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休職おめでとう自分。

私は私しかいないのに、私のような人は意外と多くいるのだろう。
いや、いるのだ。
だろう、とあえて推測したかのような言い回しをしたのはちょっとだけ信じたくなかったからだ。私は私しかいない。オリジナル、オンリーワンに拘っているから気づいていないふりをした。
こうしてnoteを書いているのには誰かに共感してもらいたいという気持ちもある。共感してもらいたい、というのは私と似たものを探しているということではないか、すなわち私のような人を求めているのではないか。
似た者を疎う反面、似た者を求め、そして安心し喜ぶ自分が共在している。私って人間って難しいな。

適応障害になって暫く経ち、やっと数週間前に休職をした。
念願の休職、おめでとう自分。
願いながらも拒み続けていたのは孤独による不安からだった。
一時でも離れるのが怖かった、私を見て欲しい、私はまだやれる。
けれども結局、休職を選ばなかったところで孤独に苛まれ今に至る。
ドキドキ、ソワソワ、思考も視線も定まらない。自分の中のメーターが急上昇しては急降下、頭の中では危険を知らせるサイレンが鳴っている。ようは自律神経が乱れまくっているのだが、これが辛い。
こんなことになるならさっさと上司に「モチベ低いんで休ませてもらいます!」と大口叩けばよかった。いつも想像するだけで終わっていた。
私の人生では「後悔先に立たず」という言葉を身をもって思い知らされている。どんな時も。後悔しているが後悔していることに後悔はしていない。
私はむしろこのことわざが好きだし、それを常に実感していることに対しても前向きである。やらない、知らない、分からない。生きていると妙に知恵がつく、無知でいることが自分も周りも苦しめる事だと知ってしまっていた。知恵というだけあって知ることは恵なのだ。
そして私は今、22歳にして「疲れたら休む」を知ったところだ。
これで私はこの先私に、あるいは他人にこういう思いやりができるようになった。優しさというのは強さなんだか、弱さなんだか判別できないものだな。

「疲れたら休む」って難しい。
例えば誰かと遊びに出かけたとする。
そうすると相手が「お茶しない?」というまで歩き続けてしまう。歩き続けていて足が重たくなっていることを感じていても。
もうその段階で「休む」という行為が出来ない人間なのだ私は。

日本人は適応障害になって休職してる人は多いだろう…と思ったが少し検索してみたら13.3%だった。思ったよりは多くなかったな。
2015年の記事だったから古い情報だけれど。
まぁでも2015年の社会人さんだって1割は私と同じ人がいるのだ。
休むのが下手だった同類かもしれない。
22年の人生、たったこれだけ、されどもこれだけ。
人としては得ている物事が少ないかもしれないが私はこれでも必死である。毎日最善を尽くしているのかというとそうではないが人生トータル的に見れば常に最善を尽くしていると信じている。
そして最近得たものが上記である。認めよう、評価しようじゃないか。

「休む」ということを知りはしたが、まだ理解はできていないようだ。
現に私は焦っている。「休む」ということはこの先、また以前の生活に戻らなければいけないのだ、というプレッシャーを感じている。
そんなに嫌ならやめちまえばいいのに、とぼやく私もどこかにいるが聞こえていないフリをしている。今は。
落ち着け、慌てるな。と思うほど慌てるので、何を焦っているのか私自身に聞いてみることにした。
その方法がnoteである。文章にして、自覚させる。
あわよくば誰かに見て欲しい、共感されたい、あるいは誰かに新たな価値観を生み出させたい、なんていう下心も添えて。

私はまだ休みたいし、ずっと休んでいたいんですって。
まだお仕事はしたくないそうです。わかりました。じゃぁ休みましょうね。
好きなことしましょう。何もしたくない時は何もしない、何かしたいことがあるならしましょう。

といった具合に、ポチポチと文章を作っていくうちに落ち着いてきた気がする。
読み返す気は無いからこの文章は整理されていない。
読者、あるいは自分が読み返す場合は大変そうだ。

今日私がこのnoteを作成することで得たこと
・「疲れたら休む」
・私はまだ休みたい
・文章を書くと思考の整理につながる

追記、修正点等ございましたら私にご連絡下さい。
なんつって。


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