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日本国が「目指したもの」とは?(前編)ー日本人のための『和の国・日本国』講座51ー

こんばんは。高杉です。

日本人に「和の心」を取り戻す『和だちプロジェクト』の代表として活動しています。

2年の月日を経て、この度、『和の国・日本国』講座を
再始動する決断に至りました。

休止している間も、たくさんの方に記事を読んでいただき、
TwitterのDMなどを通じて感想や応援メッセージを送っていただき、
大変励みになりました。
この場をお借りして、誠に感謝申し上げます。

さて、久しぶりのブログになるので、
勝手を忘れてしまっていますが少しずつ感覚を取り戻していき、
これまで以上に、精を出すことができればと考えています。

令和5年はさらに『和だちプロジェクト』の活動を盛り上げていきたいと
考えています。

どうぞ、皆様のお力をお借りできればとも思います。


復帰記念、第51回目は、

日本国が目指したもの ~日本人に受け継がれる「和の本質」を探る~

をテーマにお話をさせていただきます。
どうぞ、最後までお付き合いください。




1)日本は今年で戦後〇〇年




日本は、戦後〇〇年。

皆さんは戦後という言葉を聞いたことはありますか。 どこで聞きましたか。

〇〇には何が入るでしょうか。






1945年8月15日が終戦ですので、

今日が2023年2月27日なので、

2023ー1945で78年ですね。
(まだ、今年は8月15日にはなっていませんから77年になりますね。)


では、戦後77年とはどういう意味でしょうか。

戦争が終わってから77年が経っている。

戦争が終わって77年間、一度も戦争していない。

戦争が終わってから今日まで一度も戦争をしていない

という意味もありますよね。





では、なんという戦争から77年経っているのでしょう。


太平洋戦争
日中戦争
大東亜戦争
第二次世界大戦。




昭和20年8月6日。


昭和20年は、1945年


まだ日本は、戦争中です。

広島の朝は快晴でした。

昭和20年は、日本は戦時中でした。

空襲警報が夜中に解除されたので、ようやくうつらうつらしたものの、午前7時9分。

けたたましい警報に、広島の人々は再び起こされたのでした。

でも、通過していった敵の戦闘機はたったの一機だけ。

じきに、警報は解除され、広島の人たちは防空壕や避難所から自分の家に帰
宅して、少し遅い朝食をとったり、仕事に出かけたり、それぞれの一日が始まろうとしていました。


しかし、8時15分。そんな数十万人の日常、かけがえのない一人一人の時間は、一瞬にして奪い去られてしまいました。




そうです。


その後にやってきた大型爆撃機Bー29「エノラゲイ」が、人類史上初めて原子爆弾を広島の罪なき人々の頭上に投下したのです。


当時、国際法で宣戦布告後の戦争をはじめることは認められていましたが、攻撃目標は、戦闘員に限定されており、民間人を攻撃の目標にしてはならないと定められていました。


敵方は、「戦争を終わらせるため」という名目で、広島と長崎に原爆を落とした。と言われています。

しかし、それは真実ではありません。

原爆が落とされるころの日本は、敗戦間近で戦争を続ける力はありませんでした。

和平交渉を行っている最中だったのです。

原爆投下は、戦争を終わらせるためではなく、その効果を実験するために行われたのです。

まさか、同じ人間同士で、そんなむごいことができるのか。

僕は、初めてこの事実を知った時に大きな衝撃を受けました。





日本は過去、アジアの国々を次々に侵略してしまった悪い国で、アメリカのおかげで民主主義の良い国になったのだと信じ込んできました。


でも、それは違いました。


彼らは戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けることで、日本が二度と連合国に歯向かわないように、その精神を破壊しようという計画を実行したのです。


もしも、あなたが「日本は悪いことをした国だ。」「日本は世界中に迷惑をかけたのだから、謝るのは当たり前のことだ。」と思っているとすれば、
それは、本当の日本を知らないからにほかなりません。


僕は、本当に日本国が目指したものを知ることで、考え方がひっくり返りました。


自分や自分の家族の幸せだけを願っていた僕が、この日本国に生まれ、日本人として生きることができ、本当に幸せだな。誇りに思うことができるようになりました。


だから、あなたにも知ってほしいのです。


私たちが生まれた日本国が本当に目指していたものを。日本国が本当に素敵な国だということを。


そして、今日まで、私たちが豊かな暮らしを営むことができるこのすてきな国が続いているのは、日本国を、私たちを命がけで守ってくださった先人たちのおかげであるということを。


先人たちが大切にしてきた精神性。

僕たちの心の中に眠っている精神性。

『和の精神』を呼び覚まし、再び日本を皆がよろこびあふれる豊かな国にしたい。

自分を、自分の国を堂々と語り、誇りに思ってほしい。

子どもたちが希望を感じ、いきいきと輝くことができる国にしたい。


それが今、我が国に生きる僕たち大人の役割だと思うのです。





3部に分けて、お話をしていきます。




今回は、

日本国がどのようにして外国とかかわっていったのかを今から、

180年前。


1853年の日本から考えていきたいと思います。



2)日本はどのように外国とかかわっていったのか?~明治初期~





1853年。


アメリカから東インド艦隊司令長官ペリーが率いる軍艦4隻、いわゆる「黒船」が江戸湾(現在の東京湾)の入り口の浦賀沖にやってきました。


これまで見たこともない大きさの黒い軍艦が、いつでも首都を攻撃できる範囲までやってきたので、当時の人々は、とても驚いたことと思いますが、当時のアメリカは日本と戦争しようという目的でやってきたのではありません。


アメリカは、太平洋まで出てきて捕鯨、つまりクジラをとっていました。漁をする船に、燃料や食料、水といったものを補給するためにやってきたそうです。


日本は、その申し出に応じるかたちで開国します。これまでは、清という国とオランダの2カ国と限定的に交易をしていた日本にとっては、大きな出来事でした。






この当時の世界は、ローマ教皇が、世界中どこであっても、最初にたどり着いた者の国にしても良いと許可したことにより、白人キリスト教世界による土地の奪い合いが始まっていたのです。

しかも、ローマ教皇はさらに、「有色人種は家畜以下だから自由に駆逐してもよい」というお墨付きまで与えたのです。

スペイン、イギリス、フランス、ポルトガルなどなど。ヨーロッパを中心とする国々は、みんなこぞって船で出かけていき、「ここは今日から俺たちの領土だ!」というわけです。

そこに住んでいた、いわゆる先住民と呼ばれる人たちは、次々に支配されてしまいました。

当時は、白人至上主義が生んだ強烈な人種差別の中で、白人以外の国に住む人々は、人間以下の存在として扱われていたのです。






白人たちは、自分たちの暮らしをよりよいものにするために、とても貪欲でした。

様々な技術を開発し、産業革命を起こし、汽船や蒸気機関車、強力な武器を造って、ものすごい力を持っていったのです。

それに対して、多くの有色人種があっという間にギブアップして、植民地化されていきました。

イギリスは、70もの植民地をもっていました。

ロシアは、太平洋まで自分の国にしました。

アメリカ大陸も、ヨーロッパからやってきた白人によって、そこに住んでいたネイティブ・アメリカンの9割が殺されてしまいました。

白人たちは、次々に土地を取り上げ、自分たちの暮らしをよりよくするための労働力としてアフリカから、まるで家畜を扱うように奴隷として連れて行ったのです。


日本が開国した170年前の世界は、そのような状況でした。





では、そのような世界情勢の中、私たちのご先祖様は何を考えて、どのようにアクションを起こしたのでしょうか。

失敗すれば、国が滅びる。大切な人の命が奪われる。そんな過酷な時代だったのです。

まず、ヨーロッパの文明を知ることから始めました。

魚に水が見えないように、日本人には日本が見えません。

鎖国が長く続いた後ですから、なおさらです。

変わらなければならないといっても、いったいどのように変わればよいのか、日本にいるだけでは分かりません。

世界を知るために、いったん日本の外に出て、外から日本を見つめなおそうとしました。

そして、先人たちがつないでくれた日本国のよさや精神性は保ちながら、ヨーロッパの技術を学んでいく『和魂洋才』の国づくりを目指します。

その一環として、岩倉具視を筆頭に、政府首脳陣46名を含む、総勢107人で構成される岩倉使節団をヨーロッパに派遣しました。

白人の文明を学ぶために、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツなどなど。

合計で12カ国をなんと約3年もかけて行ったのです。

1871年から1873年のことでした。

西洋文明に接した日本の中心人物たちは、「このままでは日本が危ない。だから、すぐに国内をまとめ、力を合わせて進んでいかなければならない。」と考えました。





この当時、本気で世界から学ぼうとした先人たちがいたからこそ、日本国は他国から侵略をされることはありませんでした。

もしも、学ばずに何も行動を起こさなかったとしたら、日本国も植民地になっていたことでしょう。

政府は、世界と対峙していくためには、当時、人々を守ってきた武士の刀を取り上げ、特権をすべてなくし、徴兵制を導入して強い軍隊を作っていくしかない。

そして、工業と商業の発展に力を注ぐしかないと考えました。

これが「富国強兵」と言われるものです。

鉄道、湾港、道路などのインフラを整備を急ぎに急ぎ、まさに怒涛の勢いで力強い日本を作っていきました。



3)日本はどのように外国とかかわっていったのか?~日清戦争~





この当時の我が国の脅威となる国は、どこだったのでしょう。

植民地化を大きく進めていたイギリスやフランスは、当時はそれほど脅威ではありませんでした。とにかく遠いですから。

そして、アメリカも、当時は日本を侵略する気がなかったので脅威ではありませんでした。

日本にとって唯一の脅威は、ロシアだったのです。

ロシアは太平海岸、カムチャツカ半島まで半島にまで勢力をのばし、日本から最も近いヨーロッパと言われるウラジオストクに港をつくり、虎視眈々と日本を狙っていました。

実は、この「ウラジオストク」という地名ですが、ロシア語で『ヴラジ(支配する)』と『ヴォストーク(東)』を合わせたもので、「東方を侵略せよ」という意味が込められているのです。

ロシアは、領土こそ広大なものの北側はほとんどが凍っており、港は使い物になりません。

そのため、日本を侵略し、凍らない港が欲しかったのです。

このような状況下で、我が国はどこを守ればよいのでしょうか。

先人たちは、ロシアから朝鮮半島をなんとしてでも守らなければならないと考えました。

しかし、朝鮮半島は、長い歴史の中で、いつもどこかの属国になっていました。

当時は、清の属国になっていて、清に貢物をすることで守ってもらうようなかたちになっていたのですが、強国ロシアが攻めてきたらひとたまりもないことは明らかでした。

だからこそ、日本は朝鮮半島の人たちに「きちんと独立して、自分の国は自分たちで守ってほしい。ロシアの侵略を一緒に食い止めよう。」と語りかけます。

しかし、他国に国の防衛を頼りなれていた朝鮮は、聞く耳をもってはくれません。

そして、ついには、清が日本に圧力をかけてきたのです。

1886年。

長崎に清の軍艦4隻がやってきて無許可で入港しました。

表向きは、「艦艇修理」でしたが、実際には、「朝鮮には手を出すな。」という威圧と恫喝でした。シナ大陸の国は、支配者が変わっても一切変わることなく、日本のことを下に見てきました。

そのため、格下の日本が、清の属国である朝鮮と対話をするとは何事だと圧力をかけてきたのです。





日本は、朝鮮に対しても清に対しても、いくら無礼を働かされたり、挑発されたり、騙されたりしても、礼節を守り、和をもって友好的な関係を築く努力を続けました。

最後まで、戦争を回避しようとしたのです。

しかし、結果的に交渉は決裂し、戦争がはじまりました。「日清戦争」です。

目的は、朝鮮半島を侵略するのではなく、ロシアの脅威から日本国をはじめ、東アジアを守るために、何より朝鮮の独立を守るために清と戦ったのです。

そして、1895年。清との戦いに勝利し、清に朝鮮の独立を認めさせたのです。

こうして、日本は清に勝って、朝鮮も自分たちで自分たちの国を守ることができるようになるはずでした。


しかし、そううまくはいかなかったのです。


4)日本はどのように外国とかかわっていったのか?~日露戦争~





日清戦争に勝利したことで、朝鮮を守るために清からリャオトン半島を租借します。

しかし、日本が清に入ることを不快に感じたロシアが、フランスとドイツに働きかけ、リャオトン半島を清に返すように圧力をかけてきたのです。

「三国干渉」と言われるものです。

富国強兵を進めていた日本でしたが、さすがに列強3国を相手に戦うことができず、理不尽な言い分を飲むことしかできませんでした。

そうして、リャオトン半島を清に返して間もなく、ヨーロッパの国々は、東アジアにまで侵略の手を伸ばしていきます。

ドイツは、膠州湾、フランスは、広州湾、イギリスは香港を乗っ取りました。そして、なんと日本が返したはずのリャオトン半島をロシアが乗っ取ったのです。

ロシアは、シベリア鉄道を開通させ、艦隊を南下させ、さらに日本に圧力をかけてきたのです。

そして、なんと朝鮮までもが「清に勝った日本が白人の脅しに負けた。一番強いのは、白人なんだ。今度は白人に頼ろう。」と考え、ロシアに服従してしまうのです。

もうここまで来たら、自分たちで自分たちの国を、どんなことがあっても守らなければならないという状況に追い込まれてしまったのです。

清の属国だった朝鮮の独立を目的に戦ったはずが、わずか数年で朝鮮がロシアに浸食されてしまうという、最も恐れていた事態になってしまいました。





いよいよ、ロシアが南下して朝鮮半島を手に入れ、日本を狙っています。

世界中のどの国も、日本のようなちっぽけなアジアの小国が、白人の強国ロシアに勝てるわけがない、と思っていました。

有色人種が白人に歯向かうことなどできるはずがないことが当たり前の時代だったのです。

それにもかかわらず、日本とロシアとの戦いは、日本が勝利します。


日本は、どのようにして勝ったのでしょうか。





いくつも理由はありますが、一つは、戦争を始める前から「どうやって終わらせるのか」をあらかじめ、徹底的に決めて挑んだことです。

日本政府は開戦前から、日本が有利に戦いを進めたところで中立国に講和をしてもらえるように根回しをしていました。中立国に間を取り持ってもらい、国際的に手続きを踏んで、認められるかたちで戦争を終わらせることができるように、準備を入念に進めていたのです。

その中立国こそが、アメリカです。

当時のアメリカ大統領であったルーズベルト大統領と大学の同級生であった金子堅太郎を派遣し、和平を結ぶ手助けを頼んだのです。

これだけではありません。

他にも、明石元二郎が秘密裏にスウェーデンを中心にヨーロッパ中を飛びまわって情報を集め、戦争中にロシア国内で革命を起こさせるように動いたり、

秋山好古を中心に日本の騎兵隊を世界のトップレベルまで鍛え上げ、ロシア帝国が誇る「コサック騎士団」を破ったり、

乃木希典が率いた日本軍が、撃たれても撃たれても、死屍累々の屍を踏み越えて決死の総攻撃を行うことにより、ロシア兵が恐れおののき逃げ出すことにより難攻不落の要塞である旅順を制圧したり、

東郷平八郎率いる日本軍が、ロシアが誇る世界最強のバルチック艦隊を「日本海海戦」で完全勝利をおさめたり、

もちろん兵隊以外にも、日本国民が一致団結しました。


あげたらきりがないほどの多くの人たちが、それぞれの持ち場で命がけで役割をまっとうすることで日本はロシアに勝利しました。


そしてこの勝利は、世界中の人たちが驚愕した、人類史上誰もが予想しえなかったことを成し遂げたのです。


「有色人種が世界大国の白人国家に勝利する。」



この事実は、白人たちに虐げられてきた世界中の有色人種たちの希望の光になりました。


そして、長らく続いた激しい人種差別との決別を目指す動きは、僕たちが生まれた国、日本から始まったのです。






そして、この勝利は有色人種に希望を与えることと引き換えに、白人国家に「日本」という脅威を意識させることにもつながっていくのです。


次回は、

なぜ日本が先の大戦に挑まなければならなかったのかをお話しします。




自分や自分の家族の幸せだけを願っていた僕が、この日本国に生まれ、日本人として生きることができ、本当に幸せだな。誇りに思うことができるようになりました。


だから、あなたにも知ってほしいのです。


私たちが生まれた日本国が本当に目指していたものを。日本国が本当に素敵な国だということを。


そして、今日まで、私たちが豊かな暮らしを営むことができるこのすてきな国が続いているのは、日本国を、私たちを命がけで守ってくださった先人たちのおかげであるということを。


先人たちが大切にしてきた精神性。

僕たちの心の中に眠っている精神性。

『和の精神』を呼び覚まし、再び日本を皆がよろこびあふれる豊かな国にしたい。

自分を、自分の国を堂々と語り、誇りに思ってほしい。

子どもたちが希望を感じ、いきいきと輝くことができる国にしたい。


それが今、我が国に生きる僕たち大人の役割だと思うのです。


一緒に、日本を学びませんか?


最後まで、お読みいただきありがとうございました。

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