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アジア人であること

最近、アジア圏の歌を聴く機会が増えた。
いわゆる今、人気のKーPOPとは違うジャンルで、グループではなくソロで歌っているひとたち。
例えば周興哲さんの曲、特にアレンジにピアノを多用している曲を好んで聴いている。

専門的なことはよく知らないが、聴いていて心地がいい。
旋律のせいなのか、歌っているひとの声なのか、それとも言語から響く音なのか…

むかしからカーペンターズ 、サイモンとガーファンクル、スティービーワンダー、ABBA等々をよく聴いていたが、ここ数年の間に、ブラックミュージック、ヒップホップが加わった。
そして最近、ヨーロッパやアメリカの音楽ばかりを聴いてきた耳に、急にアジア圏の音楽が入ってきた。
初めて聴いたときの心の揺らぎ、それはたぶん、琴線に触れたという表現に近いように感じる。

コロナ禍で、外出する機会がめっきり減った。
一年前くらいまでは、それでも映画館には足を運んでいたが、母が亡くなって父との二人暮らしが始まると、もし、外で何かあったらと思うとやはり慎重にならざるを得ない。
それもあって、最近は、映画館に行かなくても気軽に楽しめる、配信を利用することが増えた。そこで選ぶのも、なぜかアジア圏の作品に惹かれる。
とは言っても、韓流には食指が動かない。
決して、韓国のものが苦手というわけではなく、ブームになるほど人気を博したものや、メジャーと言われるものより、どちらかというとマイナーなものに惹かれやすいというのが理由のひとつ。

なぜいま、アジアなのか、理由はよくわからない。
ただ、音楽にしても、映像にしても、触れていると心が落ち着くのは確かだ。
気持ちがざわざわしないし、何より疲れない。
セリフの一つ一つが、胸に沁みて、つい涙が出てしまう。
登場人物から伝わる感覚、感情は自分にもあるな、と思ってしまう。
もしかしてそれは、強いものに打たれるだけの耐性が、年齢や体験によって、いつの間にか弱くなったせいかもしれない。

30年近く前「ピアノレッスン」という映画を観たことがあった。
ピアノというタイトルに惹かれて、母と観に行ったところ、音楽の映画ではなく、ピアノというツールを通して繰り広げられる恋愛もので、予想以上にハードだったことが記憶に残っている。

確か、ニュージーランドを舞台にしていた。
そこへ、ある女性が、欧州から嫁いでくるところから物語は始まる。
女性は失語症で言葉が話せない。
小さな女の子を連れての再婚だった。
そして大切なピアノを伴っていた。が、船に乗って海岸に到着した日は天候が悪く、荷物は運ばれるが、一番大事なピアノはどの場に置き去りにされてしまう。

ストーリーは、もうほとんど忘れてしまい、どころどころのシーンだけが強烈に残っている。
失語症で話せないヒロインが、どうにかしてピアノを取り戻したいと、ある男性に頼み、その交換条件としてピアノを教えるというところから、内容が徐々に激しさを増して、中盤で二人は男女の関係に。
そこから、凄まじい三角関係が繰り広げられる。

ヒロインの夫が、二人の関係を知って怒り、彼女の指を切断するシーンがあったのだが、怖くて目を覆っていた。
それにもめげず、恋人と会おうとするヒロインの思いの激しさに圧倒された。
物語は、最終的にヒロインは思いを遂げ、夫と離婚。
娘と恋人と三人で、二ュージーランドを去る。

映画を観終わった後に、何が残ったかと言えば、凄まじいほどのピアノへの執念。そして、従順と見せかけて、実は怖いくらいの強さ、逞しさを備えたヒロイン像だった。
ときに激しく対立し、抵抗し、不服従を貫く姿勢を見せる姿に、正直、疲れを覚えた。
そして、これが欧米の女性なのだなぁと、到底、私にはない欧米人特有の気質のようにも思われ、その思いは深く心に刻まれた。

思えば、風と共に去りぬもそうだった。
逞しく、強く、激しいスカーレット。
苦しいときに底力を出したのは、彼女だった。

若いときは、そんな強く、逞しい女性に憧れていたこともあった。
自分もそうなれればいいなぁと思ったこともある。
しかし同時に、強く逞しく生きる女性の激しさに、どうしてもたじろいでしまう自分がいることも自覚していた。私には、彼女たちのような強く激しい自己主張や、積極的な行動、言動は到底できないなと…

いまは、自己主張や表現することは、大事だと思いながら、それを前面に押し出すエネルギーが足りなくなったせいか、想像しただけで腰が引け、どっと疲れを覚えてしまう。それよりも、内側に強さや逞しさを持ちながら、外側では柔軟であったり、弾力のある関係性を築ける気質の方に心惹かれるようになってきた。

アジアの音楽にしても映像にしても、音のひとつ、言葉のひとつ、セリフにしても、所作のひとつ一つにしても、柔らかさ、優しさが表れているようで、すーっと心に入ってきてほっとする。

今回、初めてアジア圏の音楽や映像に触れてみて、それぞれの地域独特の、特有の傾向、気質があることに気がついた。
そして、自分という存在が、日本という狭い範囲ではなく、アジア全体のなかに生きる、ひとりのアジア人であることも…
それを自覚するきっかけをもらったような気がする。



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