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脱サラから執筆業&翻訳業を生業にするまでの猪突猛進について~ああ面白かった!

わたしは四〇歳で脱サラしました。自分で言うのもなんですが、関西では有数の国立大学から全国でも有数の大手企業に就職して昇進し、家賃20万近い銀座近くのタワーマンションに住んでいたくらい金銭面では豊かでしたが心身ともにボロボロで、表向きは色々格好のつけたことを言ったものの、これ以上続けられなかったというのが実情です。


執筆業として


脱サラして目指したのはまず作家です。これは高校生からの夢でした。当時から原稿用紙にカリカリ創作していて雑誌に応募していたし、実は漫画を書くのもそこそこ得意、さらにギターや作曲もそこそこできたので(器用貧乏ともいえますが)、今から思えばほんの少し勇気があれば安易に大企業に就職などせず、創作を続けるか、アニメータを目指すか、とにかくクリエーターとしての道を苦しくてもトライすればよかったと思うのですが、昭和という時代背景もあり、安定した職業につくのが一番という時流に流されて安易な選択肢を選んでしまいました。少し後悔しています。
それはさておき、脱サラして作家になると言っても、小説を書いてちまちま文学賞に応募していたら埒が明きません。インターネットは既にありましたが今のようにネットで小説を書く風土はまだないので出版社にじかに売り込みをかける必要がありました。わたしは小説を書いて様々な出版社の文学賞に応募をかけると同時に、それまで働いてきた体験をもとにしたビジネス書の企画を企画書にまとめ、出版社の社長や編集者とライターとの出会いの場を提供するパーティに何度か参加しました。何でもネットで交流する今の時代、その手のパーティがあるのかわかりませんが、当時は結構あってまがいものに気をつけながら勇気を持って参加したのです。本来わたしは営業向きの性格ではないので、売り込みなどという行為は苦手なのですが、脱サラ後は妙にハイになっていたのでしょうね、超積極的にパーティに参加し、その場で挨拶回りをして色々な会社の社長や編集者に企画書を見せて売り込みました。運良くよしやろうと言ってくれた会社が見つかりそこで一冊目の本を出すことになります。

出版社とつきあうのは生まれて始めてでした。わたし担当の編集者がつき、書いた原稿を彼がチェックし、色々なアドバイスをもらいました。なるほど編集者が作家を育てるというのはこういうことだなとわかりました。何とか脱稿し、本が書店に並んだときのうれしかったことは今も忘れません。幸い最初の本は重版になったので印税もそれなりに頂けました。好評だったため2冊めを書くことも決まりました。本格的に執筆業の開始です。脱サラからここに至るまで2年くらいかかった気がします。
ただ何よりも出版業界とつきあうことでそれまで知らなかった異文化に触れることができたことが収穫でした。出版社の社長が太っ腹で顔が広く、わたしを色々なところに遊びに連れて行ってくれました。高田馬場や歌舞伎町はその典型で、前者は漱石ゆかりの地、夏目坂など有名ですが、早稲田界隈ということもありバーや飲み屋に行くと、かつての高等遊民を思わせる常連客に結構出会えるのです。わたしはそこにある一軒の居酒屋の常連客になり身元も職業も不明な方々と懇意になって何度も楽しい時間を過ごさせていただきました。そういえば常連客の一人に「先生」と呼ばれていたひとがいていつも着物と下駄でした。話も含蓄あるものばかりで懐かしい思い出です。
歌舞伎町を詳しく知ったのはそのときです。もちろん、表の顔の歌舞伎町は誰でも知っているおしゃれで華やかで買い物するにしても飲むにしてもポピュラーですが、常連しか知らない裏の顔が歌舞伎町にはあります。ここも古くから文筆業、新聞・雑誌記者などが集まる店があり、常連客やマスターやマダムから貴重で面白い話をたくさん聞けるのですが、大抵はこじんまりした店だったり、危なそうで入り難い店だったりするので一見客にはなかなか厳しい。出版業界とつきあうようになってそういう店に出入りすることが可能になりました。SMバーやゲイバーとかもただの趣味の悪いバーかと思いきや、わたしなどはついていけないレベルの高い哲学の話などが淡々と行われていたりして場所さえ間違えなければ極めて有意義なスポットです。場所さえ間違えなければですが。歌舞伎町は極めて危険な側面ももっているのは周知のとおりで一見で入るのは禁物です。
こうして執筆業は軌道に乗ります。結局最初の出版社からは3冊本を出しました。実は3冊目が一番個人的に書きたかった私小説的ノンフィクションで、自分の小説家としての技巧を駆使したものでしたがあまり売れなかったです笑。ただ、この本が別の大手出版社の編集長の目に留まったらしく、うちで書いてみないかと誘いがかかりました。新しい企画を練って出版社を訪れてその編集長と会ったときに「あれは面白かった。あれなら直木賞も夢ではないよ」と言ってくれたのが最高にうれしかったですね。もちろん半分お世辞でしょうが、ビジネス書のライターとしてではなく、わたしの小説としての技巧を認めてもらえたことを意味するのでこれ以上の褒め言葉はありません。
そしてその出版社で本を出すことになり、同時にその出版社の月刊誌のコラムに連載することが決まりました。執筆業としてまた一歩進めたわけです。
ただ結局小説のほうは泣かず飛ばずでした。今Noteにたまに書いているのはあくまで趣味です。
執筆業については以上です。最後に言っておきたいのは、「出版社はライターなくして成り立たない」(ある社長の言葉)からいつもライターを探していることと、所詮は人と人との出会いが重要で、どんな企画であろうと勇気と誠意をもって出版社に体当たりしない限り道は拓けないということです。そして優れた編集者と出会うことで書く側も成長するということですね。

翻訳者として

翻訳業を始めたのは、執筆業を同時です。わたしは学生時代の専攻が英文学ですので、英語に関しては自信を持っていました。
ただ翻訳はいくら英語が上手でもそれだけではダメです。英語以上に日本語が達者でないと成り立たない職業です。
また執筆業と同じく、翻訳を受注するためには受注先とのコネクションが必要ですから、何らかの出会いの場を設ける必要があります。わたしはその目的と、翻訳業を勉強するために3ヶ月のスクールに通いました。赤坂にある学校ですね。圧倒的に女性が多かったし、わたしの歳は珍しく、たった一人同じ歳で経歴も似ている方がいたのが幸運でした。
そこでは文芸翻訳、ビジネス翻訳、字幕翻訳など科目がわかれているのですが、3ヶ月終わって首席で卒業しました。どの科目も満点だったと思います。文芸翻訳の評価が高かったので、以降も文芸についてだけそのスクールに通いました。おかげで有名な翻訳者と知り合うことができましたが、レベルが高くて苦労しましたね。なにせ教材がジェイムズ・エルロイでしたから。こまぎれの文章をどうやって訳すの?と毎週頭が痛くなりましたが、プロはすごいですねえ。圧倒的な差を思い知らされました。なので、文芸翻訳はあきらめて、わたしの翻訳業はビジネス翻訳のみです。
そこでできた人脈(ここでも人脈が重要だということがわかります)がきっかけで、わたしはフォーブス日本版(後に廃刊され、今また復刊されている)の記事翻訳を毎月数本請け負うことになります。また、長年のリーマン生活で得た金融経済とコンピュータ関連の知識が役立ち、その分野も翻訳会社から請け負うようになります。翻訳会社のほうは、トライアルという試験が必要ですが、翻訳者を募集している企業を個人で探すのは大変です。わたしはスクールに通ったおかげでスクール経由で募集企業に困りませんでした。当初の目的である受注先とのコネクションを得ることができたわけです。
ちなみに在宅で翻訳業を営む場合、ビジネス翻訳の場合はTradosというツールが必須でした。これが結構金食い虫でしたね。もう引退したわたしには無用のツールですが。

翻訳者としては以上です。今は自動翻訳が進んでいるので、文芸は別としてビジネス翻訳は職業として厳しいかもしれません。一応翻訳者として言いたいことがあるとすれば以下のとおりです。
受注先とのコネクションを作るために学校に通うことをオススメします。
翻訳で重要なのは英語の能力よりも日本語の文章を書く能力です。

ちなみに翻訳は、専業で食べていくにはかなり厳しい世界です。文芸の場合、そもそも翻訳者としてデビューできる確率と作家としてデビューする確率を比べた場合、ラノベなどを含めれば今の時代、後者のほうが高いのではないでしょうか。たとえデビューできたとしても、ベストセラーにでもならない限り、作家と違って印税が少ないため、一年間に文庫本を3、4冊は訳さないと食べていくのは苦しいと思います。一年にその量をこなすのは極めてハードです。仕事づけです。好きなひと以外にできない仕事ですね。
またビジネスの場合は、先に述べたように自動翻訳が進んだ今、仕事も減っているし単価も下がっているし、極めて厳しい。副業で収めておくのが正解という気がします。

以上で、わたしの脱サラ後の二つの仕事についての話を終わります。
読んでいただいた方々、ありがとうございました。

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