見出し画像

短編小説「光の糸」(その4)


          三
 気がつくとまず天井に吊るされた青白い蛍光灯が目に入った。畳の冷たい感触が背中からつま先にかけて伝わってくる。頭の中心が何やら痺れたように重かったが、次第に物がはっきりと見え始め、音も聞こえるようになってきた。自分が大の字になって横になっているのがわかった。
 胸元には白いタオルケットが一枚かかっている。アツシは頭を振りながらゆっくりと身を起こした。
 十畳ほどの大きさの畳の部屋にいた。小さな窓が外に開け放たれ、暗い夜の外気が少し入ってきていた。灰色の壁の隅には見覚えのある黒いギターが立てかけてあった。その他には何も存在しない部屋だった。アツシは一度ぐるりと部屋全体を見回してみた。やはりギター以外に何もない。あるのは窓と清潔な畳、天井の蛍光灯、灰色の壁、そしてギター。
「目が覚めたな」
 水の流れる音が遠くから聞こえたかと思うと、五島が部屋の入り口に立ってアツシを見ていた。呆れたような笑みが口元に浮かんでいる。手洗いから出て来たところらしく、両手をタオルで拭っている。
「一体どうなって……」アツシは肩を落とした。そう言いながら何が起きたか、自分でもおおよそ察しがついたからだ。
「酒に弱いんだな。ビールだけであんなに酔うなんて」五島はミネラルウォーターのペットボトルを差し出した。「若いのに酒癖が悪い」
「ここは五島さんの部屋ですか」
「そうだ」
「酔いつぶれて運んでくれたんですね」
 アツシは恐縮してしまった。すっかり今は酔いが覚めている。頭痛がするだけだ。
「みんなで飲んでいる時までは大丈夫だったんだが、家の方向が同じだというので君とふたりになったとたん、目を回して道端に倒れこんでしまった。君の家を俺は知らないし、ここにつれてきたというわけだ」
「今何時ですか」
「もう夜中の二時だ。今日は泊まっていけばいい」
「迷惑かけてすみません」アツシはうなだれるように頭を下げた。
「二人になってからも絡まれっぱなしだったよ。何でコンテストに出ないんだ、何でギターを弾かないんだってね。俺の頭をぽかぽか叩いてさ」
 アツシは返す言葉がなかった
 五島は部屋の隅に胡座をかいて座ると苦笑した。
「もう十年になる。丁度君たちくらいの年の時にバンド活動をしていた。メンバーも俺を入れて五人。女の子がキーボードを担当していたのも君のバンドとそっくりだ。運に恵まれていてね。コンテストで入賞してからバンドはどんどん人気が出て、コンサートもいつも満員になった。レコードも出してそこそこ売れた」
 五島は目を細めて窓の外を見た。
「俺はバンドの女の子と恋仲になって結婚した。バンドも生活も何もかもうまくいっていた。あの時は最高だった。でもちょっとした事情でね。駄目になってしまった。バンドも他のことも。バンドを解散してから二度とギターは弾くまいと思った。昨日はたまたま通りがかった楽器店に入っただけなんだ。ギターを買うつもりも全然なかったんだが、昔持っていたモデルと同じ黒のレスポールがあったんでつい弾きたくなってしまってね」
 五島は外の暗闇を探るように見つめていた。深夜の二時、暗闇からは物音ひとつ入ってこない。アツシは黙って五島の話を聞いていた。
「ギターは俺にとって楽器じゃない。声であり言葉だ。言葉がなければ人は自分の意志や考えを他人に伝えるが難しいように、ギターがなければ俺は何も表現できない。人と関わりを持つことが出来ない。この十年の間、ある意味では一言も喋らずに声を押し殺して生きてきた。自分の存在を否定しながら生きてきた。なのに昨日ふとしたことでギターを手にとってしまった。とたんに理性が吹き飛んだ。言葉が戻ってきた気がした。ようやく声を出せる開放感で一杯になった。そして今日の演奏で俺は十年ぶりに声を張り上げて自分の言葉で喋った」
 五島は立ち上がりギターに歩み寄ると抱えるようにしてその場に座り込んだ。
「君はあの曲の名を『追憶』と言った。実は曲名を聞く前からそんな気がしていた。あの曲には人の思い出を掘り起こす力がある。今日実際に演奏してみてそれが分かった。演奏するたびに中身が変わるんだ。いや変えたくなるんだな。自分の思い出の数だけ演奏パターンがあるような気になる。きっと君も歌いながら過去と現在を行き来するんだろう。僕もそうだから。とにかくいい曲だ」
 五島はギターを膝の上に載せると一度優しく弾きおろした。アンプを通らない薄っぺらなエレキギターの生音が砂をかむような音をたてて天井へ昇っていった。
 この部屋にはアンプがなかった。ということは、五島は部屋ではエレキギターを生音でしか弾いていないということだ。アンプが無ければエレキギターはただの異形の細工物にすぎない。音が鳴らないのだから楽器とはいえない。つまり昨日の晩五島はあの曲を譜面で読んだに過ぎず、自宅では満足に練習できていないのだ。
 アツシはもう一度部屋を見渡した。テレビもラジオもテーブルも一冊の本もない。まるで生活感の無い部屋。外から完全に隔離された無機質な空間。
 柔らかな旋律が聞こえてきた。五島のギターの音だ。ごく小さい金属的な音だけれども、ひとつの意志を持った生き物のように畳を這い、壁をつたって天井に上がっていった。蛍光灯の青白い光がゆっくりと色を変えながら音を照らし出していた。小さな旋律は天井から空中に降りてきてアツシの耳元をかすめて、窓の向こうの闇へと消えていった。外部の暗闇は音の波に溶け合って部屋の中へ侵入しようとしていた。
 部屋の空気の色合いが変わり、音の波動と共に空気もうねり始めた。その渦の中心に五島がいた。視界から畳が消え、続いて壁や扉もかき消えた。光の三原色が溶け合って視界を埋め尽くした。この暖かさは何だろう。この穏やかさは何だろう。この静けさは。
「コンテストに出よう」
 アパートの灰色の壁が再び出現した。同時に蛍光灯も扉も畳も天井も現れた。アツシは目をこすると、五島の姿を探した。五島はギターを置いて立ち上がり、アツシを見下ろしていた。
「だが一回限りだよ。今回のコンテストだけだ。コンテストが終わったら、その結果がどうあろうと俺はさよならだ。またギターと縁のない言葉を忘れた世界へ戻る」
 五島はギターを見つめた。
「それから来週一週間俺は練習に出られない。行かなければならないところがある。ここ一番の演奏では必ず使うと決めている弦がある。それを手に入れに出かけてくる」
「特別な弦ですか」アツシは不思議な気分になった。
 五島の表情には決意めいた険しさが浮かんでいた。
「その弦は普通の楽器店では手に入らない代物だ。遠いところにあるから行き帰りで一週間かかる」
 アツシは何が何だか分からなかった。何故五島がその気になってくれたのか、その理由も理解できなかった。だが無性にうれしかった。何故か涙が出て来た。五島がコンテストに出てくれるから感激したのだろうか。それとも先ほどまでのギターの何気ない演奏が心に染みたのだろうか。有り難うと一言礼をいうとアツシは立ち上がり、窓の外の暗闇に顔を出した。涙が止まらなかった。

(続く)


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?