性もあった。
「確率は五分五分だ」
と、夫は言った。
転勤はサラリーマンの習いとはいえ、これでは人生計画も立てづらい。
だが何を隠そう私は元々、どちらかといえば無軌道、無計画な人間である。先行きの不安は感じたものの、基本的に向こう数日のことしか考えられない。
「まずは、この街で生き延びるために、何かしなくては」
とだけ思った。
一方、五歳の娘は絶賛ホームシック中だった。
「彼女の手本になるために、まずは自分がこの場所に馴染もう」
と、とりあえずの目標を定める。
じいっとしていても、誰にも出会わないし、何も起こらない。
そこで手はじめに、近所のダンス教室と編み物教室に参加した。
ダンス教室の初回には様々な人が参加していたが、結局残ったのは女性ばかり七人。
しかも先生を含めて、全員国籍が違った。
ロンドンは移民や外国人が多いところなのだ。
フランス人の先生を始め、中国、スペイン、イタリア、イギリス、ウクライナ各国から一人ずつ、そして日本人の私が、コンテンポラリーダンスのメンバーになった。
先生によれば、教室の最後には近所で発表もするらしい。本番に向けて練習を重ね、ダンスのペアが組まれる。
私のパートナーになったナターリャはウクライナ人だ。
夏のバカンスをドバイで過ごしていた時に開戦を知ったという彼女は、祖国ではかなり裕福な部類であるらしい。
ネイルアートを欠かさず、休みのたびに旅行へ行く彼女は私が難民と聞いて思い浮かべるイメージとはかけ離れている。
ロンドンでは珍しい築浅のマンションに住み、二人の娘を私立校に通わせる暮らしぶりは、むしろイギリスの平均的な家庭よりもかなり余裕があるようにみえる。
好奇心過剰気味の私は、彼女をお茶に誘った。近所のカフェでナターリャは、
「飲んだことないけど、日本人と一緒に飲んでるとかっこいいと思われるかも」
と、抹茶ラテを注文した。明るくて元気な女性だ。私の質問に対しても、生き生きとドラマチックな身振りを交えて答えてくれた。
だがエネルギッシュな語り口とは裏腹に、その内容は、
「兄や祖父に会うために、毎日ミサイルが飛んでくる故国へ一人帰国した」
「子供を遊ばせていた公園が爆撃で消えた」
といった、穏やかな日常とはかけ離れた話ばかりだ。
話の途中で彼女は唐突に、
「あそこのスシはどうかな?」
と立ち上がり、隣の日本料理店から寿司を買ってくるとカフェのテラス席に持ち込み私に勧めた。
「日本人であるあなたの基準で美味しいかどうか教えて」
「サーモンは美味しいけど、米は硬すぎる」
それなりに美味しいと感じたけれど、私は一応それらしい評価を伝えてみる。
それからナターリャは器用な箸使いで寿司をつまみながら、彼女の夫であるレオが密かに母国から脱出した際の話をしてくれた。
戦時中のウクライナでは、男性の出国が禁止されている。だがレオはその禁を破って脱出を試みた。ポーランド国境を目指す彼が雇った車のドライバーは、
「無事に辿り着ける可能性は50:50だ」
と彼に言ったという。
今、娘達の送迎をするレオをよく見かけるから(私の娘と彼らの娘達は同じ学校に通っている)、そのドライバーは夜の闇に沈む森を抜け、彼を無事国境まで送り届けることに成功したらしい。
戦火をくぐり抜けるという命運をかけた試みは、私からひどく遠い。
心を寄せることも難しいほどの、その隔たりに言葉は見つからない。
だが語弊をおそれずに言えば、誰もが常に生きるか死ぬか、五分五分の瀬戸際にいるのではないだろうか。
命というものの危うさと、生々流転の人の世と。
あるいは仏教的な感覚なのかもしれないが、ナターリャと会った帰りのバスでそんなことを考えていた。
それでもなお、隣人の哀しみはやるかたない虚しさとして私に伝わる。
だが、私たちには幼い娘がいる。また年末にはダンスの舞台に立つ予定もある。
無常感に浸っているひまはないのだ。
ああ、ブッダは男だから出家できたのではないだろうか。女には、やるべきことが多すぎてそんな暇はない。
食事を作ろう。洗濯をしよう。踊り、本を読み、英語を学び、芝居も観て、しばしば降る雨のなか学校の送迎もしなくては。
哀しみの募る世界で、手に余る悲劇に立ち尽くしても、私たちはそこに留まるわけにはいかない。
見つからない言葉を微笑みで補いながら、明日もまたここで暮らすのだ。
見た目も故郷もかけ離れた者同士が手を取り合って踊る、人々のアイデンティティがパッチワーク模様を描くこの街で。
パンツ派の私が、ロンドンでBurberry のミニスカートを買った理由
六年前に娘が生まれてから、ほとんどスカートを履いていなかった。
元々パンツ派だったのだが、子供との生活が始まると、スカートを履く意味や目的が完全に消え失せてしまっていた。
持っているのは、コロナ禍の暇つぶしに古いジーンズを作り変えたマキシ丈のデニムスカートだけ。
アップリケをたくさんくっつけたものでわりと評判は良かったけれど、これは足首さえ見えない。
パンツスタイル(というかデニムやスウェットばかり)の生活が数年続いたのち、ロンドンで買ったのはまさかのミニスカートだった。
そんな予定は全くなかったのだけれど。
母が日本から来ていて、買い物に行きたいというので、郊外のアウトレットモールへ行く電車を予約していた。
ところが直前で電車は運休に。母と共に交通事情の不安定なロンドンの洗礼を受けた。
自宅から三十分ほどのところに、Burberry(バーバリー)のアウトレットがあったことを思い出す。
ハックニータウンというその街には、以前優しい日本人ママ友が連れて行ってくれた。パン屋などのおしゃれな店が沢山あるエリアだ。
美味しいパンで腹ごしらえをして、いざBurberry へ。
母の買い物に付き合うつもりが、美しくも実用的な服たちについ夢中になった。
"Special Price"
の札がかかった棚に頭を突っ込んで、素敵なものをいくつも見つけてしまう。
特に目を引いたのは、ニットのミニスカート。ブラウンの地色に、チェック柄をうんと大きくした直線的なパターンが織り出されていて、すっきりと着られそうなデザインだ。
しかし、ミニスカート。しかもフィット感のあるニット素材。
最後にこんなスカートを履いたのはいつだったか、もう思い出すことすらできない。
それでも試着してみる。
だって、Burberry。
上質なのは間違いないし、それに私の世代はBurberryが大好きだった。
安室ちゃんが着たプリーツスカートや、チェック柄のマフラー。
それらは圧倒的に可愛くて、ちょっと高級なスペシャルアイテムだった(同世代の方、覚えてますかっ)。
ショート丈のハイネックセーターと合わせてみると、あら可愛い。
自分のヒザ、久しぶりに見たかも。なるほど、確かに肌が少したるんでるね。
でも、だから何?
全然気にならない。そんなことよりも、見て。
絶妙なハイネックの高さのおかげで、顔立ちが立体的に見える。ヒップラインだってスッキリしてる。
キャメルやブラウン、差し色のダークレッド。なめらかなニットのテクスチャー。
完璧だ。
つまり、ミニスカートを履いた私を、私はなかなか気に入ったのだ。
それから思い切って、黒いラム革とデニムをあしらった、かなりアレンジの効いたトレンチコートも手に入れた(どれも7割は安くなってたし)。
上質な服の良いところは、人間の体の美しさに気付かせてくれることだと思う。
怒り肩などという悪意ある名前で呼ばれるしっかりした肩も、永遠に無くならないお腹の丸みも、質の良い服に包まれることで意外にも優雅に映える。
ほとんど化粧をしなくなった素顔さえ、硬派なトレンチコートを羽織れば、表情や意思がくっきりと引き立つ。
自分の身体と心を讃えるために、私はミニスカートを買ったのかもしれない。
年齢を忘れるほどに夢中で暮らし、
絶え間なく起こる新たな問題に頭を悩ませ、
お金になりそうもない夢を握りしめた、
ロンドンの日本人である私を。
それに英語でのコミュニケーションが不完全なぶん、ファッションで自分を表現したいという発想も、日本にいた時よりも強くなった気がする。
エイミー・ワインハウスのようなミニスカートと、エリザベス女王にならったレインブーツを履いて、雨のロンドンを歩こう。
ビートルズの真似をして大きな歩幅で、サム・スミスの傷つきやすい心を抱え、ウィンストン・チャーチルみたいなユーモアも忘れずに。
そうして踏み出した一歩が水溜まりに突っ込んだとしても、空を見上げれば虹が見つかるかもしれない。
失敗しても下を向かないために、愛すべき自分でいたいのだ。
パリ嫌いの、初めてのParis
Parisには興味がなかった。
「Paris大好き♡」
という人や雑誌の記事などを目にするほどに、ひねくれ者の私はかえって敬遠してきた。
ヨーロッパ旅行といえばParis、おしゃれな街といえばParis。なんとか in Paris。
猫も杓子もパリ、Paris、って、なんて軽率な。
「パリがなんぼのもんよ?」
と、謎の反発心を抱いていた。
だがロンドンに住むことになって、Parisは突然近くなる。
ユーロスター(新幹線のような電車)でたったの2時間。セール時期などには日帰りする人も沢山いるそうだ。
さらに日本から長期で遊びに来た母にも、
「ヨーロッパに旅行するなら、どこに行ってみたい?」
と尋ねると、
「Parisかな」
と答えるではないか。
「パリでどこに行きたいの? ルーブル美術館? ヴェルサイユ宮殿?」
「そうねー」
しばらく考えていた母は、
「とりあえずCHANELの本店に行きたい」
と言った。
私の母はシャネラーでも、もちろんセレブでもない。だが三十年近く勤めた仕事を退職した記念にCHANELの時計を買って以来、かの高級ブランドがお気に召しているらしい。
「あ、そう? じゃあ行ってみる?」
パリに興味がない私は、CHANELにもそれほど思い入れはない。
むしろギラギラした人々が集う、なんだかややこしそうな所だな、とさえ思っていた。
とはいえ、はるばる日本から来た母の希望は最優先である。
電車とホテルさえ予約すれば、パリ旅行の手配は簡単に完了してしまう。
五歳の娘とアラ還暦の母、アラフォーの私の三世代女子旅。夫もおらず、やや不安である。
だが私の心配をよそにユーロスターはあっという間にドーバー海峡を潜り抜け、ノルマンディー辺りに上陸し、パリ北駅に無事到着した。
近い。
そして到着してわずか数分、驚くべきことが起こる。
「Paris、素敵ー♡」
と、親子三世代全員が快哉を挙げていたのだ。
「何が?」
と聞かれると、うまく答えられない。
パリ北駅は、大きさや構造がロンドンのターミナル駅と大きく違うかというとそれほどでもない。
でも。
アーチ型の大窓や、緑青色に塗られた柱など、抑制の効いた内装のカラーリング。
空間の全てが、
「洗練されてますよー! ええ! ここ、パリなんで!!」
と大声で訴えているのだ(多分フランス語で)。
浮かれた気分で駅を出ると小雨がぱらついていた。ロンドンなら、
「ちっ、今日も雨か」
と舌打ちの一つもしたくなるところだが、
パリ北駅を飾るギリシャ風の彫像たち、冬枯れの街路樹、石畳の道路がそぼ降る雨に濡れていると、むやみやたらと風情がある。
そう、つまり私は自分でも呆れるほど簡単に、Parisにやられた。
完敗である。
夢見心地のまま、オニオンスープにエスカルゴの定番料理を楽しんだ我々は上機嫌でホテルに一泊。
翌朝、いざシャネル本店へ。
出迎えてくれたのは長身の黒人男性だった。太い黒縁の丸メガネが、手入れの行き届いたツヤツヤの肌を知的に引き締めている。
「ボンジュール、マダム。ウェルカム トゥー CHANEL」
マネージャーだと名乗った彼は、
「ボンジュール、マドモワゼル」
と、長身をしなやかに屈めたと思うと、娘に白い花飾りをどこからともなく取り出してみせたではないか。
滑らかな一連の所作は、この上なく優雅だった。
ムッシューに純白のカメリアを差し出された娘はビビって、せっかくの花を一度は拒んでしまう。
しかし、CHANEL本店の店長たる彼は動じない。恥ずかしがり屋の五歳を、歓迎の微笑みをもって受け入れる。
私はエレガンスとはこのことか、と思い知る。
それはつまるところ、優しさなのだ。
優しい心を相手に示すこと。それも、一番うつくしいかたちで。
正直言って、これ見よがしなブランドロゴを振りかざす流行に私は気恥ずかしさがあった。
CHANELのマークはその最たるもの、というイメージだった。
だが、ことの本質はそうではなかったのだ。
洗練された装いやしぐさは、虚栄のためにあらず。
優雅さというのはきっと、愛を伝えるためにあるのだ。
彼によって私達は緊張を解かれ、美しいシャネル本店で楽しい時間を過ごした。
意外にも気さくな店員から適切なアドバイスを受けながら、母の退職祝いには春色のスカーフを一枚プレゼントする。
パリに連れてきてくれたお礼だと、私まで記念にピアスを買ってもらう。
娘も結局ムッシューから白いカメリアを受け取って、それは今おもちゃのキッチンに飾られている。
追記:ちなみに「パリの人はさぞかしプライドが高くて冷たいはずだ」とも思い込んでいましたが、タクシーのお兄さんが娘のために「ピコ太郎」の曲をかけてくれるなど、皆さんとても親切でした。ごめんね、Paris。
パンとオカンとSDGs
昔テレビで、「大阪のおかん達は常に明日のパンを気にしている」という話が取り上げられていた。
「明日のパン」とはつまり、翌日の朝食に食べるパンのこと。
大阪のお母さん達はいつも、パンの買い置きが切れていないか気にしているのだという。
関西圏はパン食文化が強いと聞くので、そのためもあるかもしれない。
何を隠そう私も、「明日のパン」がいつも頭の片隅にある。
母は生粋のパン党だし、祖母も昼食にトーストを好んだ。
私達家族が住んでいた福岡県北九州市は炭鉱や製鉄所があったため関西圏からの移住者も多かったそうだから、それも影響しているのかもしれない。
彼女たちと、
「明日のパンある?」
という言葉を毎日のように交わして私も育ってきた。
さて今私が住むのはイギリス、もちろんパンが主食の文化圏である。
さすがにそのバリエーションは豊富だ。スーパーのパンコーナーは日本の三倍ほどの広さがある。
最も多いのは薄くスライスされたトースト用のパンで、白いパンはもちろんライ麦や全粒粉のパンなど、使われる小麦の種類も様々だ。
スーパーのものより専門店のパンの方が美味しいのは日本と同じ。もちろん、できれば美味しいパンが食べたい。
だが世は物価高である。
こちらでも人気のクロワッサンはうちの近所では2,5〜3ポンドが相場で、日本円にすると5~600円もする。
家族の人数分買えば、朝食からなかなかの出費だ。
そんな中普及してきているのが、「Too good to go」というアプリだ。
平たくいえばお店の残り物を安く買うことができるサービスで、事前に予約と支払いを済ませておき、指定された時間にお店へ受け取りにゆく。3~5ポンド程度の支払価格で、最低でもその3倍ほどの定価分の商品が提供される。
SNSで「Too good to go」を知った私は、近所のカフェやパン屋を中心に活用し始めた。
菓子パンやサンドイッチ、あるいは大きなハード系のパンなどが入っているから、それが翌日の朝食となる。
そう、「Too good to go」は「明日のパン」をお得に手に入れるための素晴らしいツールなのだ。
手頃な値段でクロワッサンなどを確保しておけば、翌朝は安心である。
時間が無ければそのまま家族に手渡してもいいし、余裕があればオーブンで温め、卵でも添えれば満足感のあるモーニングとなる。
今年、日本から続けていた仕事を一旦やめた。家族単位でいえばありがたいことに家計に困ってはいないが、私自身の感覚としてはむやみに浪費はしたくない。
少しの対価で手に入る「明日のパン」は懐にも、そして気持ちにも優しい。
「Too good too go 」
を日本語にするなら、
「捨てるにゃ惜しい」
と古風に言ってみたい。
あるいは日本が誇るエコロジー精神、
「もったいない」
でも良いかもしれない。
いずれにしても、「明日のパン」に心を砕く大阪のお母さんや私のような市井の人間が、明日の地球が間違いなく回るよう支えているんではないだろうか……というのは大げさだろうか?
しかし、こんな空想も案外的外れでもないかもしれない。
なぜなら「Too good to go 」というアプリは、「世界の食品ロスを無くすこと」をミッションとして掲げているからだ。
食品ロスは、SDGs(持続可能な開発目標)の「目標12:つくる責任つかう責任」で、解決目標の一つとして掲げられている世界共通の課題でもある。
家族に美味しい朝食を食べさせ、同時に社会問題の解決に役立っているとしたら、私たちはなかなかエライんじゃないか?
「Too good to go」に弊害があるとすれば、パンやケーキを定価で買いたくなくなること。
イギリスでは普通のカフェでちょっとお茶するだけですぐに2,000円ほどはかかってしまう。また家に安く手に入れたケーキがあると思うと、余計に出し惜しみしたくなる。
だが晴れ間の貴重なロンドンで、5月の爽やかな風と太陽を感じながら楽しむコーヒータイムだけは、節約によって失いたくはない。
特に私のような主たる家事労働者は、洗濯物やシンクの食器が待ち受けている家で寛げない時もある。家でも職場でもないサードプレイスは、主婦にこそ必要なのである。
そんなわけで、今もカフェでこれを書いている。
ラテの牛乳をオーツミルクに変えたらプラス料金がかかったことにモヤっとしながらも、今日も「捨てるにゃ惜しい明日のパン」がアプリに出ていないかチェックするのだ。
在英おにぎり大使(自薦)
現在六歳半の娘は塩おにぎりを愛している。
初めて口にした離乳食の白粥に目を輝かせて以来、白米一筋に生きてきた。
だが五歳になってまもなく、彼女は米が主食ではないイギリスに連れて来られてしまう。
渡英後半年程は彼女にとって最も辛い時期だった。
季節は冬で、太陽は16時過ぎに沈んでしまう。
英語も話せず理解できず、それなのに日本人のいない現地校のクラスに放り込まれる。
一歳から通った保育園で兄弟同然に育った友達とは、もう二度と会えない気がする。
パンもチーズも、日本の味とはまるで違って口に合わない。
日本よりは衛生面で劣る環境とストレスのせいか、高熱を出し痙攣を起こしたこともあった。
だが、ペルーの山奥からロンドンへやって来た、有名な小熊のパディントンとちょうど同じ身長110cmだった女の子は、そこでへこたれるタイプではなかった。
自ら学校を変えて欲しいと父親に訴え、少しずつ友達を増やし、今では、
「私と遊びたい子が多すぎて疲れる」
などと嘆いてみせるほどだ。
また食べ物もすっかりイギリス化して、パサパサのパンにチーズとバターだけのサンドイッチを美味いうまいと食べている。
だが、それでもやはり米は彼女にとって至高の食物である。
学校の給食や外食ではパンやパスタに甘んじても、家では頑なに米食を貫く娘のため、冷凍庫には常に小さなおにぎりがストックされている。
そんなおにぎり愛好家の娘が通う新しい学校は行事が盛んで、インターナショナルフェアなるものが年一回行われる。
12カ国以上の国からの生徒がいるので、各国の保護者が用意する食べ物の屋台は多彩で、なかなか壮観だ。
その中でも我が日本は高い人気を誇っており、他国の子供達も海苔巻きや塩煎餅に目の色を変えて飛びついてくる。
ライバルがいるとすれば、やはり韓国のキンパであろう。毎年すぐに売り切れるそうで、かなりの強敵だ。
他にも沢山のおかずをクレープのような主食につけ合わせるエチオピア料理や、ブラジルのパッションフルーツムース、インドの様々な菓子など、食べたことのない料理に大人まで心踊る。
日本の屋台は海苔巻きを出そうとしていたのだが、ベテランママの、
「韓国のキンパと被るので、塩おにぎりが良いのでは」
という鶴の一声でカッパ巻と卵の細巻、そして塩おにぎりが用意されることになった。
だが我が家では、
「本当に塩おにぎり、売れるかねえ」
と、やや懐疑的だった。
それというのも半年前の娘の誕生日会で、ふりかけおにぎりを一家総出で用意したものの、誰一人手をつけなかったのだ。
「私が皆に言っとくから」
と、娘は力強く言った。
「何を」
「”Do you know? Onigiri is amazing. It’s so yummy” (知ってる? おにぎりってめちゃくちゃ美味しいんだよ)って」
「おお、がんばれ」
おにぎりの魅力をアピールするというその宣言を適当に聞き流していたのだが、イベント当日に学校のママ友が、
「娘ちゃん、上級生にも塩おにぎりを宣伝してたってうちの子が言ってたよ」
と教えてくれた。
娘は本当に、休み時間に校庭でせっせとおにぎりの普及に励んでいたらしい。恥ずかしがり屋だったはずの娘の行動に、私は驚いた。それはもはや根回しであり、ロビー活動である。
その効果があったのかはわからないが、小さな塩おにぎりたちは次々に子供達の手へと渡った。娘の同級生達も、今度はしっかり食べていた。
米は穀物の中で唯一、人体に不可欠の必須アミノ酸を全種類含んでいるそうだ。
何よりも私たち日本人にとっては、
「とりあえず暖かいご飯さえあれば」
と思わせてくれる、心の拠り所でもある。
だから、寿司やカツカレー、おにぎりまでもがここロンドンでも受け入れられ、喜ばれていることは理屈抜きにうれしい。
自分が大事にしているものの良さを誰かにもわかってもらえると、晴れやかな気持ちになるものだ。
未知の国に怯えていた娘は、一年半の間におにぎりを自ら広めるほど積極的に変わった。
フィッシュ&チップスにも馴染みつつ、おにぎりへの愛と誇りを胸に、持ち前の豪傑笑いを取り戻した我がおにぎり大使は、もうパディントンベアの身長を追い越した。
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