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ゴーギャンの妻(14)[小説]

 昭和24年、日本全国が空襲に襲われ死者のない都道府県は1つもなかった。原爆の広島が20万人、長崎も7万人、東京大空襲の10万人は突出しているが全国で壊滅的被害が出た。祖父はまだ40代であったが、徴兵検査の結果、出征はせず、家族とともに空襲から逃げ回ることになった。
 祖父は西は軍港が多く危ない、鉄道の通っている場所も危ない、一方、東北は比較的被害が少ないと考え、東北の山形・福島・岩手で、しかも鉄道の通ってない僻地を目指して逃げることにする。
 
 家財道具と幼女であった叔母と妻を大八車に乗せ自分が曳き、大学を卒業したばかりの和夫に押させて北へ北へと逃げた。そこでたどり着いたI村で終戦を迎えたのである。
 和夫は「敵性言語でないロシア語専攻」だったために学徒出陣がなく、工場労働も少ない暢気な学生生活を送り、前髪にパーマネントをかけていた。
 父母は「この戦時下に」といぶかったが、本人はそ知らぬふりである。もっと驚いたのはI村の人々で、パーマネントをかけている男など見たことがない。身の丈は当時としては大男の175㎝はあり、色白で目が大きく彫が深かった。
 
 とりあえずI村村長に頼み込んで空き家を借り、祖父は家計を立て直すべく米軍特需で沸く沖縄へ数年間の出張に出ることにした。ちょうど北海道の国鉄がロシア語のできる者を募集していると聞きつけた父が和夫を応募させようとしたところ、
 
「親父、俺、ロシア語1文字も読めない。」
「なんだとー? じゃあ仕送りは何に使ったんだ。」
「社交ダンスを習ってダンスホールで使った・・・。」
 
 あきれ果てて祖父は二の句が告げなかった。戦時下に限らず、ダンスホールは男女が顔を寄せてペアを組むところから、戦後も風俗営業に分類されている。放蕩息子もいいところではないか。
 
 だがちょうど村長が大学卒ならば村の小学校の代用教員をやらないかという願ってもない話をもってきてくれる。若い、あるいは壮年の男は皆出征して、生き死にもわからない。バスで1時間くらいのところに師範学校があったので、女性教員は足りている。
 
 さて、この人事が村に騒ぎを起こすことになる。和夫の風貌が噂になり村の若い娘が授業見学と称して教室の窓から中を覗いていくのだ。

>続く

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