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同い年の大久保嘉人選手の引退と一枚の写真

12月12日、私と同い年の日本を代表する一人のストライカーが、現役最後の試合を迎えました。天皇杯準決勝に登場したセレッソ大阪の大久保嘉人選手は、1982年生まれの同い年生まれ。39歳になってもJリーグの舞台で戦い続けたすごい選手です。

彼とは直接の交流はありませんが、実はJリーグ入団前から? 浅からぬ縁がありました。

現役生活を終えた39歳、世代No.1プレイヤー

大久保嘉人選手といえば、国見高校で選手権優勝、インターハイとの高校2冠、さらにメンバーのほとんどを占める長崎県代表として実質3冠を達成するなど「世代No.1プレイヤー」として鳴り物入りでセレッソ大阪に入団した超有名人。同い年でサッカーをプレーする者ならみんな彼の名前を知っていましたし、私たちが高校3年生のときの国見高校はとんでもないスーパーチームで、スピードスターの松橋章太選手など多数のJリーガーを生んでいます。

12日、天皇杯準決勝でセレッソが惜しくも敗れたことで、大久保選手のサッカー選手としてのキャリアは終わりを告げることになりました。

「勝ちたい気持ちはありましたけど、今日はチームとして何もできなかった。終わったなという感じ。今日は負けて当然の試合。すっきりしたというか、これでもうやらなくていいんだという気持ちが強かった」

試合後のコメントは実に彼らしいすっきりとしたものでしたが、同じ年にJリーガーになり、早々に引退した自分には想像もつかないくらいいろいろなことがあったと思います。

大久保選手の引退に関しては、元Jリーガーとかではなく、同級生として素直に「よう今年まであんなレベルでやれてんな」と驚くとともに、「まだやれるんちゃうか?」という思いもあるから不思議です。

中学の時の対戦、謎の記念撮影

そんな大久保選手とは、実は中学校の時に交流戦で対戦したことがありました。

私が通っていた大阪市立白鷺中学校の恩師、内田先生が当時の国見中学・鵜殿監督と交流があり、定期的に試合を行っていたのです。

先日、大久保選手が引退を発表したことで、その内田先生からこんな写真が送られてきました。

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これは、現在内田先生が総監督を務める大阪市サッカースクール2001のお手製の機関誌の一部だそうです。


こんなん撮ったっけ?

正直、まったく覚えていないのですが、先生によると2001年3月、大阪市鶴見区の招待試合の会場で、2人のプロ入りを祝って、左から大久保選手、鵜殿監督、内田先生、私という並びで撮影した写真だというのです。

大久保選手がセレッソに入団した当時の背番号と、私がガンバ大阪に入団した背番号が同じ15だったのは認識していて、引退発表に際してもそのことで一方的に縁を感じてはいました。でもまさか、そのときにこんな写真を撮っていたとは……。


大久保選手は超有名人だったので、中学のときに試合をしていたことはなんとなく記憶にありました。その後の活躍も目に入ってきますし私は一方的に彼を知っていました。

私が忘れていたくらいですから、彼もこの写真のことはきっと覚えていないでしょうし、私のことなんて知らないでしょう。

でも、2001年にJリーガーとしての第一歩を歩み始めた2人の写真が残っているというのはなんだか不思議なご縁を感じます。

大久保選手の「次」に大注目

大久保選手とはまだ会って話したことはありませんが、現役生活を終え、新たなチャレンジをはじめるいま、もしお会いできたら聞いてみたいことがいくつかあります。

私はどんなアスリートにも一線を退く時がやってくる、だからそれを前向きな撤退ととらえて、現役生活での経験、それまでに培ったものを次のキャリアでも最大限に生かしていくべきだという考えで自身のキャリアを歩んできましたし、アスリートのキャリア支援事業も行っています。

超一流のサッカー選手だった大久保選手は、なぜ引退を決めたのか? みなさんも思っている「まだできる」という能力や身体の理由とは別に何か理由があるのか? 何が決め手になったのかなどその背景にあるものを聞いてみたい。

そして、ご自身でも
「これからはサッカーとは違うことをまた勉強して、チャレンジしていく。ここからのほうが長いし、自分はワクワクしているので頑張っていきたい」
と話しているように、『大久保嘉人』が次に何をするのか? これは本当に気になります。

思いがけない浅からぬ? 縁が判明した大久保選手の引退に、改めて前向きな撤退、手放すこと、キャリアについて考える時間をいただきました。


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