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Sense of living. 暮らし方のセンスについて

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暮らす中で染み出してきた、少し長めの考え、気づきを文章にしています。写真は2024年、12年ぶりに町が雨氷に包まれた朝。
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米日リーダーシッププログラム。まるで甲子園スタンドのような熱量が続いた夏の一週間。2023.8.6

〇〇塾だとか〇〇卒の〇〇会だとかそうしたコミュニティに属したことがなく、いわゆる学歴とは派閥というやつに無縁の私にはなんだかそうしたものが違う世界のように感じて。 町の友人が何気なく教えてくれた「米日リーダーシッププログラム」にアプライしてみたいと思ったのは、その当時の2022年、少しずつ自分を開いていこうと思った年だったこと、ダメで元々、というよくわからない動機だった。蓋を開けてみれば、10倍もの倍率の中(後で知った)、日本から選出される10人の1人となったとメールが届き

対象物を馬へずらすと、人はどんな顔つきになるだろう?この町で、必然性のある、人と人の間におく何かについて。

私が住む町では、夏のある時期からは草刈機をタスキ掛けのようにして抱えて左右に刃先を揺らしたり、秋の入り口ではミレーの落穂拾いさながら、朴葉を中腰で拾い続ける。 身体性を伴い無心にさせる動きは、ふと空を見上げたときや終わったあとの爽快感は、スポーツの後に感じる爽快感と同じようなものなんだなと思う。 自分や他者の存在をあーだこーだ考えるよりも、手先、目の前、今この瞬間の時間に最も集中する時間を過ごしたという爽快感。 この町で、必然性のある、人と人の間におく何か 馬、という存

誰かに自分の時間を委ねる、という小さな勇気の重ね方は、ひとを優しくさせるのかも。なんていびきかきながら思っていた。2023.2.3

子育てを始めて10年、3人の子育てをする時間はあっという間に過ぎ、それまでに何度となく海外に出たことはあっても、子ども連れだったり、仕事の予定がたっぷり入るなど、何かしら急ぎ足すぎていた。 昨年ふと10年目を迎えたあたりから、自分のバランスが少しずれてきたように感じ、これはあんまりヘルシーでないなと思い始めた。母である私と私だけである私のぶつかり合いが始まってしまったのだ、とやや落ち込みながら暮らす日々だった。 年明けからしばらく、娘とともにアジアの港町に滞在した。 現地

その人の生命の際(きわ)には、そのすべての瞬間において創造的なものが立ち上がるのだと思う。終えることで何かが始まっていく。生きるを終えるという行為が、ただ悲しい、という側面だけではないと願ってきた。2022.12.4

ケアの文化拠点として、軽井沢町のほっちのロッヂを運営している私自身が、生きるを終える場面に居合わせる機会は実はそう多くない。 そんな私にとって、2020年の1月に出会った、ある方の最期の3週間が忘れられない。 作家の藤田宜永さん。たった3週間。でも私が、”失ったのに得ることができた”現在地に対して、確かな自信を下さった唯一無二の方だった。 初めてご自宅に伺ったことはよく覚えている。 藤田さんはソファに座りカラーグラスをかけ、「あ、どうもどうも。で、あなたどんな人たちなの?

絡みつく何かと、あっけなく過ぎる日常のこと。 2022.11.13

最初に就職した会社の、同期が亡くなった。 打ち合わせ最中に通知がきていた。もしや、とよぎる。用事を終え急いで一報を聞くためいっとき車を路肩に停める。外は1度くらいでよく冷えた。車のシートヒーターがありがたかった。 50分ほど電話で、他界した友をよく知る友人と話す。黙っている時も多かった。 そこから次の動きを相談する。それで電話を切った。意識が朦朧としてきて、免許を取って初めて、両手でハンドルを握って家に帰った。 生きるを終えようとする人を前にして、決まって濃厚に私に絡みつ

表現者が新しい表現を見つける舞台になれたことが嬉しい。 そしてそんなことがケアの現場で出来るんだという記録。交換留藝の今。

お寺という場に行くことと、グリーフケアという誰か大切な人を失った人に向けられた何かしらが苦手だった。私が得てしまった体験を普段は横においているつもりが、実はそれはあまりにも生々しいもので、不用意に呼び起こされ、自覚するからだ。 生きると生きるを終える狭間の場所交換留藝という構想の発端は、ケアされる人とケアする人の役割を逆転させてしまうきっかけが欲しい、にあった。 とはいえ、突然に純粋的な芸術、いわゆるオペラや歌舞伎などがきっかけに欲しいわけではなく、いわゆる生活文化、鶴見

うつ、と付き合った半年間。10年間の活動を経て、次へ動こうと決意できた記録 2020.12.29

12月24日、3時間半ほどかけて、人生で初めて、スタジオでポートレイト写真撮影をした。どうしても今年中に撮っておきたかった自分の顔。 今年の夏の初めに、動けなくなった。一切の活動ができなくなり、毎日自分の体調の乱高下に付き合うことしかできなかった。いわゆるうつ状態、だと気づくのにそんなに時間はかからなかった。 よく言う「まさか自分が」の状態。まさか私が? 日曜の夜に襲われた動悸で、自分の命がなくなるんじゃないかと錯覚するほど苦しんで、夜に眠れず明け方ようやく寝付く。 する

#全部引っくり返す。ケアの文化拠点づくりの中の人の、頭の中と人の動きの開放記録

これでもか、という逆境の中、「診療所と大きな台所 ほっちのロッヂ」が、4月1日から始まった。町の文化が引き継がれる拠点として様々な仕組みをつくり、成功しかしないだろう、と自らも言い切れるほどの準備を重ねてきたこの半年。いや、2年半。 2017年11月に共同代表・運営を担う医療法人オレンジ理事長の紅さんと出会い、出会った日に構想がスタートした。2018年、3人目の出産直後に撮影したコンセプトムービーから一ミリもブレずに、言い出したことは全て確実に行なってきている。2019年2

「離れてつながる」とは。 2020.4.14

離れてつながる、とは。 離れても、なおつながりを願うことは、今に始まったことではない。 豪雪地帯、限界集落で暮らしている人も、 携帯電話がなかった時代にデートの待ち合わせをしていた人も、 命日を前にして亡き人とのつながりを願う人も、離れてもなお、どこかの誰かとつながりを信じてきた。 例えば亡き人に想いを馳せるとき、生きている人だけが持つ一方的な心の歩み寄りになる、ように見えるかもしれないが、 今はたまたま生きている人に想いを馳せるときだって、同じように一方的なのだ。 だっ