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うつ、と付き合った半年間。10年間の活動を経て、次へ動こうと決意できた記録 2020.12.29

12月24日、3時間半ほどかけて、人生で初めて、スタジオでポートレイト写真撮影をした。どうしても今年中に撮っておきたかった自分の顔。

今年の夏の初めに、動けなくなった。一切の活動ができなくなり、毎日自分の体調の乱高下に付き合うことしかできなかった。いわゆるうつ状態、だと気づくのにそんなに時間はかからなかった。
よく言う「まさか自分が」の状態。まさか私が?

日曜の夜に襲われた動悸で、自分の命がなくなるんじゃないかと錯覚するほど苦しんで、夜に眠れず明け方ようやく寝付く。
すると家のことが全くできず子どものご飯の支度に始まる家事一切がまるでダメだった。ずっとふらふら。ようやく休めた、と思ったらもう子どもの迎えの時間。物事を考え始めると動悸が始まる。悪循環から抜け出すには薬に頼るしかなかった。
抗うつ薬というものにすごく抵抗はなくて、藁にもすがりたい気持ちで飲み始めるも、効くまでに2週間かかると言われる。その時も今も、その2週間の記憶がまるでない。

なんとか息をしながら、本を読んだ。梨木香歩さんのエッセイに限って、活字が読めた。考え事をしないためには何かに没頭していると楽になる。
歩いて行けたり、すぐに会える圏内にいる友たちに正直に、今、すごくしんどいんですと伝えた。するとすぐに子どもの送り迎えやお弁当作りに手を貸してくれた。これには本当に救われた。その時も今も、友たちとの語らいはとてつもなく楽しい。

身体を触ってもらった。サロンをしている友のところへ通って、あたたかな手で身体に触れてもらい、どこが気になるか聞かせてもらった。胃と小腸が冷え冷えで完全にやられていたらしい。(今も若干)そうなるくらい何も喉が通らなかったなー。
ストレッチと筋トレをして、とにかく深く深く呼吸した。これも友から教わったこと。
歌を聞いた。自分を愛そう、と言うメッセージを発する曲に今も救われ続けている。

SNSをぷつりときった。ツイッターは少しずつ。noteはちょっと書き溜めたりするくらい。リアルであう人だけに、関係性を集中した。

美術館に行った。1人で歩いて、じっくり眺めて、何か自分の中が満ちていくような感覚をとても受けた。東京を歩いて、歩いて、歩いた。髪型も定期的に変えている。(まあ髪型は、常に変化してるからそこまで目新しさはないか。)

週末は子どもとじっくり過ごした。散歩したり、抱っこしたり、なんでもないようなこと。毎日ずーっと仕事していたから、我が子の顔、ちゃんと見れてなかったんだって、ようやく気づいた。あと、やっぱり3人の子育ては、ちゃんと大変。
今まで上の空で子育てしていたことが、よくわかった。

・・・こう書くと結構しているように思えるけど、時間軸は極めて長い。

さてこういうときは大抵、何かが重なるもので、私の場合は娘がこけて歯が折れて通院することになったことと、息子が自転車でこけて脱臼と骨折により緊急手術からの入院生活、全治2ヶ月半の怪我が重なった、という感じ。

その頃には自分のことより子どものケアに集中できる体力も戻りつつあったし、なんか考えすぎもよくないなーという心は持てるようになっていたけれど、もちろん万全とは言い難い。それが8月。9月から徐々に美しい紅葉の季節が始まりつつある町で、やっぱりすぐにはよくならなかった。人とぶつかったし、腹が立ったし、動悸が多くあった。もう元に戻るには無理かなぁと思ったこともあったし。たくさん迷惑もかけた。

うーん。大変だった。けれど、いいこともあった。一つの区切りをつけようと決心できたこと。

自分の今までってなんだっけ?制約条件がなかったら何をしたいんだっけ?とさながら学生のようにシンプルに考え始めて、心許せる友たちと語らったり、うんうんと考えたり。出した結論は、「10年間、福祉環境設計士のみだった活動に区切りをつける」。
いわゆるケアの領域に限定された活動は、一区切りつけます。(会社のコンセプトも、言葉をもっとシンプルに変えました。)

気づけば自分の活動がケアの領域に偏っていて、亡き父・母の思い出に浸って自己満足していた自分から脱却したかった。領域を限定することなんてないのに、ずっと頑張っちゃっていた感じがいなめない。(今までよくやったし、よくやってるよ自分。)

思えば、中学生になった初日に制服を捨ててしまいたくなった衝動が懐かしい。わかりやすい、染み付いたラベリングに苦しさを感じたら、一回それを脱げばいい。大人になるっていうのは、そういうのを着たり脱いだりできることなんだって一人合点する。(まあしらんけど。)

そんなこんなで、少し前から軽井沢町のラジオ局での新規事業開発を進めています。それから、東京発のクリエイターの没頭空間作りの新規事業開発チームに関わり始めていたり。そして友が進めている海藻事業と、気持ちの良い働き方そのものをアメリカへ広げる手伝いもしていたり。

結果的に、これまでにない事業価値、そして文化を作ったり、ファンが生まれていたりする、そんな仕組みをあーだこーだ言いながらチームとつくっていく。つまり今までもこれからも、やっていくことは変わらずなわけです。

いわゆるケアに限定された活動は一区切りつけるけれど、これまでとはちょっと関わり方を変えつつ、軽井沢町にある「診療所と大きな台所があるところ ほっちのロッヂ」の共同代表も続けていきます。
町の活動範囲もまた空き家を面白くするのことなどで増えていくかもしれない。それも楽しみ。
町の動きで言えば、区長とコミュニケーションをとりながら、自分や友たちの子どもに、ふるさとをつくる活動や、友たちと親子ラグビー教室をワイワイやったりなど、自分たちでこの町で気持ちよく暮らしていく引き出しを増やしていく。

いろんな軸足があった方が、着たり脱いだりできるからちょうどいいんだろうな。
35歳になってようやく気づけて。そんな頭の中の記録を後々赤面することがわかっていながら、綴っておく。冒頭の写真撮影の下りの続きで言えば、いろいろあった年はどんな顔で締めたんだ?という好奇心の延長線上でもあるのかも。

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。人生いろいろありますね(笑)
こうした記録が、誰かの何かを少しでも照らしたり、1人じゃないんだ、と思ってもらえるきっかけになれば、と思っています。

また少しずつ発信を再開してきます。いつかどこかで、また!


Satoko N FUJIOKA
*Nは、旧姓の西山の”N”です。私の大事な要素。