見出し画像

自らの生き方を見つめなおすための一手『先人の生き方』に学ぶ誠の教育観(完結編)~「先人の生き方」に学ぶ誠の教育観とは?~ー『日本人のこころ』33ー

こんにちは。高杉です。

日本人に「和の心」を取り戻すというスローガンのもと
『和だちプロジェクト』の代表として活動しています。


執筆活動も進み、
いよいよ第8弾「先人たちの生き方」に学ぶ誠の教育観
集大成です!

先人たちの生き方を通して、
自らを律し、
我が国のためにできることを夏休み期間も進めていきたいと
意気込んでおります。

夏になると、
先の大戦にまつわる話が話題に挙がったり、
想起するような日が続いたりしますが、
せっかくご先祖様とつながる期間もあるので、
「私たちが生まれた日本ってどんな国なのかな?」
もう一度考える夏にしてはいかがでしょうか?


今回も、よろしくお願いいたします。





私たちは、
先人たちが誇りに思う国づくりをすることができているでしょうか。

私たちが先人から学ぶべきことが何でしょう。

最後に、
先人たちの生き方から私たちが学ぶべきこと、
受け継ぎたいことについて考えていきましょう。



1)内村鑑三が世界に伝えたかった『代表的日本人』




みなさんは、
「代表的な日本人」と聞かれるとどのような人物を想起しますか?

今から約110年前、
1908(明治41)年に
『代表的日本人』という本が出版されました。

執筆した彼の名前は、内村鑑三です。

内村鑑三は、聖書研究を基本とした宗教家でした。

自らもキリスト教に帰依し、協会に頼らない無教会主義を唱えた人です。

内村は、幕末の高崎藩に武士の師弟として生まれました。
10歳から英語に親しみはじめ、
明治10年に東京英語学校で学んだ後、
札幌農学校でクラーク博士に学びます。

やがて、
キリスト教徒の国を自分の目で見たくなり、
アメリカに私学留学をしました。

その後、
東京大学の前身である第一高等中学校の嘱託教員となります。

しかし、
教育勅語に書かれた天皇の著名への礼を拒否して、
教員を退職せざるを得なくなりました。

いわゆる「不敬事件」と呼ばれるものです。
それから彼は文筆活動を続けながら、
家族とともに日本を転々とし、苦労を重ねました。

しかしながら、
その間に信仰をかえって強くし、
『代表的日本人』の構想もこの時に練られました。

『代表的日本人』は、
近代の名著として、ずっと読み継がれてきました。

とりわけビジネスパーソンに愛読されています。
教養を高めるだけではなく、
そこに生きるうえでの気づきがちりばめられているからなのだと思います。

内村鑑三自身も事業家として、
学校を運営し優れた手腕を発揮しました。

まだ日露戦争の騒々しさが収まりきっていなかった頃、
鎖国を解いてから、半世紀も経たないうちに、
日清戦争に勝利し、
さらに大国ロシアを負かした日本とは、いったいどのような国だろう?

欧米の国々の関心がこの東洋の小国に集まる中で、
それに答えようとしたのが『代表的日本人』でした。

ちょうど同じころ、英語で書かれ、出版されたのが

新渡戸稲造の『武士道』(1900年)

岡倉天心の『茶の本』(1906年)でした。

これらの3冊は、
東洋の新星だった日本を知る手掛かりとして、
欧米の知識人の間で広く受け入れられました。

日本人は決して好戦的でもなければ、野蛮でもない。

むしろ聖書が説く教えにも共通する
徳目をもって誠実に生きている

どのようにすれば、
自分の意図を西洋諸国の人々に分かりやすく伝えることができるのだろう。

そこで、
聖書と重ね合わせて日本人論を語りました。




『代表的日本人』には、5人の日本人が選ばれています。

一人目が「西郷隆盛」です。

西郷隆盛については、
「郷中教育」の際にも触れましたが、
1827~1877年に生きた明治維新期の政治家・軍人であり、
大久保利通、木戸孝允とともに「維新の三傑」の一人に数えられています。

薩摩藩の下級藩士の出身で、島津斉彬公の知遇を得て、国事に奔走。

倒幕運動の指導者として薩長盟約に尽力し、
大総督府参謀として征東軍を指揮し、江戸を無血開城させました。

明治維新後は参議となるものの征韓論で下野し、
西南戦争で敗れて鹿児島で自刃しました。

西郷隆盛は、
「敬天愛人」という言葉を生涯の徳目としました。


「天は等しく人を愛す。だから私たちも自分を愛するように人を愛さなければならない。
誠実が宿るのは浸る心の内だ。その中でしっかりしていれば、どこへ行っても強い。」

「人の成功とは自分に克つことにあって、失敗は自分を愛すことにある。
八分通りに成功していながら、残りの二分のところで多くの人が失敗するのはなぜか。
それは、成功が見えると自己愛が生じてくるからだ。慎みが消え、楽をすることを求め、仕事を厭うから失敗するのである。」

「徳は、つまるところ財をもたらす源だ。徳が栄えれば、財はおのずとやってくる。
徳が廃れば、財もその分減っていく。国土を潤し、人々に平和をもたらすことで財は増えていく。
小心者は自分の利益を得ようとするが、大人物は人々の利益を第一にする。
利己的な者はやがて朽ち果てる。公共のために尽くそうとする者は栄える。
自分がどう身を処すかによって、盛衰、貧富、興廃、生死が分かれる。
だからどんな時も心すべきではないだろうか。」



西郷隆盛ほど、無欲な人はいませんでした。

徳を高め、「利他の精神」で最期まで尽くしたのです。




二人目が「上杉鷹山」です。

上杉鷹山は、
1751~1822年、江戸時代中~後期の大名で、米沢藩主でした。

まだ17歳の頃、九州の秋月家に生まれ、
上杉家の藩主となるために養子として上杉家に入りました。

藩政の改革に努め、質素倹約を率先励行しました。

財政改革、殖産興業、新田開発を行い、米沢藩の藩政を立て直しました。

また、
藩校興譲館を設立して、人材育成にも力を注ぎました。

上杉鷹山は。2本柱による産業政策を掲げました。

一つは、領内に遊ばせている土地が一か所もないこと。

もう一つは、怠けている良民が1人もいないことです。

領地はそれほど肥沃ではなかったのですが、
みずからはもちろん、領民が一丸となれば、
石高の15万石から倍の30万石まで増やすことができると考えていました。

そこで上杉鷹山は、全力で農業の振興に励む決心をします。

領民のためになることならどのようなことにも気を配りました。

品種改良された馬を買い入れ、池や川に鯉やうなぎを放流し、
坑夫や繊工を他の領地から招きました。

商売の妨げになる因習はすべて取り去り、
領内で利用できるものならどんな方法を用いても開発に努めました。

こうした一連の諸作に加え、領内には怠け者がいなくなりました。

みんなが働き者になったことで変化がもたらされたのです。

上杉鷹山の晩年には、
他国から模範とされるほど、生産性の高い国になりました。


「賢い者は木をまず気遣うから果実が得られる。
愚かな者は果実を得ることばかりを考え、結局実を得ることはできない。」


上杉鷹山が一連の産業改革を成し遂げられた大きな理由がありました。

それは、
まず人々に徳を身につけさせることを目指していた点です。

天から預かった領民を「人の道」へと導くことを目指したのです。

「民の声は天の声」という信念を貫き、
領民に対する誠意が人々の心を動かし、
「ゆるぎない信念」を貫いたのでした。




三人目が「二宮尊徳」です。

二宮尊徳は、
1787~1856年に生きた江戸時代後期の農政家です。

合理的で豊富な農業知識をもって知られ、
小田原藩、相馬藩、日光神領などの復興にあたりました。

陰徳・勤倹を解く思想と行動は報徳社運動などを通じて死後も影響を与え、
国定教科書や唱歌などにも取り上げられ、全国各地の小中学校に銅像が設置されました。

二宮尊徳は、本当に独立心の強い人でした。

何事も自分人身で克服しました。

そして、
同じように困難を克服しようとする人々に喜んで手助けをしていく立場となっていきます。


「仁術さえ施せば、この貧しい村の人々に平和で豊かな暮らしを取り戻させ
ることができるはずです。

補助金を与えたり、年貢を免除したりしても苦しんでいる人々を救うのに何の役にも立ちません。
それどころか、金銭援助を一切しないことこそ、救済の手立ての一つとなります。
仁愛。勤勉、自助、こうした徳を徹底して励行することで初めて、村には希望の灯がともるでしょう。
誠心誠意、忍耐強く仕事に励むなら、この日から10年後には、昔の繁栄を回復することができるだろうと考えられます。」


二宮尊徳には、
駆け引きやはかりごとといったものは一切ありませんでした。


「誠意は天地をも動かす」


贅沢な食事はとらず、木綿以外は身につけることはありませんでした。

村人の家で接待を受けることもありませんでした。

一日の睡眠はわずか2時間で、
畑には部下の誰よりも早く出かけ、最後まで残りました。

こうして二宮尊徳は、
村人にふりかかったもっと過酷な試練を自らも共にして、耐え忍びました。

「一つの村を救える方法ならば、一国すら救うことができます。
原理はまったく同じなのです。」

「目の前の仕事に全力を尽くしましょう。
そうすれば、これが前例となります。
やがて時が経てば全国を救うのに役立つのです。」

「試練を好機ととらえ」
和の心をもって農民のために最期まで励んだのです。




四人目が「中江藤樹」です。

中江藤樹は、
1608~1648年に生きた江戸時代前期の近江国(滋賀県)の儒学者です。

王陽明の知行合一説に傾倒し、日本における陽明学の始祖となります。

村民を教化し徳行をもって聞こえ、近江聖人と称されました。

中江藤樹の一生をかけた目的とは、
学者や思想家であることよりも大切なこと。

それは、
聖人、すなわち完全な人間になることでした。

28歳の時、
中江藤樹は、行商をやめ、村に私塾を開きました。

当時は、簡単に学校を開くことができました。

自宅をそのまま生徒たちが寝起きする場所にすればよかったのです。

礼拝も講義もそこで行いました。

部屋の正面には孔子像が掲げられました。

学ぶ科目には、中国の古典、歴史、詩作、習字でした。

中江藤樹の教育は、一種の独特な点がありました。

生徒の徳や人格形成を重視する一方で、
文芸や知的な面での向上はほとんど問題にしませんでした。


「学者とは、その徳を称える呼び名だ。学識があるからそう呼ばれるのではない。
学問やたしなみは教養の一つだ。生まれつき才能がある人なら、難なく文人になることができるだろう。
もっとも、学問にいくら秀でていても、徳が身に付いていなければ、学者とは呼べない。
学識のあるただの人だ。一方、学問を納めていなくても、徳が備わっている人は、ただの人ではない。
学識はなくとも学者なのである。
利を上げることが生きる目的ではない。誠実、正義、人の道こそ目指すものである。」
「徳を大切にしようと思うのなら、毎日、善を行うことだ。
善を一つ行えば、悪が一つ去っていく。善を毎日行えば、悪も毎日去っていく。
昼が長くなれば、夜が短くなるように、善を勤めるなら、すべての悪はやがて消え去るはずだ。」



気高い目的をもって生きていれば、
目立たない人生であっても影響を与えることができる。

その真実を、
私たち誰もが中江藤樹の生き方から学ぶことができるのではないだろうか。

人里離れた村の学校で
古くからの日本をありとあらゆる俗っぽさから守ってきた人々。

このような人たちがいたからこそ、聖人と呼ばれたのです。

この近江聖人は、儒学のダイナミックな側面に気づき、
独創性に富んだ実践の人となりました。

常に常識にとらわれず、自由に発想をめぐらしてみる。

そこからイノベーションが生まれるのです。

中江藤樹は、
常に徳をもって和の心で「実践し続ける」人でした。




五人目が「日蓮」です。

日蓮は、
1222~1282年に生きた日蓮宗の開祖です。

安房小湊の漁師の子として生まれました。

16歳で出家。鎌倉や比叡山など諸教学を学びましたが、
伝統的仏教の教理に疑問をいだき、
その後、故郷に戻って『法華経』を開きます。

『立正安国論』を著し、
辻説法で他宗を激しく攻撃したために迫害を受け、
伊東、佐渡に遠島。晩年は身延山(みのぶさん)に隠棲しながら
絶えず布教に努めました。

日本人の中で、日蓮以上に独立月歩の人はいません。

実際に彼の独創性と自立した精神が、仏教を日本の仏教にしたのです。

日蓮の宗派だけが、純粋に日本の仏教で、
他の宗派は、インド、中国、朝鮮に起源のあるものばかりです。

日蓮は、仏教はそれまで、
インドから日本へと東へ向かって旅をしてきたと語っています。

しかし、これからは、
よりよい仏教が日本からインドへと西へ里帰りをするのだと。
自分自身の意志をもっていたからこそ、国の基盤となったのです。

愛そうがよく、謙遜するばかりで、受け入れることしか知らず、
懇願能力の高さを頼みに行われている行為の大半は、
国の恥でしかありません。

和の心をもって「リーダーシップ」を発揮し、
攻撃的な資質を取り去った日蓮こそ、
私たちの理想とする宗教家なのです。



2)現代日本人が失ったもの




西郷隆盛は、
天の法に従って行動し、正義が正しく行われる国づくりを目指しました。

上杉鷹山は、
封建社会にあって、特性によって理想の民と領主との関係を築きました。

二宮尊徳は、
徳の力によって荒れ果てた村を再生させました。

中江藤樹は、
徳を高め、正直に生きることの大切さを説きました。

日蓮は、
権力に屈することなく、民衆のために宗教改革を行いました。

この5人に共通するのは、
聖書の教えにも通じる天の声を聞いたこと。

そして、
徳によって身を律しようとしたということです。

日本人は、外国との戦争に勝ったからといって、
決して戦いを好んではいないこと。

徳を大切にし、思いやりに満ちていたこと。

内村鑑三は、
このような資質を西洋の人々に伝えたかったのです。

内村鑑三は、『代表的日本人』を執筆するにあたり、

5人の死期を丁寧に書きました。


では、なぜそのようにしたのでしょうか?


それは、
人に影響を与えるのは、その人が生きていた間だけではない
ということです。

生涯を終えた後、時代や、時には文化や国境を越えて影響を与え続ける
ということです。

西郷隆盛も上杉鷹山も、二宮尊徳も中江藤樹も、今もなお人気が高く、
日蓮宗はお寺がたくさんあります。

しかし、
彼らは名を挙げることを目指していたわけではありません。

むしろ、
自分が生涯をかけてやってきたことを、
次の世代が何かの役に立ててくれればそれでいいと願っていたのです。

だからこそ、
内村鑑三は、数ある我が国の偉人の中でもこの5人を選んだのです。





日本は、今や自己啓発大国です。

本やセミナーなどであふれています。

多くの日本人がさまよって「心の軸」を探しているのです。

戦後の日本人は誇りを失い、自分を無価値と考える子供が急増しました。

自己否定をした俐、自殺願望があったり。

もちろん、子供だけではありません。

大人もです。

自分や自分とつながる国を愛することができなくなっている
現代の日本社会や教育は本当におかしいと思います。

僕は思います。


現代の日本人にとって一番大切な軸は、
「大切な人のために」「日本のために」


です。

日本のために勉強する。

日本のために働く。

日本のために子育てをする。

なんでもいいです。

いま自分が一生懸命に頑張りたいことややりたいことの最初に
「日本のために」をくっつけてみる。

「日本のために未来を支えているんだ!」
という誇りと自信に満ちた気持ち、

そのオーナーシップをもつことが大切なのだと思うのです。

これは世界では当たり前の話です。

もちろん、

アメリカに生まれたら「アメリカのために生きる」

インドに生まれれば「インドのために生きる」のです。



3)「先人の生き方」から学ぶ誠の教育観





先の大戦において、
アメリカは、負けた国を解体するのが通例でした。

しかし、「日本だけ」は解体しなかった。


なぜ、アメリカは日本国を解体しなかったのでしょうか?


先の大戦においては、特攻だけではなく、
一般の兵隊たちの戦いぶりは、すごいものでした。

人類の戦争史上。

あの時の日本人ほど、勇敢に戦った人たちはいません。

例えば、「硫黄島の戦い」。

日本兵は2万人。

米兵は17万人。

これほど兵力差がついたら、検討することが不可能です。

当時、
瞬時に米軍が占領し、3日で決着する予定でした。


結果はどうでしょうか?

なんと30日経っても、いまだに護り続けたのです。

そして、
死傷者の数はなんとアメリカの方が圧倒的に多かったんです。

ふつうなら、ありえないことです。

若い米兵はこのような手紙を上官に残しています。


「もうお願いだから俺たちを、あんな狂った島に連れて行かないでくれ。」


アメリカ兵は、次々に精神が崩壊していきました。

それ以来、二度と戦場に復帰できなくなった米兵が
ほとんどだったそうです。


なぜ、日本人はあそこまで真剣に戦うのか?

米兵には意味が分かりませんでした。

米兵は、生きて帰ろうとすることを前提で戦争をします。

日本兵は、全員死ぬ覚悟で必死に戦争をしていたんです。

なぜなら、
「硫黄島」がとられれば、
日本全土が火の海になることが確実だったからです。

愛する人が傷つくことが分かっていたからなんです。

「特攻隊」も然りです。

特攻を見て感動したという主旨の手記を残している米兵の記録があります。

自分たちにはできないと書いた長官もいました。

マッカーサー元帥はずっと疑問に思っていました。


「なぜ、日本人はあそこまで真剣に戦うのか?」


意味が分からなかった。

ところが、昭和天皇と面会したときに、
はじめてその意味を知ることになります。

昭和天皇は、開口一番。


「この戦争のすべての責任は私にある。私一人だけを、処刑してほしい。」


と。


それを見た時に、マッカーサーは気づいちゃったんです。


だからか。

「日本人は一つの家族」だからかと。


日本の国体を見てしまったのです。


神武天皇の建国の精神。


「八紘為宇」


神武天皇の時代は、弥生時代後期。

日本列島が戦争で明け暮れていた時代です。

その時に、神武天皇は、


「戦争なんてもうやめよう。」


とおっしゃった。


「日本人同士が殺し合いをすることはよくない。私たちは『家族』だ。そして、日本列島は『私たちにとっての家』だ。」


これが、「八紘為宇」という意味です。

天皇は、国民一人一人を愛しその幸せを祈り続けてきました。

国民は、わが子のように愛してくださる天皇を深く敬愛し、
みんなで力を合わせて、国を支えてきました。

マッカーサー元帥は、この姿を見てしまったんです。

つまり、
あの時の兵隊たちの頭の中には、
「日本国家の存続」と「愛する人の幸せ」が完全に結びついていたのです。

日本国さえ残れば、
愛する家族が幸せでいられ、護ることができると思った。

愛する人が幸せでいられ、護ることできると思ったのです。

かたや、

日本国がなくなれば、
お父さん、お母さん、お兄ちゃん、お姉ちゃん、
もしかしたら、奥さんもいるかもしれない。
子供もいるかもしれません。
みんな不幸になってしまうと思った。

日本国さえ残れば、幸せでいられると思った。


家族を護るために。


愛する人を護るために。


彼らは戦ったのです。

特攻に志願された方々も同じです。

戦艦に突っ込んで、見事果てることができたら、


日本国は勝てるかもしれない。

なんて考えてはいません。


そもそも、勝ち戦ではないからあんなことをしたんです。

特攻をして勝てるなんて誰も思っていません。

負けるのは分かっていた。

だから、特攻したんです。


「最後負けるときに、日本人の意地を見せてやるぞ。」と。


「なめんなよ。日本人は最後何でもするぞ。」と。

アメリカは相当おびえました。

そして、

マッカーサー元帥は日本国家は解体してはいけないことを
本部に伝えています。

また、アメリカの占領政策は、

「これ言ったら日本は怒るかな…」

「こういうことを今実行したら恨まれるかな…」

などとかなり敏感に研究したそうです。


「日本人は、最後怒ったら何をするか分からない。」


そのような中で、天皇を残し、日本国は残ることができたのです。




このように、
戦争で勇敢に闘ってくれた兵たちのおかげで今の日本があるのです。

彼らは、なぜそこまでして国を必死で護ったのか?

日本国され護ることができれば、愛する人を護ることができる。

それは、本当でした。

もし、一歩間違えれば、

北日本は、ソビエト連邦。

西日本は、中国に獲られていたかもしれないんです。

終戦があと一週間遅ければ、
北海道はロシアのものになっていたことでしょう。

日本列島は、おおむね残ることができました。

これは、
勇敢に戦ってくれた方々のおかげなんです。

最期。

突撃する人はどのような想いだったでしょう。


「愛する人が幸せでいてほしい。」


その一心だったと思います。

戦争で亡くなられた先人たちのおかげで、
日本国は護られました。

そして、
私たちは、豊かな生活を今も送ることができています。


もしも、亡くなられた方々が今生きていたら、

どう思うでしょうか。


「日本国家を残したい。愛する人を護りたい。」


あの方々は、
夢と希望をもって特攻し、突撃していきました。

日本国家を残したい。

そうすれば、
愛する家族、愛する人を護ることができる。

そして、
その夢や希望を叶えました。


今の日本国はどうでしょうか。


いろいろな問題はありますが、
こんなにも美しく、
こんなにも力強く、
平和で安全で文化の薫りも高い。
こんな日本国が今残っているんです。


わたしたちはこの日本国をどんどん磨きをかけて、
10年後、20年後、
こんなにいい国になりました。

もっともっといい国になりました。


このように、
日本国にどんどん磨きをかけて、
もっと、もっといい国にすること。

そうすることで『英霊』に報いることができる。

それ以外で、『英霊』に報いることはできません。


そのような、
多くの方々の命が失われた中で、
今の私たちの幸せがあることを絶対に忘れてはいけません。



元来元々 ― はじめをはじめとし、もとをもととす


2684年間先人たちの命のリレーによって受け継がれてきた
日本の原点「和の精神」を見つめなおし、
本質を見つめ続ける。


日本をもっと学びませんか?


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


国民一人一人が良心を持ち、
それを道標に自らが正直に、勤勉に、
かつお互いに思いやりをもって励めば、文化も経済も大いに発展し、
豊かで幸福な生活を実現できる。

極東の一小国が、明治・大正を通じて、
わずか半世紀で世界五大国の一角を担うという奇跡が実現したのは
この底力の結果です。

昭和の大東亜戦争では、
数十倍の経済力をもつ列強に対して何年も戦い抜きました。

その底力を恐れた列強は、
占領下において、教育勅語修身教育を廃止させたのです。

戦前の修身教育で育った世代は、
その底力をもって戦後の経済復興を実現してくれました。

しかし、
その世代が引退し、戦後教育で育った世代が社会の中核になると、
経済もバブルから「失われた30年」という迷走を続けました。

道徳力が落ちれば、底力を失い、国力が衰え、政治も混迷します。


「国家百年の計は教育にあり」
という言葉があります。

教育とは、
家庭や学校、地域、職場など
あらゆる場であらゆる立場の国民が何らかのかたちで貢献することができる分野です。

教育を学校や文科省に丸投げするのではなく、
国民一人一人の取り組むべき責任があると考えるべきだと思います。

教育とは国家戦略。

『国民の修身』に代表されるように、
今の時代だからこそ、道徳教育の再興が日本復活の一手になる。

「戦前の教育は軍国主義だった」
などという批判がありますが、
実情を知っている人はどれほどいるのでしょうか。

江戸時代以前からの家庭や寺子屋、地域などによる教育伝統に根ざし、
明治以降の近代化努力を注いで形成してきた
我が国固有の教育伝統を見つめなおすことにより、
令和時代の我が国に
『日本人のこころ(和の精神)』を取り戻すための教育の在り方について
皆様と一緒に考えていきたいと思います。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?