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エッセイ~「すれ違う男と女」

毎朝彼女の後ろ姿を見ていた。
腰まで伸ばした艷やかな黒髪。
小さな肩、華奢な背中、細い腰、まだ発育しきれていない臀部から脚のライン。
すべてが脆く、強く抱きしめると壊れてしまいそうな少女の後ろ姿。
わたしはその姿が好きだった。
それは毎朝のことだ。
朝礼が終わり、開店間際に全員起立して来店客を待つ。彼女の持ち場はぼくより前だったからいつも後ろ姿を見ることになる、ただそれだけだった。

わたしと彼女は同期入社だ。ただわたしは大卒、彼女は高卒の採用だったから、四歳の差があった。わたしが二二歳、彼女が一八歳。
わたしは彼女を好きだったのだろう。
今思い出すと愛おしい気持ちがこみあげてくるが、当時はよくわからなかった。
会社の若手だけの懇親会で当時流行っていた道頓堀のディスコディークに行った時、チークタイムがあり、なぜか周りから囃し立てられて彼女とチークダンスを踊ったことがある。彼女はいつもの白い肌を火の出るほど赤く火照らせて終始うつむき加減でわたしの指先をつまみながら踊った。わたしはそんな彼女が可愛く思えて意地悪っぽく指を絡ませると、小さな手から小刻みな震えが伝わってきた。さらに背中に手をまわすと電気が走るように身体が反応した。幼いながら甘い匂いがしてわたしも高揚した気分になり、わずかな時間のチークダンスで性的快感すら覚えた。
「あの二人お似合いやね」同僚の会話が聞こえてくる。悪い気はしなかった。
しかし以後もわたしたちの間に何か恋らしい進展があったかといえばまったくなかった。
彼女のわたしに対する態度はむしろ冷たいくらいで、仕事の種類はお互い違うものの決して優秀とはいえなかったわたしに対して、的確に仕事をこなす彼女は軽蔑とすら思える目でわたしを見ることがあり、好かれているどころか嫌われているとわたしは思っていた。わたしは冒頭に述べたように彼女に多少なりとも好意を感じていたのでがっかりしたのだが、女は仕事ができない男を嫌うものだと信じて疑わなかったので、それ以上彼女のことを考えるのはやめることにした。

入社してわずか一年半でわたしは東京に転勤することになった。
転勤する前日にわたしが社内で最後の挨拶をしたとき、彼女は泣きじゃくって女友達の肩に崩れ落ちるように寄りかかっていた。
挨拶を終えて、仲の良い先輩と飲みに行った時言われた。
「あれは本気でおまえに惚れとるで」
嘘だろ。それまでの態度からとてもそうは思えなかった。同僚や先輩や友人が去る時、それが誰であろうと、女性は多少なりとも感傷的になり泣いたりするものだ。それだけのことだ。わたしはそう思っていた。そうしてわたしは特に彼女と何の連絡もとらずに東京に旅立った。

一年後だろうか。わたしが東京での新しい仕事に慣れて、その仕事が向いていたのか、大阪にいたときとは違って好成績を収めていた頃、彼女から電話があった。
しかし、東京での仕事は多忙を極めており、彼女から電話があったときわたしはまだ仕事をしていて出ることができなかった。そもそも寮生活で部屋には個人用の電話がなく、寮の管理人から呼び出される仕組みだったので、深夜に帰宅してから管理人から「〇〇さんから電話があったよ」と伝えられだけだった。
わたしは驚いた。彼女がわたしに電話をかけてくるなんて思いもかけなかった。折り返してこちらから電話をかけようにもわたしは彼女の電話番号を知らない。仕方がない。用事があるのならまた電話をかけてくるだろう、そう思ったが、それきり彼女から電話が来ることはなかった。
しばらくして大阪で一緒に働いていた彼女の友人から電話があり、東京に行くから良ければ食事でもと誘われ、渋谷でその友人と食事をした。そのときに彼女についての話になり、電話があったことを伝えると驚いた顔をしてその友人は言った。
「あの子、東京に行ったんや。そのときに電話かけたんやろな。そうかあ、会えなかったんか」複雑な表情だった。外から見ていると親しい友人のように見えたが、それほどでもなかったらしい。彼女の真意が測りかねているようだった。しかし、いずれにしても彼女があのとき東京に来ていたこと、意を決してわたしに電話をかけ、何かを話したかったこと、おそらくはこの友人同様、食事なりをして一緒の時間をつくりたかったこと、そのあたりは何となくわかった。そしてわたしは仕事で電話に出られなかったことを悔やんだ。

それからまた大分時が経ったころ、一通のはがきが届いた。彼女からだった。
それにはこう書いてあった
「いつまでも待っています」
わたしは返事を出さなかった。

老境に至った今でもなぜ返事を出さなかったのか理由が思い浮かばない。
「すれ違い」
ただその言葉だけを反芻する昨今である。

今では良いおばあちゃんになって幸せな家庭を持っていることだろう。そうあってほしいと思う。

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