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意気揚々と乗り込んだJリーグは、レベル違いの魔境だった~戦力外Jリーガー社長の道のり4

21歳でガンバ大阪から戦力外通告を受けビジネスの世界に飛び込んだ私の物語を連載でお届けしています。

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“魔境”に足を踏み入れてしまった私の初めての挫折

夢にまで見たJリーグの舞台。18歳の私は華々しい世界の一員となれたことに胸を躍らせていました。しかし、現実は残酷でした。

「これはちょっと難しいな」

これまでどのカテゴリでもチームを引っ張るプレーをしてきた私にとって、Jリーグの名門、ガンバ大阪は初めての、そして強すぎる洗礼を与えてくれた場所でした。

高校レベルでも線が細く、スピードとキレ、テクニックで相手をかわしてきた自分にとって、ガンバでの紅白戦は大きなカルチャーショックでした。

ディフェンダーではないのだから肉弾戦は必要ない。戦術眼とスキルでフィジカルコンタクトを受ける前にボールをさばけばいい。

高校までは通用したそんなプレーがまったく通用しないどころか、紅白戦のプレッシャーでもボールを持つこともままなりません。

「なんとかなった」高校時代から想像もできないほどのレベルの違いが

そもそも自分が課題と感じていた身体の強さ、プレッシャーの強さはまぁ想定していました。高校とはレベルが違うのは当たり前で、プロ入りしてからJリーグを戦い抜く体をつくっていくという考え方もあります。

しかし、自分のストロングポイントだと思っていたスピードやキレ、スキル、テクニックのどれもが、Jリーグのプレーレベルに達していない、プロでやっていくレベルと相当なギャップがあることに大きな衝撃を受けました。正直とんでもないところに来てしまったと、“魔境”に迷い込んだ気持ちになっていました。

アスリートだからこそわかる圧倒的な差

「こんなに違うものなのか……」

アスリートと呼ばれる人はみんなそうだと思うのですが、レベルを感じ取る力というか、自分を客観視して相対的な評価で自分と相手との差を分析する能力に長けています。

ボールを挟んで対峙してみると、ピッチの外から見ているだけではわからない、身体のセンサーから入ってくる「アスリートにだけわかる情報」がたくさん流れ込んでくるのです。

私がガンバに在籍したのは2001年から2003年の3年間です。

今だからいえる! というほど秘密の話ではありませんが(笑)、
実はプロ入り1年目で「ああ、これ俺が試合に出る余地ないな」という“結論”が出てしまっていました。

紅白戦ではボールをもらう以前に弾き飛ばされる。運良くボールをもらえても、受ける体勢を崩されているのでイメージ通りのプレーができない。磨き上げたつもりでいたプレーもまったく通用しない……。

そのときは、足りないものを埋めていこう! と前向きになろうとしていたつもりでしたが、実際は頭ではなく身体が「これはかなりの差があるで」「無理かもしれん」と常時警告の赤ランプを出しているような状態でした。

結局、リーグ戦の出場はルーキーイヤーの2001年の2試合のみ。残念ながらアスリートとしての私の直感は正しかったことになるわけです。

高2の家長選手に見せつけられた“違い”

40歳になった今、自分が通用しなかった理由について振り返ってみると、「そりゃ、そうやろ」という納得の嵐です。

どんなときに「これは無理だな」と思ったのか? 一番レベルが違うと思った瞬間は? という質問をよく受けるのですが、パッと思い浮かぶのが、現在は川崎フロンターレでプレーする家長昭博選手が、ガンバ大阪の練習に初参加したときの光景です。

当時高校2年生だった家長選手は若手の好選手を生み出すことで有名だったガンバユースの中でも圧倒的な“天才”として将来を嘱望されていました。ジュニアユース時代には、生年月日(1986年6月13日生まれ)がまったく一緒! というあの本田圭佑選手とのポジション争いで圧勝した逸材は、トップチーム練習参加の翌年には高校3年生にしてプロ契約を結ぶというエリート街道を邁進していったのです。

家長選手の“変態的”とも評されるテクニックについては今さら語る必要はないと思いますが、私が驚いたのは家長選手が初練習で見せた立ち居振る舞いでした。

「アスリートはアスリートを知る」的なお話をしましたが、家長選手はピッチに立つだけ、ボールを持つだけでさまになる。特別なテクニックを披露したわけでもないのに、パスの受け方、身体の向き、ディフェンスとの間合いの取り方、何気ないボールの動かし方のすべてが、なぜか独特のオーラに包まれて見えたのです。加えて高校2年生とは思えないフィジカル

「Jリーグで活躍する選手ってああいう選手なんだろうな」

年下の、しかもまだ高校生の家長選手を目の当たりにして、自信をなくすより前に笑けてきたのをよく覚えています。

さらにすごかったのが、家長選手のプレー中の態度。

クラブのレジェンドストライカーである松波正信さんに臆することなく要求をし、堂々と指示を出していたのです。

ベテランも若手も、ピッチの中ではただのチームメイト。指示に時間がかかる敬語は使わない、呼び捨てOKみたいな文化がサッカーにはありますが、それでも年齢もキャリアもはるかに上の松波さんに対して同じように振る舞えるかといわれると、あの時点での私は絶対無理としか思えませんでした。

Jリーガーだった3年間だけ、自分が自分じゃなかった

とにかく圧倒的な力負け。Jリーガーになれたはいいけど......の典型例だった私ですが、まだプロサッカー選手としてのキャリアは始まったばかり。

天分、才能で負けているのなら自分を客観視して努力を重ね、成長していけばいい。

それまでの、そして今の私なら、そういう発想になったと思いますし、そういう工夫を得意とするからこそ今までやってこれた自負はあるのですが、プロになってからの3年間、あの期間だけはなぜか自分が自分でなくなっていました

失敗の話ばかりをしているようですが、何をしてもうまくいかなかったガンバでの3年間があるからこそ、そのときに何が足りていなかったのか? なぜ失敗したのか? という「敗因の研究」ができ、それが今に生きているのは紛れもない事実です。

プロサッカー選手だった3年間だけ私が忘れてしまっていたものとは?
このお話はまた次回に。

続く


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