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表現者が新しい表現を見つける舞台になれたことが嬉しい。 そしてそんなことがケアの現場で出来るんだという記録。交換留藝の今。

お寺という場に行くことと、グリーフケアという誰か大切な人を失った人に向けられた何かしらが苦手だった。私が得てしまった体験を普段は横においているつもりが、実はそれはあまりにも生々しいもので、不用意に呼び起こされ、自覚するからだ。

生きると生きるを終える狭間の場所

交換留藝とは、自分自身の表現を持ってくる・見てもらう、という関係性ではなく、生きると生きるを終える狭間の場所である「ほっちのロッヂ」の活動を通し、また、はたらく中でつくっていく表現活動の総称です。(ほっちのロッヂ note)

交換留藝という構想の発端は、ケアされる人とケアする人の役割を逆転させてしまうきっかけが欲しい、にあった。

とはいえ、突然に純粋的な芸術、いわゆるオペラや歌舞伎などがきっかけに欲しいわけではなく、いわゆる生活文化、鶴見でいう「暮らしを舞台に人々の心にわき上がり、ほとばしり、形を変えてきた限界芸術」に近い分野がケアの現場だと例えた時に、ある特別な芸に秀でた人が感じ取り読み取った先に何が起こるのかをみてみたいと思った。
命、感情、それらにまつわる何かのやり取りをし続けるケアの働き手・関わり手が、自身を投影して何かしら可視化に繋がり、願わくば混沌として波乱に満ちたケアの現場での様々な感情を昇華していけるような取り組みになればと。

パフォーミング・アーティスト兼ボディワーカーの小林三悠(こばやし・みゆき)さん。診療所と大きな台所があるほっちのロッヂ で迎えた交換留藝の方だった。ダンサー、踊り手としても方々で活動してきていた。ほっちのロッヂで入念にそれも自然に身体をほぐしていて、集う子どもたちと活動的になることもあるし、気づいたら居合わせられるような、そんな人。
交わした言葉も多くはないのだけれど、演じる人と観る人に分かれる舞台はもうしたくない、という話を交わした時、心底共感できるものがあった。

「医者」「看護師」「ダンサー」と言えば事足りる何かを一度手放すことは、診療行為をしない、踊ることをしないこと。なんて怖い行為だろう。芸も資格もまるで何も持っていない私なんかが想像し得ない激痛なんだろうとも思う。

みゆきさんは滞在中複数回、踊りを試みた。けれど「踊らない」と決めた瞬間があった。ほっちのロッヂの働き手たちは、何者かわからない、という起点から少しずつ進んで、みゆきさんとの語らいを通してそんな表現者へ色々な眼差しを向けていた。

そんなみゆきさんが、3ヶ月間の滞在を経て何かをする、という日がとうとうきた。私が心底苦手とするお寺で。かつ大切な人を亡くしてそしてそれらをおんぶしながら生きている人へ、というなんとも胸がざわざわする設定。はてどうなるか。

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参道を通って畳の部屋で座る。靴下を脱ぐ、歩く、寝っ転がる、自分の中心を感じとる、という体操にも似た、コンテンポラリーダンスの前ぶれのような行為が繰り返されていく時間が過ぎた。意外と苦手だと思っていたことが自然にできていることに気づく。みゆきさんの声が心地がいい。

お堂に入った時、あまりに自分の心持ちと花鳥風月のそれが応答していることに気づく。チェロを持つ方大地さんが同じような言葉を言う。それをただ黙って聞いている。
また寝っ転がったり、チェロやお堂に介したいくつかの音の波長と自分の発する波長、波動みたいなものをなんとなく空中に出てきた線をなぞるように、みなその場に居合わせる。1つの抽象度が高い空間として見事に成り立っていたように思う。居合わせた人たちの心の種類、空中に出てきた線のような、色のようなものは、時に困惑、混同、揺らぎ、無、でも情動的な時もあったかも。

そしてみゆきさんは、踊らなかった。みゆきさんのフィジカルな踊りの代わりに、目に見えない観る人の心の種類のようなものが見事にお堂の中で舞っていた感じがして、無性に泣きたくなった。
ちょっとその舞いに酔ったのか、でもやけに晴れ晴れしい疲労感が残りつつ、本当はそこで寝つきたい気持ちを抑えて子どもと家に戻った。

表現者が新しい表現を見つける舞台

次の日、草刈りをしていたら姿勢のいい運転手が乗ったカブがほっちのロッヂの駐車場に入ってきた。みゆきさんだった。

私)「・・・みゆきさん、昨日は1日中でしたね、今どんな感じですか?疲れてないですか?」

みゆきさん)「あ、それがね、疲れてないんですよ。何かを越えた感じ。ふふふ」

あ、そうか。みゆきさんは昨日は観る人だったんだ。演じる人と観る人が入れ替わって、そっち側にいったんだ。そんな気持ちで短い言葉を交わして会話を終えて、そうか、みゆきさんはどちらも行き来できる人になるんだとなんだかまた涙が出そうにもなった。

行き来することが素晴らしいというよりも、みゆきさんという表現者が新しい表現を見つける舞台になれたことが素晴らしい、嬉しい。
そしてそんなことがケアの現場で出来るんだ、起こりうるんだということを、もっともっと言葉にしたいし、したくない気持ちもする。

みゆきさんのクリエイションを支え続けたEmily / 唐川さん始め1人1人の動きがなければ、みゆきさんはそちら側に行けなかったのではないかなとも思う。心底素晴らしいと思う。そんなチームの横に居合わせることができて嬉しい。

ケアの現場は、「暮らしを舞台に人々の心にわき上がり、ほとばしり、形を変えてきた」全ての動作に精通する、表現の源流の宝庫だと信じることができるきっかけになった。
自分の中に滞って怖がっていた怖さみたいなものは、環境設定でどうにかなるのか、とふと回収していく自分がいた。

次は誰がこの現場に居合わせるのかな。乞うご期待。

藤岡聡子 / いつも人の流れを考えている、表現の舞台の作り手