サピエンス全史マガジン5

サピエンス全史 #5 幸福

いらすとや図解シリーズ第一弾「サピエンス全史」の第5回、いよいよ最終回、人類の幸福についてです。

前回まで4回にわたって、サピエンスがまだ「ウホウホ」言っていたころから、原子爆弾の脅威と資本主義の強欲さにより平和が押し付けられている現代まで、文明の構造について説明してきました。

このサピエンスの歴史を一通り知ることによって、人類はどこに向かうのか?ということが考えられるわけです。

では、どこに向かうのか? 

科学革命のところで、「どんな科学を発展させるべきかの科学的根拠がない」とありました。科学ですら、宗教やイデオロギーという虚構の物語から導かれる指針が必要なのです。ならば、私たちは虚構がなかったら行先のない迷子なのでしょうか。

「人類の幸福を増やす方へ進む!」

と多くの人はなんとなくそう言うように思えます。
はたして本当にそうなんでしょうか?

農業革命の前後で人は幸せが増えたのでしょうか?
フランス革命や明治維新の前後で人の幸せは変わったか?
現代の拡大する資本主義下にいる人の幸せも拡大している?

少なくとも、すべての問いで完全にはYesではないでしょう。
これは前回までの人類の歴史で見てきた通りです。

では、そもそも幸福とは何なんでしょう?
私たちは何を基準に幸せといっているのでしょうか。

今後の人類を考える前に、まずそこから見ていく必要があるようです。

幸福とは何か? 
今のところは、正解はなく諸説ある、というのが事実でしょう。
ですので、それらの色々な幸福を見ていきましょう。

まず、一般的として多数を占めると思われる「幸福とは主観的厚生である」という説です。主観的厚生とは、たった今感じている快感であれ、長期にわたる満足感であれ、私が心の中で感じていること。

その主観的厚生の測定方法は、質問票です。「今の自分に満足している」「人生は良いものだ」「将来について楽観的だ」などの記述に、賛同度を0~10で答えるという内容になります。

「私の心の中が大切」という自由主義が支配的であるこの世界では、この測定結果は役に立つとされています(後でボロカスに論じますが)。現にこの測定法はごく一般的で、国ごとの幸福度の測定にはこの質問票方式は含まれていることが多いです。そういった幸福度調査には質問票のような主観的なもの以外にも、貧困度や失業率なども客観的な値も使われたりします。参考までに、各国の幸福度の調査方法がまとまったページのURLは以下です。

さてでは、その主観的厚生にはどんな要素が関係しているか?
主には、健康人間関係が主な要素です。

まずは、収入や蓄えなどお金にまつわる。主観的にみたら、お金が幸福に関わっていると感じるのはもっともでしょう。ないよりあったほうがいい。パートで暮らすシングルマザーなど経済階層の底辺から抜け出せない人にとって、宝くじが当たるなどによる富の増大は、「やった!」という喜びと共に主観的厚生を大幅に向上させるでしょう。しかもそれが長続きする。

一方、すべての人にとって同じ宝くじが当たることが幸福かというとそうでもないのです。年収2000万の経営者など、充分以上に富がある人に宝くじが当たった場合、当たった時には主観的厚生は「やった!」という喜びと共に向上する。しかしながら、その向上は数週間で消えます。
このように貧困は幸福ではないのは間違えなさそうだが、富だけが幸福ではないのです。

健康はどうか?
確かに病気やケガは主観的厚生を下げます。「癌ですね」「糖尿病のようですね」「事故により足は一生動かないでしょう」と宣告されたら不幸と感じるでしょう。
しかし、心身ともに消耗させる痛みや、慢性疾患と診断されても悪化がなかったら、長期的にみると主観的厚生は変わらない、という調査結果がでています。

人間関係などコミュニティはどうか?
強い絆で結ばれた家族・コミュニティにいる人は、家庭が崩壊しコミュニティの一員になれない人より、はるかに主観的厚生は高いです。「結婚して幸せ!」「お前たちのような家族がいて最高だ」みたいなことは主観的厚生が向上している例でしょう。
しかしながら、前回「国家とコミュニティ」にて説明した通り、家族・コミュニティは現代ではめちゃくちゃ弱くなっています。強い国家と強い個人になってきているためです。離婚率の上昇や親の意向の弱体化などで、夫婦や家族がいても孤独を感じる人が増えているのではないかと思います。このように、国により物質面の主観的厚生の向上を、コミュニティの弱体化による精神的な主観的厚生の低下が相殺してしまっている可能性が高いです。

というわけで、富・健康・コミュニティなど外部的要因による「幸福を主観的厚生」とする説は、要因に幸福がそれほど左右されないので、完全に賛同させることというのはできません。

主観的厚生というよりも、期待をいかに満たすかが幸福に関わるという期待満足度説もあります。

例えば、牛にひかせる荷車が欲しくてそれを手に入れたら満足で幸福、フェラーリの新車が欲しかったのにフィアットの中古車しか手に入らず不満足で幸せではない、となります。
荷車とフィアットを比べると、現代の客観的な価値だけでみるとフィアットの方が高いです。しかし、何を期待するか?で幸福かどうかが決まる、という説です。

前ページの、富・健康・コミュニティと幸福に関しても、期待を満たすかどうかで考えることができます。人や文化の違いによって変わる幸福の定義は、主観的厚生だけではなく期待に次第と考えた方が説得力があるように思えます。

しかし、幸福が期待によるならば、その期待はどこからやってくるのでしょう?

まず、時代によって移り変わります。例えば、現代では毎日シャワーを浴び、衣服を着替えることが習慣となっていて、数か月のあいだ体を洗えないと不満の人が多数です。「体を洗えないと不幸!」と。
しかしながら、中世では何か月も体を洗わず衣服を着替えることはなかったけど、当時の人々は満足していました。着替える服を持っているにもかかわらずです。

現代ではメディアによる影響も大きいです。
5000年前、小さな村に住んでいる18歳の青年だったら、くたびれた老人と幼児しか比較対象が周りにないので、自分に満足していた可能性は高いです。一方、現代のティーンエイジャーならば、比較対象はクラスメイトではなく、テレビ・フェイスブック・巨大広告で目にするスポーツのスターやスーパーモデルなので、自分に満足はできません。
幸せが期待によるものならば、マスメディアと広告業界は世界中の満足のたくわえを枯渇させているかもしれません。

さらに未来の場合。技術の進歩で健康面での期待値がすべて満たされた場合、つまり非死になった(不死ではなく、病気や老化はないものの事故では死ぬ状態)の場合、その人はごくわずかな危険も冒すことを避けるようになるでしょう。また、配偶者や子供など親しい人を失う苦痛も、非死により永遠を期待している分、耐えがたいものとなると考えるのは容易です。このように、期待というのは無制限であるため、幸福は今に満足する以外ありえないことになります。

このように、幸福は期待満足度という説は納得できるものではありません。むしろ期待は不幸の元凶のようですらあります。

幸福を科学的観点から見てみましょう。この立場ですと、「幸福とはただの生化学反応」という説になります。

生化学反応とはどういうものか?
ニューロン・シナプスを流れる電気信号である神経パルスと、セロトニン・ドーパミン・オキトキシンなど様々なホルモンである生化学物質の2つを要因とした反応であるということです。
例えば、宝くじに当選した、愛する人を見つけた、など幸福なシチュエーションでは、その幸福の絶頂にいる人はお金や恋人に反応しているのではなく、ただ電気信号とホルモンに反応しているだけなのです。

この幸福の生化学反応は、エアコンの温度調節機能のように幸福度調整システムのように説明されます。
もし人間含め生物は、快感が続いてしまったら次の行動を起こしません。性交後に享受したオーガズムがずっと続いてしまったら、ご飯を食べることをせず死に絶えます。
このような生き物は進化の過程で淘汰されていきました。そのため、高まった幸福感を一定値に戻すような生体機能があるのです。

幸福度を0~10で表せるとします。生まれつき3~7の幸福度を味わい5で落ち着く人は陰鬱な性格、5~10で推移し7で落ち着く人は陽気な性格となります。陰鬱な性格な人は、エイズと癌の治療法を発見し、宝くじで1億円当たり、イスラエルの和平を実現しようが、7を超えて心が浮き立つことはないのです。

この幸福度調整システムで考えると、歴史の意味とはどういったものになるのでしょう?
フランス革命で、王政貴族による圧政が終わり農民として人権と土地が与えられるとします。陰鬱な生化学システムを持っている人の場合、フランス革命の前だろうが後だろうが生化学的なものが変わるわけではないので、マリーアントワネットにこぼしていた愚痴を新しい政府のトップにいるナポレオンにこぼすことでしょう。一方、陽気なシステムを持つ人の場合、圧政の状況下でもシャンゼリゼ通りに繰り出して歌い騒いでいて、新しい政府が登場したらしたでお祝いして躍り騒ぐでしょう。

この生化学システムの切り口の場合、前頁までの幸福との相関に関して、因果関係が逆になる可能性があります。結婚によって幸福になるのではなく、幸福な生化学システムを持っているから結婚ができる、ということです。逆に、不幸な生化学システムだから、ストレスから病気になりやすく、仕事に成功しにくい、となります。

このように、幸福が生化学反応というのは、科学的ではあるものの、意味を成さなくなります。もし幸福がただの生化学反応だけであるならば、ドラッグを摂取して日常得られるよりも暴虐的に高い絶頂感を味わうことが、最高の幸福ということになってしまうでしょう。

生化学的には辛いと感じることでも幸福であることもあります。
例えば、子育て。大きく重くなり続ける子供を抱え上げ、睡眠時間を削り、食費を身を粉にして稼ぎ出す。それでも、子供がいることが幸福だ、と考える人が多くいます。子供が自分の生きる理由であるかのように。

これが、「幸福とは人生の意義」という説です。この説に立つと、幸福とは不快な時間が心地よい時間を上回ることではない、と考えます。

中世の時代では、人生の意義というのは明確でした。中世では、死後の世界を信仰していて、この集団的妄想の中に人生の意味を見出していおかげで、現代よりも幸福だった可能性が高いです。「生きている間はつらいことばかりだ。しかし、この苦労が死後の世界で報われ幸福に繋がるのだ!」と。

現代の場合における人生の意義の例を見てみましょう。

自由主義などイデオロギーを掲げて生きる人「自由という囚われない人間性を謳歌することが人生だ」
国民主義的な人「自国の国民らしく祖国のために生きること」
資本主義的な人「売上を上げて、雇用を拡大することが意義だ」

勇敢な兵士の場合「この戦争を勝利に導き祖国を守ることが命を懸ける」
起業家「新しい会社を設立し大きくしていくことが天命だ」
建築家「この壮大な大聖堂を完成させることが生きがいだ」

などなどです。
意義のためなら努力や犠牲を惜しまない、それこそ有意義な生き方と主張することでしょう。

しかしながら、これまでの歴史の説明で見てきた通り、これら人生の意義はもれなく全て虚構です。物語です。人々が自分の人生に認める意義は、いかなるものも単なる妄想に過ぎません。その意義がどこからやってきて、どこへいくのか、あなたが死んでも残るものなのか、などを考えれば明らかでしょう。

「幸福とは、人生の意義について個人的な妄想を、その時々の支配的な集団妄想に一致させる」ということになってしまいます。

幸せとは本当に、そのような自己欺瞞があってのものなのでしょうか。

幸福についての最後の説です。
サピエンス全史の著者ユヴァル氏は、おそらくここに本書の論点を集約させています。幸福とは「自分を知る」ということ、このような仏教的な結論です。

仏教的というと、偏見がうまれるかもしれません。
同様に、仏教の洞察に接した疑似宗教的なニューエイジやスピリチュアル系など自由主義な方々は、こう主張しました。
「幸せかどうかは、外部の条件によって決まるのではない。心で何かを感じるかによって決まる。富や名誉など外部の成果を追い求めるのをやめ、内なる感情に耳を傾けるべきなのだ」と。

このような考え方により、反体制的でロックンロール的な潮流や、内なる心に従うため嫌な感情を追い払う心の浄化の信仰などが生れたりました。

しかしながら、これは仏教の祖ゴータマの主張とは正反対です。

ゴータマはこう主張したとされています。

苦しみの根源は、感情を追い求めること。
辛い感情の回避や喜びの追求をしていては心は満足することはない。
自分の心身を入念に観察する瞑想は、感情を追い求めることがいかに無意味かを悟る修練である。
どんな感情もあるがままに受け入れられると、心の緊張がとけ、今この瞬間に満足していられる。

快も不快も特定の感情の追求をしないで、あらゆる物語を脇に置き、自分が本当は何者か、何であるかを理解することが、自分を知るということであり、不幸ではないということです。
すなわち幸福とは、少なくとも自分を知ることが含まれる
残りは言及はないので個人の推測ですが、自分を知った後どうするか、と予測できるものの科学的な説は見たことがありません。

また、「自分を知る」ということは不可能ではないものの非常に困難です。これまで仏教を実践した人の99%以上は自分を知ることはなかったでしょう。歴史的にみて、自分を知るために色々な宗派に分かれていったことや、自分を知れた人を神格化して崇めていることからも伺えます。

99%の人は、自分というもの間違えています。
自分の感情や思考、好き嫌いを自分自身と混同しています。自分の考えが否定されたりすると怒る・恐れる。あたかも自分が害されたかのように。こういうことが、よくある例です。その怒りや恐れなどの感情も、自分自身の一体として感じてすらいます。

では、その自分を知るという幸福の測定方法はあるか? 実のところ見つかっていません。少なくとも、主観的厚生説のところででてきた質問票方式ではないでしょう。質問票にある「私は日常生活に満足を感じている」などに高得点で賛同するためには、満足という感情の追求する必要があるためです。

そもそも現代の心理療法では、人々は自分自身がよくわからないので、自己破壊的な行動から抜け出すためには専門的な助けがいる、とされています。しかしながら、その心理療法を考案するベースである心理学は、自分自身がよくわからない人の質問票を統計して実証しているという完全な矛盾を抱えている状況です。

このように、私たちは幸福について全てはわかっていません。
だからこそ、私たちは幸福について無知である、という姿勢でいることが重要でしょう。幸福について無知を認め、その空白の地図をうめる冒険が求められている時代なのかもしれません。

幸福という指針がよくわからないままでも、科学技術は政治イデオロギーなど支配的な集団妄想を導かれて進みます。

サピエンスの全歴史を見てきましたが、この先をどうなるかの予想でこの本を締めくくります。

現代の科学は遺伝子の操作が可能の段階にきているなど、この先はサピエンスからアップグレードした存在の歴史になるかもしれません。科学的な視点でみると、三つの可能性が考えられています。

一つは、生物工学の観点です。
サピエンスは、万能の主が生物の種を創造したと妄想はできたものの、生物の種は作り出せませんでした。しかし、野生のイノシシや鳥から家畜のブタやニワトリを生み出すことはできました。大人しくて動きの遅く太った個体同志を掛け合わせ、これを何世代も繰り返すことで自然には存在しない家畜を誕生させたのです。

しかし、この選別育種だけの時代はサピエンスが誕生したころから数十年前までです。生物工学一つ遺伝子工学が発明され、動物の遺伝子を解析し操作できるようになりました。これにより、光るウサギや人間の耳を背中に持つネズミなど、自然には存在しない動物を作り出すことができるのです。

これが発展するとどうなるか?
遺伝子工学が人間へ適応され、人間に任意の機能が追加されていることになるでしょう。現在は、倫理的な理由で止められています。しかし、遺伝子治療として認知症対策で脳機能の向上などの研究が進められているのはご存知の通りです。この脳機能の向上が、記憶力の改善などにつながるならば、健康な人に使わない理由はありませんね。これにより、サピエンスを超える人類を作り出されるのも時間の問題でしょう。

二つ目の観点は、サイボーグ工学です。
科学の発達する前から、サピエンスの有機的な器官を非有機的な装置による補強は行われてきました。歯の補強である入れ歯、足を怪我した時の補強である松葉杖や、目の補強であるメガネなどです。最近では、記憶の補強器具としてスマホが使われたりもします。

現代では、補強だけでなく有機的な機関に非有機的な装置を結合するバイオニックの技術も登場しています。失われた腕の部分に、ロボットアームを接続するというものです。腕を動かすときのように思うだけで、ロボットアームが動作します。

これが発展するとどうなるか?
ロボットアームが肩にくっついている必要はないので、遠隔地のロボットアームも動かせます。この技術は腕がない人の者だけで留まる理由はないでしょう。「腕よ動け」と日本で思ったら、インターネットを経由してアメリカのロボットアームを動かすこともできます。そして腕だけで留まらず、脳もインターネットに接続するようになり、さらには脳と脳同志を接続することもできるようになると、考えられています。そうなったらサピエンスを超えた存在となりえるでしょう。

最後の観点として、非有機的な生命についてです。
有機的な存在ではなく、非有機的な生命もありえます。
現状一番近いのは、コンピューターウィルスです。あるコンピュータウィルスは、作者の意図通りか否かは不明ですが、自己複製と突然変異をする疑似生命的なものが存在します。

さらには、人工知能技術もものすごい勢いで発展してきており、コンピュータで脳を模倣することを目的としたベンチャー企業もあるほどです。

これが発展するとどうなるか?
コンピューター上に疑似的な生命が誕生するとされているます。人工知能の先として、意志と感覚を持ち、自ら学習し、増殖するようなプログラムが生み出されるの未来がそこまで来ているのです。

まとめ

以上で、サピエンス全史のいらすとや図解が終了です。

7万年前の、虚構を信じることが始まった「認知革命」から数十年後の近未来までを、著者ユヴァル氏の独特な切り口で見ていきました。

歴史を知ることは、思い込みを取ることです。
これまでの当たり前が、どうやって作られたかを知ることで、捨て去ることができるようになるのです。

サピエンス全史は、共同幻想に支配されている社会の下で、何を捨て去り、何を目指すかのきっかけになる本の一つでしょう。

そのサピエンス全史の最後はこう結ばれています。

私たちが自分の欲望を操作できる日は近いかもしれないので、ひょっとすると私たちが直面している真の疑問は「私たちは何になりたいのか?」ではなく「私たちは何を望みたいのか?」かもしれない。

幸福をテーマにした本で、幸福とは何ではないことが明らかにし、何を望みたいかで締めている。そして、何をした方がいいという考えは全て虚構であることも。

あなたが何を捨て、何を選ぶか。

作者はそういいたいのだろうという妄想が私は止まりません。

この図解にとどまらず実際にサピエンス全史を読んでもらえることを願います。

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