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ポートレートモデル

なぜポートレートモデルをはじめたか。
随分前に同じようなことを書いたかもしれないが改めて端的に書き出してみると次のようになる。

・10代の頃にポートレートを見て自分もやりたいと思ったから
・↑のやりたいという気持ちは何歳になっても消えなかったから
・どんな人でも見た目でも年齢でも性別でも美しいし、なりたいものになれるということを自分自身に証明したいと思っているから

以上の3つである。
今日は特に3つ目について述べていきたい。
何度かInstagramやTwitterで発信しているように私はうつ病療養中である。3つ目に挙げたことについては
うつ病療養しながらポートレート撮影をしていく中で思ったことである。
抑うつが酷いと起きるのもつらく、一日中布団で泣いて過ごすこともあるが、美しくありたい、誰でも美しいという思いは不思議と消えない。

うつ病についてはここで書くと更に長くなるのでこれも後日詳しく書こうと思う。
勿論私個人の気分や調子によっては書かなかったり書けなかったりするかもしれないので、もしこの投稿のあとにいつまでもうつ病についての投稿がなかったとしてもご容赦いただきたい。(私の投稿を読んでくださる方がどれくらいいらっしゃるかは分からないが、期待させておいて落胆させるわけにはいかないので…)

本題に戻るが、どんな人でも美しいし、なりたいものになれる、ということについて、いわゆるLGBTQだとか、リアルサイズモデルだとか、見た目や性別に関する言葉が最近になって溢れてきているなあと感じている。
世の中これだけ人がいるのだからどんなセクシャリティもジェンダーも見た目も存在するのは当然である。
しかし疑問に思うのは「どんなあなたも美しい」というニュアンスの言葉を見た目や性別等で悩んでいたり戸惑っていたりする人に、外から言うことについてである。
私は理詰めをするタイプの面倒くさい人間なので尚更そう思うのかもしれないが、つまり、
「根拠」はあるのかと思ってしまう。

私も勿論どんな人でも美しいし見た目や性別、年齢等は関係ないし、なりたいと思う自分になるのが良いし、なりたいと思う気持ちがあればなれる、と思うが、果たしてそれを他人に言えるほどのことを自分はしているのか?とふと思ってしまった。

そして、それなら私がまず自分自身に証明しようと思った。「どんな見た目、性別、年齢でも美しいし、なりたいものになれる」をまず私が私自身に証明する。そうすることで更に私自身の強みになるだろうし、実際にそれを成し遂げている人間がいたら、その言葉は嘘ではない、ということに繋がるのではないか。

映画「恋の罪」に出てくる印象的な台詞に「言葉は皆肉体を持っている」というものがある。
上っ面だけの言葉では誰にも響かないどころか、自分にも響かないだろう。
だから私はまず自分自身に証明する。
服を着て、メイクをして、時には身体も心も脱いで、写真の中で表現する。また、時にはこのように文章に起こす。
続けていくことで言葉がより確固たるものになり、「肉体」を持つようになるのではないか。
写真の中の私は強くて儚くて美しい。

そして私自身に証明したことが、誰か他の人を救うきっかけになれば幸いである。

美しい写真が増えてきて、撮影の機会をくださるカメラマンさんや、アドバイスをくださったり、仲良くしてくださるモデルさん、私のしたいことをさせてくれる夫には感謝である。
私はこれからも私自身の美の証明を続けていく。

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