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雑誌も作品の一部だった──「冒険王」と樋口真嗣【連載第一回】

こんにちは、バリュープラス アーカイヴ プロジェクトです。

三池敏夫さん、原口智生さん、タカハシヒョウリさんと続けてきました、当プロジェクトでのインタビュー。今回は先日動画でも発信させていただきました、樋口真嗣さんインタビューの模様をこちらの活動報告でも公開いたします。

樋口さんは日本特撮界を代表する監督・特技監督として、またアニメ監督・画コンテマンとしても長年にわたり活躍されてきました。特撮作品では、3作品で特技監督を務めた「平成ガメラ」シリーズのほか、2006年版『日本沈没』、『巨神兵東京に現わる』(2012年)など多数の作品で監督を務めました。近年では『シン・ゴジラ』(16年)『シン・ウルトラマン』(22年)も監督しています。

また樋口さんは認定NPO法人ATAC(アニメ特撮アーカイブ機構)の発起人の一人であるのと同時に副理事長でもあります。アニメ・特撮の資料アーカイブ活動について、多くの場で情報を発信してきました。

ピープロ特撮、「冒険王」をはじめとする雑誌文化、そしてアーカイブ活動の意義まで、樋口さんの熱い語りを、インタビューから感じ取っていただければと思います。


──フィルムを実際にご覧になってのご感想はいかがでしょうか?

樋口 今、我々がこの作品たちに触れ合うことができる唯一の手段は、DVDをはじめ実際に放送していたものをソフト化したものです。でもこの写真のフィルムは、そういった映像ソフトとは解像度のようなものが違いますね。作品自体は16ミリフィルムで撮ったテレビ映画で当然動きもありますけど、これらのフィルムは静止画、写真ですよ。
中にはドラマを撮っている時に横から撮った写真だけじゃなくて、特写っていうんですかね。(本編の)撮影の合間で「ちょっと構えてください」とポーズを取ってもらったであろうものとか、そういう写真がいっぱい入っていると思うんですよね。普通だったら俳優の目線は、お芝居の相手だったり、それこそ自分を撮っている16ミリのカメラだったりに向くものです。ところがこのフィルムの写真では、明らかに撮影しているスチールカメラに目線が向けているものもあり、その場の空気感が伝わってくる。
「冒険王」をはじめ、雑誌のグラビアに大判のスチールで載っていた情報を、当時の僕らは貪るように読んでいました。実は僕らにとって、テレビで観るものと同じぐらいの娯楽だったんですよね。その原本みたいなものがこうして残っていたというのは何よりもすごい。

デジタル化を目指すフィルムを調査する
樋口真嗣さん

樋口 フィルムを見ていて思いましたけど、あの頃の僕らにとって「作品を観る」ということは100%テレビの中の体験だったのかといったら、そうじゃないような気がして。どっちが後でどっちが先かってことではなくて、僕らにとっての対等な体験として、あの頃は映像だけでなく雑誌からの情報を浴びていたなっていうのを思い出しました。DVDボックスで作品を映像として観るだけでは思い出せなかったことです。
時間を経つのを忘れるとはまさにこのことですよね。フィルムを見ることで、一瞬だけどあの頃に戻っていたような感じがしましたね。

──当時「冒険王」は買われていましたか?

樋口 買えなかったです。親からお小遣いが貰えなかったんで。友達の家にあるわけですね。青果市場の社長の息子の家にありましたね。

──みんなでシェアして読んだ感じでしょうか?

樋口 シェアではなくて、その友達の家には「富」が集中しているわけですよ。そいつの家に遊びに行くっていうのが一つのステータスだったんですよね。言ってしまえばスネ夫です。そいつの自慢を聞きながら貪る、みたいな。

──ピープロ作品はご覧になっていましたか?

樋口 観ていましたけど、やっぱり限られた時間でした。第1話は観るんだけど、以降は親が観させてくれないとか、そういうこともありましたね。親の目を盗んで何を観るか。『ウルトラマンA』(1972年)をやっている時は『変身忍者嵐』(72年)は絶対無理で、『ミラーマン』(71年)をやっている時は『シルバー仮面』(71年)を諦める、とかして。
あの頃、テレビのチャンネルはガチャガチャって回すようなタイプのやつで、リモコンもない。ボタンでもない。あまり何度も回しているとズレるんですね、バリコン(バリアブル・コンデンサー)が。ズレをすぐ直せればいいんだけど、ちゃんと直らないこともあった。「乱暴に使うと壊れるよ!」と怒られるのでチャンネルもあまり回せなくて、ごく一部しか観られなかったのが当時の記憶ですよね。
だからむしろ馴染みがあったのは、番組そのものよりも友達の家の漫画部屋みたいなところにある「冒険王」のグラビアですよね。

──どちらかというと、雑誌に掲載されている写真の方に親しみがあったということでしょうか?

樋口 そうです。雑誌の写真というものを、二次的なものというふうに捉えた記憶がないんです。それは他の少年誌のグラビアなんかもそうです。あれ自体が面白いメディアみたいな感じだったので。
テレビの番組があるからそういう記事があるんだよ、と分かるまでにもうちょっと時間がかかったんですね。小学校高学年ぐらいになって、川の流れみたいに順番があるんだということを知るわけですよ。
あの当時は、紙面とかも生き生きと描かれていました。当時の編集者の方がラフを切って描かせたみたいな、番組だけでは語りきれない裏設定が、イラストで横に細かく載っていた。番組とはまた別のものとして、作品をサブテキスト的に盛り上げていた。そういったものも全部含めて、当時の「番組」だったのかなという気はします。
それはピープロに限らず、あの時代のものは全てそうです。そういったものはもう目に触れるチャンスがあんまりない。単行本のような古書店に売っているような古書と違って、雑誌はさらにその原点のようなものなのですから。そういう意味でも、この写真のフィルムは本当に貴重なんですよ。

第二回に続く】


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