【No.1165】代表に求められる、全部都合よく解釈する力
娘のお遊戯会を見に行ってきました。舞台での劇です。
こういう発表会は子供の成長に感動するものですが、僕は別の意味で楽しみました。
劇がカオス過ぎました。
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タイトルは「桃たろうと芋たろう」です。
「ももたろう」をベースに、芋太郎という新キャラクターが登場するのだろうと予想できますが、まじでグダグダすぎて、何が何だかわかりませんでした。予想したこと以上の情報を、ここに書けないくらいです。
子どもたちはセリフを忘れ、その都度先生がナレーターとして進行サポートしていたのですが、桃太郎と他の動物たちが登場した後は、もう何をしているのか謎でした。芋太郎はどこ?
そして突然、園児全員で唱和します。「これで、桃たろうと芋たろうを、終わります」
へ? 見に来ていたどの親も拍手ができず、シーン。後ろで見ていた別の先生が拍手を始めると、やっと他の親たちもパラパラとつられて拍手を始めました。
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子供たちが退場を終えた後、担任の先生の挨拶がありました。明らかに「失敗だ。どうしよう」と思っています。挨拶がまとまらず、こっちも何を言っているのかわかりませんでした。
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そこで園長先生が登場しました。
「うちの幼稚園では、お話のプロットを大人が考えるのではなく、子どもたち全員で考えます。これは子どもの主体性と表現力を磨くための練習です。表現力を磨くというのは、それだけ大変なことなのです。
表現力や主体性を養い、友達の意見を取り入れながら劇を創り上げていく、そういう練習を幼稚園の頃からさせたいというのが幼稚園の方針です。このような劇を毎年繰り返すことで、年長さんになる頃にはさらに優れた作品ができるようになっていきます。だから、これがいいんです」
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園長先生のお話で、今日の劇は成功だということになりました。担任の先生の挨拶後は、怪訝そうな顔をしていた保護者さんも、晴れやかな顔に変わりました。
恐るべき「我田引水」だと感じました。代表はかくあるべし!なんて感動していました。
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園長先生の話を聞いていると、成長の過程であり、練習を積み重ねるからこそ、表現力・主体性・チームワークを学ぶにはこれが最善なんだと。むしろ大人がプロットを作る劇発表会をする幼稚園はダメなのだと。
本当はプロットづくりを大人か子供か、どっちがいいとかダメとかないですよ。でも、子供がプロットを作るからこそいいと思えたから不思議です。
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劇自体は明らかに失敗。それは担任の先生の反応で分かります。
でも、園長先生は、いや違うと。これだからこそ良いんだと、僕を含む保護者全員の認知を書き換えていってしまいました。
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僕はインドネシアで働いていたころ、部署で唯一の日本人として、日本人顧客を一手に引き受けていました。本来は新規営業の役割が強かったのですが、全く売ることができず、既存顧客対応ばかりで「仕事しているふり」をしていました。当時は真面目に頑張っていたつもりですが、今となっては「ふり」ですね、あれは(笑)
お客さんはインドネシアに進出したばかりの日系企業。彼らに財務諸表づくりなど経理業務を代行する部署にいたのですが、実際に経理処理をする同僚が入力する数字を間違えまくるのです。
お客さんには毎月怒られていましたので、そんなもん売れるか!と言うのが当時の僕の言い訳でした。
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でも、代表なら「いやいや、これだから良いんですよ!荒削りなこの感じだからこそ、最善なんです」と言えたらいいですよね。
お客さんが、あらそう?そんなもんかな?って思えるくらい確信を持って説得できないと、売れるもんも売れません。
会計において数字を間違うのはサービスとして破綻しているのは言うまでもなく、心意気として、です。完璧にしてからじゃないと売れない、では、一生売れません。
最低限のことは抑えて、些末なことは、これだから良いんですよと言い切ってしまう。そういう我田引水が必要です。
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そういえば、僕の結婚式で、司会をお願いした方に「今日はお二人(妻と僕)がすることは、全て正しいです。何があってもすべて善です」「失敗とか、しくじったとか、無いですから。思うままにやってください」と言われました。
細かな言い回しは忘れてしまいましたが、とても気持ちが楽になったことは覚えています。あの言葉に救われたと、いまだに妻とその話をすることがあります。
これを結婚式の日だけでなく、常に思えたらいいですね。
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今回の劇のように、そのこと単体だけでみれば失敗することもあるでしょう。
けれど、たとえ失敗であっても、園長先生のように、大局的にみれば正しい。それが最善最高なんだと、失敗をそうと見せずに相手をも巻き込んでしまう「我田引水」の力は、機嫌よく生きていく上で必須の能力と言えそうです。終わりおめでとうね
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