「化け猫先生の茶話」第一話/桜醒め
《あらすじ》
「吾輩は元猫であり、小説家である。名は雉虎緑目(きじとらりょくめ)」
と、緑目先生は名乗った。
平たくいうと、緑目先生は人間に化けて小説家をしている化け猫らしい。
わたしは出版社勤めの新人編集者で、緑目先生の担当だ。
なかなかヒット作が生まれない緑目先生だけれど、江戸のむかしから生き続けているだけあって、物語のネタには事欠かない。
わたしは、緑目先生のむかし話を聞くのが好きだ。お茶の時間に緑目先生が語ってくれるちょっぴり不思議な小噺の数々を、ここでいくつか紹介しようと思う。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「緑目先生、今年の桜ももうおしまいですね」
差し入れの桜餅をひろげながら、わたしは言った。
雉虎邸の庭には大きな桜の木があり、魚の鱗のような形をした花びらが縁側にまではらはらと舞い散っていた。
「先週は満開で、コットンキャンディみたいにふわふわだったのに」
「コットンキャンディ?」
「わたあめのことです」
「はじめからそう言え」
「カタカナの方がなんかかわいくないですか?」
「かわいくする意味がわからん」
ぶつぶつ言いながら、緑目先生が着流しの袖口を押さえて差し入れの桜餅に手を伸ばす。
「桜餅はなんだ? チェリーブラッサムモチか?」
「あー、いえ、桜餅は桜餅ですね」
「わからん」
緑目先生が桜餅を頬張った。
わたしもご相伴にあずかり、ひとついただいた。
あんこはとっぷりと甘く、桜の葉は涙のようにしょっぱく、それはどことなく、春ならではの出会いと別れの味がした。
「桜褪め」
と、緑目先生が言った。その緑色の瞳は、吹雪く花びらを追っていた。
「咲いたかと思えば、まもなく散る。桜は実に移り気だ。江戸では、桜の咲く三月は婚礼を忌む習慣があった」
「移り気……」
「縁を結んでも、桜が散るようにまもなく恋心が褪めてはかなわんということなのだろう」
「興味深いお話ですね」
わたしはカバンからノートを取り出し、緑目先生のむかし語りを書き留めることにした。
「江戸のむかし、吾輩が大伝馬町にある木綿問屋の猫だったころの話だ。店(たな)の娘が手代と恋に落ちた」
「お店の娘さんと手代さんってことは、ええっと、今でいうところの社長令嬢とエリート社員の恋ってとこですかね。結婚モノで一本お話が書けそうですね!」
「親御は反対した」
「なるほど、その壁をどう乗り越えていくかが見せどころですね」
「言って聞くような娘ではない。蝶よ花よと育てられ、一度言い出したら退かない我の強さがある娘だった。そこで木綿問屋の旦那は、一年ばかり、娘と手代が川向こうの寮(りょう)でともに暮らすことを許した」
「川向こうっていうのは、両国橋の向こう側ってことで合ってますか?」
「うむ」
「〝りょう〟は?」
「寮とは大店が所有する別荘のようなものだな。当時、川向こうにはのどかな風景が広がっていた」
「なるほど、ありがとうございます」
わたしは『川向う』の文字を丸く囲い、『のどか』と言葉を書き足した。
「娘と手代がわずかな使用人と吾輩を連れて大伝馬町から寮へ移ったのは、ちょうど桜が満開の時分だった。ふたりは花見に興じ、蛍を追い、月を見上げ、雪あかりのなかで眠る春夏秋冬を過ごした。吾輩の目から見ても仲睦まじい日々だった」
「うらやましいですね」
「一年もあれば縁が切れることもあろうかと算段していた親御だったが、目論見は外れ、いよいよ根負けした。祝言を許した」
「愛が勝ったんですね!」
「八方よしかと思われた」
「って、違うんですか?」
「周囲が盛大な祝言へと舵を切った途端、娘がにわかに大伝馬町に帰ると言い出したのだ」
「ええっ、なんでまた」
「いわく、もういい、と」
「もういい……」
「桜が散るように恋心が褪めたのだろう」
「それが〝さくらざめ〟なんですね」
「桜も、娘も、実に移り気なものだ」
わたしはうなずきつつ、ノートを閉じた。
「その娘さん、恋に恋していたというか、恋をしている自分に恋をしていたんですかね」
「手代にも、川向こうの鄙びた暮らしにも、もういいと思ったと言っていた」
「それって、なんだかちょっと蛙化現象に似ている気がします」
「〝かえるか〟?」
「すっごく好きだったはずなのに、両思いになったらなったで、キモッ! ないわ! ってなる乙女心のことです。男の人でもなるみたいですけど」
「〝かえる〟は〝かわず〟のことか?」
「はい、グリム童話の『かえるの王様』からきているらしいですよ。嫌いだったのに好きになる、好きだったのに嫌いになる、みたいな」
「褪めたのだな」
「褪めたんですね」
緑目先生は、すでに桜餅をふたつ平らげていた。
「ちなみに、その後、娘さんはどなたかと結婚したんですか?」
「親御の勧めで、同じ木綿を扱う大店の若旦那のもとへ嫁いだ。子宝にも恵まれ、何不自由なく幸せな一生を送った」
「手代さんは?」
「奉公人仲間と結ばれ、暖簾分けの店を持ち、これまた幸せな人生を送った」
「ああ、よかったです。ハッピーエンドで」
わたしは胸を撫で下ろし、思い直して肩をすくめた。
口の中には、先ほど食べた桜餅の味が広がっていた。
「わたしがいつか結婚するときは、三月は避けるようにします」
移り気な桜の葉に包まれた、出会いと別れの味。
「お前さんなら、迷信と笑い飛ばすかと思ったが」
「わたし、先生のお話はガチで全部信じているんで」
「そうか。では、もうひとつ教えてやろう」
「はい、お願いします!」
わたしは再びノートを開いた。
「かわずの肉は鶏のささみの味がする。うまいぞ」
そう言うと、緑目先生はぺろりと口のまわりを舐めたのだった。
第二話/されこうべ
第三話/坂の上の洋館
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