見出し画像

自らの生き方を見つめなおすための一手『先人の生き方』に学ぶ誠の教育観(中編)~修身教育と道徳教育はどのように違うのか?~ー『日本人のこころ』31ー

こんばんは。高杉です。

日本人に「和の心」を取り戻すというスローガンのもと
『和だちプロジェクト』の代表として活動しています。


毎日、災害級の暑さが続いていますが
皆様お元気に過ごされていますでしょうか。

私は、パリ五輪の悲惨さに世界の混乱を感じつつ、
このような時節だからこそ、我が国について学び
土台を固め、現代の教育に活かすべく学ぶ日々を過ごしています。



ついに、夏休み期間中の学習会の目途も立ち、
8月5日(月)から学習会を行っていきます!

ぜひ、お聴きいただき、
一緒に我が国を学んでいきましょう!


さて、
今回は「修身教育」「道徳教育」について
歴史的に見ていきたいと思います。

よろしくお願いいたします。







1)「修身教育」はどのように始まったのか?




2013(平成25)年、
第2次安倍内閣の下で設置された教育再生実行会議は、
いじめ・体罰などの対策の一環として
道徳教育の教科化
などを提案しました。

この提案は、
いじめ問題に焦点化して道徳教育の在り方が問われたことが大きいです。

1980年代にいじめが社会問題となって以降、
様々な対策がとられてきたにもかかわらず、
道徳教育が積極的な役割を果たせなかったという事実が
改革の必要性を訴える説得力がありました。

この認識が出発点となったことで、
道徳的問題を自分の問題として受け止め、
解決する力を育てる実効性のある授業をどのように創るのかという
問題意識が高まっていきました。

教育再生実行会議の提言を受けて、
文部科学省は、「道徳教育の充実に関する懇談会」を設置します。

その報告を踏まえて中教審に諮問します。

中教審は、
「道徳教育に係る教育課程の改善等について(答申)」において、
道徳を「特別の教科」とする方針を示しました。

そして、
2018(平成30)年度から小学校で
2019(平成31)年度から中学校で
「特別の教科 道徳」の全面実施が始まりました。

学習指導要領では、


学校における道徳教育は、特別の教科である道徳の時間(以下、「道徳科」という。)を要として学校の教育活動全体を通じて行うものであり、道徳科はもとより、各教科、外国語活動[小学校のみ]、総合的な学習の時間及び特別活動のそれぞれの特質に応じて、児童(生徒)の発達の段階を考慮して、適切な指導を行わなければならない。


と書かれているように、
教育活動全体を通じて行う道徳教育は、まさに「特別」です。

そして、
その特別の道徳教育の中核を成す教科である道徳科は、
道徳教育の要であるがゆえに「特別の教科 道徳」とされているのです。

では、
「修身教育」「道徳教育」はいつから行われているのでしょうか。




1872(明治5)年8月2日、
「学制」が公布されました。

そこでは、西洋的近代化の達成のために、
それまでの儒教思想に基づく伝統的な道徳よりも、
近代西洋の知育を優先することが求められました。

そのため、
道徳課目「修身科」は教科の中では6番目に挙げられ、
『泰西勧善訓蒙』、『修身論』、『童蒙教草』などの
翻訳教科書を用いて行われました。

ところが、
士族の反乱や自由民権運動による政治的緊張の高まりから、
政府のこのような欧米化政策への反発があり、
儒学者たちの反論が勢いを増していきました。

明治天皇は、性急な欧米化政策に危惧を抱かれ、
1879(明治12)年6月末、
儒学者の元田永孚に「教学聖士旨」を起草させました。

そして、
内務卿・伊藤博文に意見を求められ、伊藤は、「教育議」を上奏しました。

明治天皇は、この「教育議」を元田に示されたところ、
元田は、「教育議」では聖旨に添っていないと反論しました。

9月11日、
明治天皇は、文部卿・寺島宗則に教育方針として、
「教育聖旨」、「教育議」、元老院上奏の
「教育令草案」を授けられました。




1879(明治12)年9月29日、
「学制」に代わって「教育令」が公布され、
「小・中・大・師範・専門・その他」の学校別に分け、
特に初等教育の環境を整えることになりました。

ところが、
教育の権限を大幅に地方の自由に委ねたところ、
かえって教育の混乱を生み、廃校や就学率の低下をもたらしました。

そこで、
「教学聖旨」の理念に基づいて、
翌年の1880(明治13)年12月28日、
「教育令改正」が発布され、修身が教科の冒頭におかれ、
知育から徳育へ転換され
『小学修身訓』(文部省編輯局)をはじめ儒教的教科書を用いる時代
に入りました。

1882(明治15)年12月2日、
当初より徳育と知育のバランスに御心を砕いておられた明治天皇は、
まず子供たちへの道徳教育の大本として、
「幼学網要」を宮内省より頒布されました。

そして、
1886(明治19)年の学制改革と同時に、
国民教育の基礎水準を維持するために教科書の検定制度ができるのです。



2)「修身教育」はどのように進められたのか?




明治天皇は、
「幼学網要」に次いで、
1890(明治23)年10月30日、
広く国民に向けて語りかけるというかたちで「教育二関スル勅語」
いわゆる「教育勅語」が発布されました。

「教育勅語」には、
日本人が祖先から受け継いできた豊かな感性と
伝統的な道徳観が込められており、
人が生きていく上で心がけるべきことが、
12の徳目に分けられて述べられています。

1891(明治24)年11月17日、
「小学校教則大綱」が公布されます。

第2条に修身を「教育勅語」の主旨に基づいて行うことが明確に示され、
1948(昭和23)年の衆議院における「排除」、
参議院における「失効確認」の決議時点までの58年間にわたり
日本の教育の指針になりました。




明治20年代初頭より、
修身教科書の国定化の議論があり、
1900(明治33)年4月には、
文部省も国定教科書の編集に取り掛かりました

そして、
1904(明治37)年4月に、
初めて文部省発行の『国定修身教科書』が使用されるようになり、
全国統一的な教育が行われることになりました。

この国定教科書制度がGHQによって停止されるまで、
社会の進展に応える内容の充実向上と、
忠孝の倫理に基づく国民思想の統一をはかるために、
教科書は4回改訂されることになります。


第1期【1904(明治37)~1909(明治42)年】
では、
はじめに徳目を掲げ、
その後にその徳目を理解できるようにするための
例話や寓話をおくという構成でした。

このような構成を、徳目主義人物主義と言われています。

簡単に言えば、「物語集」のようなものでした。

尋常小学用は口語体、高等小学用は文語体で書かれていました。

これまでの検定教科書に比べて、近代的社会倫理が重視されており、
外国人への友好的態度や日本人としての品位についても書かれていました。

尋常小学校4年間と高等小学校2年間の6年間で163課を学ぶことになり、その大半は、個人道徳と人間関係の内容でした。

内容的には、忠孝道徳を軽視していると批判する見方もありました。


第2期【1910(明治43)~1917(大正6)年】では、
1907(明治40)年の小学校令の改正により、
尋常小学校が4年から6年になり、
高等小学校の第一、第二学年が第5、6学年に
改められたことを受けての改訂でした。

内容としては、
第1期の様々な批判や日清・日露戦争後の列強の中で近代化、
日本が世界に躍進していくために台頭してきた国家主義を反映して、
家族的国家倫理を重視した国民道徳を強化した内容になりました。


第3期【1918(大正7)~1932(昭和7)年】
では、
第一次世界大戦後の自由・国際協調、
社会主義運動が活発化した時代の推移に即して、

新しい公民的・社会的な大事が加えられ、
国際協調の性格が明確に打ち出されました。
また、
立場に関わらず社会人として生きるうえでの勤労の大切さが
示されていました。

内容としては、
「大日本帝国」から「我が国」という文言に改訂されました。


第4期【1933(昭和8)~1940(昭和15)年】では、
世界恐慌の嵐の中、日本は準戦時体制に入っていく段階でした。

満州事変・日華事変などによって、
大陸進出を視野に超国家主体性に彩られた教育になっていきます。

教科書においても、子供の心理や生活に即した題材を取り入れるなど、
教材の生活化や社会科がなされ、表現的にも文章の改善が行われ、
外面でも表紙、挿絵がカラー化されるなど、
子供に親しみやすい教科書づくりがなされました。

1937(唱和12)年3月、
文部省は『国体の本義』を刊行し、
「我が国は、万世一系の天皇が皇祖の神勅を奉じて統べる」という
我が国の国体(国柄)について述べました。

その年の7月に日華事変が勃発し、
政府により「国民精神総動員運動(滅私奉公)」がはじめられました。

このように風雲急を告げる情勢を受けて、
よき臣民として忠君愛国の心得を説くように編修されていきました。


第5期【1941(昭和16)~1945(昭和20)年】では、
1941(昭和16)年に太平洋戦争に突入し、
政府は「国家総動員法」を公布します。

また紀元2600年(西暦1940年)の祭典を国家を挙げて行い、
戦争遂行への日本臣民の機運を盛り上げようと文化・教育の
あらゆる分野で総動員されました。

小学校令を改正して「国民学校令」が施行され、国民学校が発足しました。

国民学校の目的は、国民学校令第一条の


「国民学校ハ皇国ノ道二則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」


つまり、


「教育の全般にわたって天皇陛下を要として国民全体が一つの家族として心を合わせて天皇陛下の大御心を奉体し、忠孝の美徳を発揮するという皇国の道を修練する」


ということです。

大戦間近という非常事態の時局火下、
国民が一致団結して国力を発揮する必要から、
わが国独自の教育体制を確立するために基礎教育の拡充整備をして、
面目を一新する趣旨で断行されました。




明治初頭、1870年代からはじまった帝国主義時代の最中、
やがて東洋の黄色人種が自分たちに禍をもたらすという
「黄禍論」が広がりました。

それは黄色人種がやがて労働者として列強に入り込んで仕事を奪い、
列強の市場を侵し、黄色人種の国々が解放されて独立し、
白人にとってかわるのではないかという不安から生み出されたものです。

1897年、
米国海軍次官に就任したセオドア・ルーズベルトは
きたるアジア大陸への進出時に邪魔になる日本国を打ち破るために、
海軍に「オレンジ計画」の立案を開始させました。
陸軍もこれに加わりました。

その一方、
当時世界最強国であったイギリスは、
自分たちが植民地化している清国に北方からの侵略を企んでいるロシアへのけん制のために、
1902年、
日清戦争に勝利し世界の列強を驚かせていた我が国と日英同盟という
強力な二国間同盟を締結します。

しかし、
この同盟は、我が国を打ち破ることをもくろんでいた米国にとっては
非常に都合の悪いものでした。

1905年、
満州に進出したロシアと戦ってなんとか勝利した我が国に対して、
ロシア人たちは強い復讐心を抱きました。

また、
ポーツマス講和条約の仲介をした米国も、
日本に持ち掛けていた満州の共同経営案を断られると
日本打倒の意を強くすることになります。

1914年、
我が国は日英同盟によりイギリスの要請を受けて
第一次世界大戦に参戦しました。

この戦争では世界を舞台に1900万人もの戦死者・行方不明者を出すという
未曽有の惨禍を生んだことから、列強が集って戦後体制を組みなおしていきました。

しかし、
1919年のパリ講和会議で我が国が世界に初めて提案した
「人種差別撤廃案」がアジアに植民地を多く抱えていた列強にとっては
大変都合の悪いことで採択されませんでした。

そして、
我が国の脅威は列強の知る処となってしまうのです。

イギリスに代わって世界の覇権を得ようとしていた米国は
巧みに働きかけを行い、
1921年にワシントン会議で、
主催国・米国の主導により、日米英仏間で4カ国条約の調印と
日英同盟の廃棄が決定されてしまいます。

これにより、
我が国はイギリスとの同盟を失い、
米国の思うように事が運ばれていくのです。

さらに、
1924年5月には、米国で「排日移民法」が成立したことにより、
メディアのあおりも受けて、日本国内でも反米感情が沸騰し、
対米戦争に向かっていってしまうのです。

米国、イギリス、中華民国、オランダのABCD包囲網という
経済制裁が完成し、いよいよ追い込まれた我が国は、
用意周到に戦争に引き込まれ、
完膚なきまでに破壊されることになってしまいます。



3)敗戦後の失われた「道徳教育」の在り方




我が国は先の大戦後、連合国軍の占領下におかれることになります。

GHQ(連合国軍総司令部)は、
マッカーサーの「五大改革指令」に則って、
日本の「民主化」と「労働組合の結成奨励」を推進し、
我が国の力の根源である教育に手を入れました。

かつての「軍国主義」「国家主義」の教育思想を追放するために、
「教育に関する4つの解体指令」を出しました。

特に1945(昭和20)年12月31日の占領軍指令
「修身、日本歴史及び地理停止に関する件」
授業の停止と教科書回収が決定されました。

GHQの要請により、
昭和21年8月に内閣総理大臣の所轄のもと
「教育刷新委員会」が設けられました。

「教育刷新委員会」が作成した
「教育基本法案要領等」をもとに戦後教育の理念を審議し、
文部省、大蔵省、法制局などから議論の末、
1947(昭和22)年2月28日に
ようやく「教育基本法案要綱」が成立しました。

そして、
3月31日、「教育基本法」制定となり、
新しい「学校教育法」が公布され、
同時に「国民学校令」が廃止されました。

GHQの実行部隊としての役割を担ったCIA(民間情報教育局)は、
我が国の道徳教育の心柱となった「教育勅語」について
扱いに苦慮しました。

明治天皇の「教育勅語」そのものは至極まっとうなものの、
超国家主義的解釈と天皇の神格化に結び付いた扱われ方が、
戦後という微妙な時期には問題でした。

そのような中で、
1946(昭和21)年1月1日に
昭和天皇は「新日本建設に関する詔書」が出されました。

CIAはこれで満足したのですが、
日本人の精神的武装解除を徹底するためにも
「教育勅語」をなんとしてでも廃止したい
米国国務省とGHQ民政局は、
「教育勅語」、
「国民精神作興二関スル詔書」、
「青少年学徒に賜りたる詔書」が廃止
されました。

つまり、
我が国が大切にしてきた
さらに、我が国の力の根源的な役割を果たしてきた
「教育勅語」が廃止され、
「修身教育」も廃止させられることになってしまうのです。

では、
戦後はどのようにして道徳教育
どのような形で行われることになったのでしょうか?




まず、文部省は「修身教育」に代わるものとして、
公民科による道徳教育を行おうとしました。

しかし、この公民科は実現せずに、
教育基本法および学校教育法のもとで新たに設けられた
社会科によって道徳教育も行われることになっていくのです。

文部省は小学校と新制中学校の教育に関する新しい法令を制定し、
その具体的・実践的な指針として、
1947(昭和22)年3月20日、
「学習指導要領一般編(試案)」が発表されます。

その中で、


社会科は、①修身・公民・地理・歴史をなくして新設され、         
     ②社会生活についての良識と性格の育成を目的としており、

     ③修身・地理・歴史などの内容を融合したものである


と位置づけました。

つまり、社会科は修身教育の内容も融合したものとされ、
単独で修身教育に匹敵する科目は、設定されなかったのでした。

しかし、1950(昭和25)年8月27日、
第二次米国教育使節団が来日し、
東西冷戦中の「逆コース」の流れの中で

「道徳教育はただ社会科だけからくるものだと考えるのは
全く無意味である。
道徳教育は、全教育課程を通じて、力説されなければならない。」

と批判され、これ以降、
道徳教育は社会科を中心に学校教育全体を通じて行うことに
なっていきます。




1957(昭和32)年9月14日、
当時の松永東文部大臣が
「道徳の時間」特設の県を教育課程審議会に諮問しました。

それを受けて、教育課程審議会初等中等合同会は、
1957(昭和32)年10月12日、
「いわゆる修身復活の意味でなく、道徳教育がこのままでは不徹底であるから特別な時間を設ける」と、
道徳教育の時間特設に関する基本方針を打ち出しました。

そして、
1957(昭和32)年11月9日、
教育課程審議会は
「小・中学校における道徳教育の特設時間について」を発表します。

1958(昭和33)年3月15日、
教育課程審議会から道徳を含めた教育課程全体の改善方策が答申されます。

これを受けて、3月18日、
「小学校・中学校における道徳の実施要領について」
文部省通達として出され、
これによって「道徳の時間」の実施方針の要領が示され、
毎週1時間を充てる方針が確立されたのです。

さらに、
「学校教育法施行規則の一部を改正する省令」の制定により法制化され、
この改正で、小・中学校の教育課程は、
「教科」「特別教育活動」「道徳」「学校行事等」の4つの領域から
なるものと規定されました。

これによって、
道徳教育は、かつてのような教科ではないものの、
教育課程の一つの領域として正式に位置づけられ、
「道徳の時間」が特設されたのです。

これ以降、
我が国の道徳教育は、
全面主義特設主義の両輪として歩むことになりました。

「道徳の時間」の具体的な目標としては、


(1)日常生活の基本的行動様式
(2)道徳的心情・判断
(3)個性伸長・創造的生活態度
(4)民主的な国家・社会の構成員として必要な道徳的態度実践的意欲

の4つの柱を挙げています。




1958(昭和33)年文部省学習指導要領の改訂により、
「道徳教育」として復活しました。

しかし、
この「道徳教育」は、「修身教育」を否定して実践されたのです。

その後、
1998(平成10)年12月14日にも
小・中学校学習指導要領の改訂がなされ、
学校の教育活動全体で行う全面主義の道徳教育を一層充実するため、
道徳教育の目的が総則に掲げられるようになりました。

道徳教育の推進に当たっては、
ボランティア活動や自然体験活動などの豊かな体験や
道徳的実践の充実も求められるようになります。

目標においても新たに「道徳的価値」の自覚を深めるという視点を加え、
体験活動などを生かした
「心に響く道徳教育の実施」が求められるようになりました。

さらに、冒頭でもお話したように、
2013(平成25)年、第2次安倍内閣における教育再生実行会議において、
2月26日に「いじめの問題等への対応について」を発表し、
その中で、
「道徳を新たな枠組みによって教科化し、人間性に深く迫る教育を行う」
として、
いじめ問題への取り組みとの関連の中で道徳の教科化が進められ、
現在に至っているのです。

このように、
戦後の我が国における「道徳教育」は、
教科としての「修身教育」の否定、
教育活動全体を通じて(全面主義)と特設主義としての教育、
子供たち自身の道徳的価値の自覚や心に深く響く体験活動の重視などの特徴を持っています。

知識として最低限必要な原則としての「修身教育」の徳目については、
今でも価値をもつものが多々あり、位置づいているものもあります。

しかし、
道徳の教科化による修身科の復古政策への批判、
道徳教育の内容や方法の有効性に対する批判、
愛国心などの徳目への批判など
未だに先の大戦の敗戦の痕跡を読み取ることができます。

我が国の「道徳教育」は、先の大戦後、
外国やそれらに感化された一部の日本人からの強い干渉を受けて、
我が国の歴史や連続性の否定の上に再出発せざるをえなかったのです。


ここまで、「修身教育」「道徳教育」との違いについて、
我が国の道徳教育の歴史を明治期の学制発布から現代までを
紐解くことにより見てきました。

「修身教育」は謀略により廃止せざるを得ませんでしたが、
「修身教育」でも行われていた
先人の生き方から価値を見出すような学習の進め方は、
現在の教科化された道徳科でも生かすことができると考えています。

次回は、
世界で活躍した先人たちの歩みをいくつか取り上げることによって、
我が国に失われつつある和の精神について
見つめなおしていきたいと思います。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


国民一人一人が良心を持ち、
それを道標に自らが正直に、勤勉に、
かつお互いに思いやりをもって励めば、文化も経済も大いに発展し、
豊かで幸福な生活を実現できる。

極東の一小国が、明治・大正を通じて、
わずか半世紀で世界五大国の一角を担うという奇跡が実現したのは
この底力の結果です。

昭和の大東亜戦争では、
数十倍の経済力をもつ列強に対して何年も戦い抜きました。

その底力を恐れた列強は、
占領下において、教育勅語修身教育を廃止させたのです。

戦前の修身教育で育った世代は、
その底力をもって戦後の経済復興を実現してくれました。

しかし、
その世代が引退し、戦後教育で育った世代が社会の中核になると、
経済もバブルから「失われた30年」という迷走を続けました。

道徳力が落ちれば、底力を失い、国力が衰え、政治も混迷します。


「国家百年の計は教育にあり」
という言葉があります。

教育とは、
家庭や学校、地域、職場など
あらゆる場であらゆる立場の国民が何らかのかたちで貢献することができる分野です。

教育を学校や文科省に丸投げするのではなく、
国民一人一人の取り組むべき責任があると考えるべきだと思います。

教育とは国家戦略。

『国民の修身』に代表されるように、
今の時代だからこそ、道徳教育の再興が日本復活の一手になる。

「戦前の教育は軍国主義だった」
などという批判がありますが、
実情を知っている人はどれほどいるのでしょうか。

江戸時代以前からの家庭や寺子屋、地域などによる教育伝統に根ざし、
明治以降の近代化努力を注いで形成してきた
我が国固有の教育伝統を見つめなおすことにより、
令和時代の我が国に
『日本人のこころ(和の精神)』を取り戻すための教育の在り方について
皆様と一緒に考えていきたいと思います。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?