読書感想「族長の秋」(ガルシア・マルケス)~難読でした
「百年の孤独」「予告された殺人の記録」に続いて「族長の秋」を読了したので感想を書く。
最初に一言いうと、とにかく読みにくい! 難解というより難読。六章に分かれるが、一章一章には改行が一切無く、会話文がなくて一文が長い。活字がぎっしりと詰まっている。さらに「われわれ」という一人称で始まるが、「われわれ」の主は変化する。暴動を起こした民衆であったり、独裁者である「閣下」の配下であったり、「わし(閣下)」であったり、神の視点であったり入り乱れて変わるから、どこまで事実なのか語り手の妄想なのかわからない。
時系列も混在する。閣下(あるいは影武者)の死体を「われわれ」が発見するところから物語は始まるが、そのシーンは何度も出てくる。ぐるぐる回っているようだ。ラストで「閣下」が死神の声を聞いて本当に死ぬまでの数々のエピソードも時系列順に並んでいない。バラバラに入り乱れて描かれる。そもそも何度も出てくるうつ伏せになって死んだ「閣下」の死体が影武者のものか、「閣下」本人のものか、読み手にはわからない。ラストで本当に死んだのかも怪しい気持ちになってくる。
ただ、「百年の孤独」は無数のエピソードが極限まで凝縮されており、登場人物が極めて多いから、解きほぐすのが大変なのに対して、「族長の秋」のエピソード自体はそれほど多くないし人物も少ないため一度解体して組み直し、読み解くのは難しくないと思われる(そこまでしないけれども)。
やはり難解というよりも難読な作品だと思う。
主な登場人物としては、主人公である独裁者の「閣下」、その母ペンディシオン・アルバラド、前半閣下の片腕として信頼されていたにもかかわらず中盤に反逆罪で丸焼きにされるロドリゴ・デ・アギラル将軍、美人コンテストに優勝した美女マヌエル・サンチェス(彼女を我が物にするべくありとあらゆる手段を尽くすが日蝕に消えてしまう)、元修道院女の正妻レティシア・ナサレノ(閣下の威光を笠にやりたい放題の限りを尽くすが、息子エマヌエルとともに街で犬に食われて惨殺される)、テロリストを捜すため配下にして全権を委任したホセ・イグナシオ・サエンス=デ=ラ=バラ(常にケッヘル卿という名前のドーベルマンを連れている冷酷な男で、やはり閣下の威光を笠に極悪非道の限りを尽くすが、反乱軍に惨殺される)。
本作のあらすじは、シンプルである。カリブ海に面した国の独裁者である「閣下」を取り巻く人物の生と死、そして閣下の二度の死(最初は影武者、二度目は本人の死)、すなわち独裁国家の終焉を描いているだけだ。閣下の寿命は、一〇〇歳とも二〇〇歳とも言われているが、最後は天寿を全うする。
だからエピソードの豊富さや奇想天外な物語を求めるなら「百年の孤独」のほうがはるかに面白い。ただ、「族長の秋」にはいくつか前作と違うテイストがある。
まず断然取り上げたいのが、強烈なブラックユーモアである。筒井康隆が本作をお勧めした理由は読めばすぐにわかるだろう。筒井康隆が書いたのではないかと思うくらいに、ハチャメチャな描写がてんこ盛りである。尻の穴にダイナマイトを突っ込み、はらわたをぶっ飛ばすとか、閣下の情事が早すぎていつ終わったかわからないと女に笑われるとか、雌鶏を抱えてやんわりとその首をひねって殺して食べるとか、アスパラガスを女性のあそこに入れて食べると海の味がするとか、はらわたにヒキガエルがわくとか、デ=ラ=バラが殺した相手の首をまとめてズタ袋に入れて閣下に送ってくるとか、エログロ盛りだくさんで滅茶苦茶。
主要人物の死に様もすさまじく、正妻レティシア・ナサレノと息子は、市場を移動中に彼らを殺すために訓練された六〇頭の犬に食い殺され骨しか残らない。母のペンディシオン・アルバラドは老衰、病死だが、ウルスラと同じように感染症で背中に蛆がわいて苦悶の中死んでいく。閣下は死後も国母として祭ろうとしたがそれが仇となり、遺体のはらわたを抜かれて剥製にされてしまう。デ=ラ=バラは、民衆の恨みを買って惨殺され、睾丸を口の中に押し込まれて逆さ吊りにされる。なんと言っても圧巻は、反逆を疑われたロドリゴ将軍の丸焼きで、「香辛料をたっぷりかけてオーブンでこんがり焼き上げられ」(族長の秋 新潮社 P268) 、切り分けて食卓の招待客に配られる。
次に取り上げたいのは、小説の手法であるが、リフレインが非常に多い。「あれですよ、閣下、と言われて(中略)あれですよ、閣下、と言われて(中略)」が暫く続く。「哀れなやつめ、(中略)哀れなやつめ、(中略)」が暫く続く。「(略)これでやっとけりがついた。(略)これでやっとけりがついた。」が暫く続く。
小説そのものが、時系列混在、語り手混在、で迷路になっている上に、リフレインが多いために、出口のない迷宮に入り込んだような気分になる。マルケスは本作を「螺旋」構造と称して書いたそうだから意識してそういう風に書いている。同じ手法を使って最近自分が書いてみたのがこれだ。
リフレイン自体は新しい手法ではない。しかし本作ではより効果的に使われていると思う。
三つ目に語りたいのは、母子の愛とカリブ海への愛(祖国愛)、教皇庁(カトリック教会)との関係だ。
閣下は、スーパーマザコンである。本編を通じて、真に愛してやまなかった人間は母親だけだろう。母の死を看取るシーンは、ハチャメチャで残酷なシーンが多い本作において、唯一リアルで実に感動的なシーンだと思う。「百年の孤独」の感想でも書いたが、あのときは息子が死んだときに血が母のウルスラの家まで這い上がっていくシーンに感動を覚えた。マジックリアリズムにではなく、母子の愛の深さにである。本作も同様だ。母のペンディシオン・アルバラドは、相手が誰かも分からない息子を修道院の前で産み落とすような貧しい出自だったのだが、賢明で良識を備えた唯一の人物として描かれている。「百年の孤独」のウルスラのように。母は終生閣下を愛し、閣下も母を愛した。
次にカリブ海。列強に何もかも奪われていく中、閣下が最後まで守りたかったものは大統領府の窓から見える海である。私にはラテンアメリカ人が心に持つカリブ海に対する思いはわからないが、すべてを奪っていくアメリカに唯一渡したくない祖国の海という思いがあるのかもしれない。
そしてカトリック教会、教皇庁である。「百年の孤独」でも法王が出てきたが、本作でもカトリック教会との関係は大きな意味を持つ。かつてスペインの植民地だったコロンビアの大半はカトリック教徒で宗教の自由が割と最近認められたらしいが、マルケスはカトリック教会を好意的に書いていないように思う。「百年の孤独」もそうだったが、本作でも修道院から来た正妻レティシアはひどい悪妻だし、教皇庁と閣下の関係も良いとは言えず、むしろ教皇庁を敵視しているように思える。ただ私はそのあたりの歴史的な背景、宗教的な背景に踏み込めるほどの知識がないのでここではこれ以上触れない。
最後に、私の解釈では、「閣下」は善人である。ひたすら母親を愛し、民衆から愛されることを信じ願い、カリブ海を愛した「凡庸な」権力者だと思う。凡人であるがゆえに、家臣に良いように操られ、暴虐の限りを尽くすが、馬鹿なだけで性根は悪党ではない。本当は民衆に愛される権力者でいたかったはずだ。だが閣下を祭り上げて利用する取り巻きが余りにひどい。レティシアしかり、デ=ラ=バラしかり。母親以外に誰も「閣下」を本気で愛して支える人はおらず、国を愛する人もいなかった。「百年の孤独」ではなく「閣下の孤独」というタイトルがふさわしいのかもしれない。
読み終わった後、母親と閣下の姿とカリブ海だけが脳裏に浮かんだ。咀嚼できていないからなんとも言えないが、私にとって本作はそんな作品である。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?