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何もない。と言っている人にとっての何って何?。

 何を思ったか、私は電車ではなく自転車で友達に会いに行くという手段を取った。やってみたかったのだ。どれぐらいかかるのか、どれだけしんどいのか。12月は忙しくて会えなかった。年が明けて時間の流れも少しゆっくりになり、約2年ぶりに会えることになったのだ。なにせ、私が12月に引っ越したが故に近くなり、会えるようになったから。目的地までは約20km。いつものペースで漕げば1時間半くらいで着く。「1時間半漕げば着くのか〜」と楽観視していたことが少しずつ仇となった。車では通ったことある道でも、自転車では初めて。舗道の整備が行き交っていない。車でしか通らないような大通り。歩いている人もあまりいない。そら、舗道の整備はなっていないよな。と少し思いながらも引き返すことはできない。なんとか自転車を漕いでいく。そして山越え。トンネル前の約1キロ。ギアを変えて楽にしたつもりだが全く進まん。「あー、自転車にしたの間違いだったかな」とか考えながらも、「あーって思える自分いいよなー。なんか感情をぶつけながらもこぐことしかできないよな!」と少しハイになっていた模様。トンネルの途中からはもう下り。何も漕がなくても進んでいった。それと同時に「あ、この道で帰るのはしんどすぎる。遠回りして帰ろう。」と下りながら悟っていた。

 下っていくと、山と川と橋。何か自分が求めていたような景色があった。それと同時に、「あ、今まで住んでいたところよりもやっぱり何もない」ということが頭によぎった。今までは物を持つということ、物を買うということで自分という人間を型どってきたがもうそれはできないんよなー。そう思った。何を使って自分を飾れば良いんだろう。なんて考えてた。

 川の水、ゆっくりした流れ。それをみていたら物を持つことでしか自己を誇れない自分が何か嫌になった。それと同時に、いっぱい持っていても死ぬ時は何も持てないんだよなーって少し引いた目線で考えたりもした。仕事のことなんて自転車を漕いでいる時には全くなかった。友達に会いにいくという目的ももはや頭の中になかった笑そこはあってくれとも思ったが、自転車を漕ぐことに集中できている自分を楽しんでいた。

 友達に会ってから、珈琲を飲みに行くことに。甘い物も添えて、話が盛り上がるかと思いきや携帯をいじって時間が過ぎるという笑 なにせ毎週電話している相手だ。目の前にいるという事実はあるものの、いつも会話をしている。会ったからといって話は弾まない。なんだこの時間は!と考えつつも珈琲は美味しいしワッフルは美味い。
 カフェを後にしてからは本屋でそれぞれ単独行動を行ったり、ラーメン食べたり、ラグビーを見て、サッカーを見る。大学時代と変わらない過ごし方が懐かしかった。来て良かったなと思えた。自転車で来た甲斐はあったかな?笑

 友達とお別れした。遠回りをすることもあり、夕方には出発したかな。どこかで写真を撮りたい。そう思っていた私は自転車を止め、思わずスマホを取り出し写真を撮った。2枚目の川と同じ川。今見えている写真は2枚目より南側に位置している。朝と夕方という違いはあるとしても、景色は違って見える。なんか良いな。このなんかを言語化することがどれだけ難しいか。難しい難しいと言いながら言語化しないということは言語化しないということに意味を見出しているのか。と言語化しないことを肯定する。それを人はずるいと言う。

 日が沈みそう。そう思った私は、またもやスマホを取り出し写真を撮った。なんでもない景色がなんでもなくもない。そこに価値を見出そうと必死で必死で漕ぐ。それでも漕いだ私にしか価値はないのだろう。それでいい、それがいい。

 見上げると月が出ていた。周りに邪魔するものはない。あるのは私の自転車と風景。まだまだお家までは遠い。この景色を撮った後から段々と暗くなり、真っ暗な道を自転車のライトだけで走っていった。車社会のこの土地では少し自転車は使いにくいのかもしれない。それでも漕いで漕いだ時間は長かった。その長さを私は休日に求めていた。


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