見出し画像

2021/07/27ー人は常識となっていることをいちいち口に出したりしないよね

表題の通り。常識となっていることは、いちいち口に出さない。それが人間だ。「目の前の人を大事に」という人は「目の前の人を大事に」できていない証拠だと思う。そんなことを今日は書いていきます。

こんにちは。飯島尚憲です。英語と格闘するのが毎日の楽しさになっています。さて、今日は、常識について。常識というのは何かと言われたら、個人の価値基準であり、それは他人に押し付けるものではないと知りながらもやはり自分の価値観というルーペでしか物事を見れない人は苦手だ。

まあ、1年前にも書いたけれど、組織を離れる時は「後を濁さない」ことが大事だ。というのが僕の尺度であって、実際には後を濁す人だらけではないかと思う。

実はこの記事自体は、今から1年前にオンラインサロンを運営していた時に勝手にやめていった人がいるので、書いたものである。その時は普段イライラしない僕も、流石に頭が来て、その人との関係を切るために繋がっているSNSを全てブロックした。そんなこともあったなあ。ちなみに、今でもブロックは解除する気がない。さて、そんな時に言われたのが「飯島って厳しいね」である。そして「正論は人を傷つける」とまで、オンラインサロンのメンバーが言っていた。さて、ここで考えたいのがこのことである。

正論とは何か??

おそらく、彼らの主張としては「論理的な正しさで人に強要しても、結局は他人が傷ついて、自分の思った通りに動いてくれない」ということであろうね。まあ、それは確かに論理的に筋が通っているが、そもそも、正論とは何か?ということも、実は人によっては異なるのである。まさか、広辞苑的な定義をそのまま持っている人はいないであろう。

論理的な正しさというのは、その人の積み上げられた価値観の集合体であると考えている。結局は、論理的な正しさというのは、個人の中の論理的な命題の結びつきであり、他人から見れば、論理になっていないケースが結構あるのではないか、と、26歳になって、だいぶわかってきた。まあ、そんなことを26歳になって気づいている人は案外、多いのかもしれない。

その人の積み上げられた価値観の集合体には、考えるべき要素があって、それは認知的なバイアスが働いていることである。自分が見てきたものの集合として、抽象化している。それが「価値観」というものである。

表題に戻る。「目の前の人を大事にできない人は人間としてダメである」ということを言っている人がいた。それは数人いたんだけど、では、お聞きしたい。目の前の人をその人たちは本当に大事にできているのだろうか。その人たちを見ていて、決して大事にしている感じがしなかった。彼らの言っていることは、たんなる理想論ではなかったのかと思う。結局は、目の前の人を大事にするというのは、スキルであると思うし(エーリッヒ・フロムの愛するということ、より)、精神論で終わらせるのはどうかとおもう。スキルとして生きた方が、後転的な要素として、まだまだ納得させられるのではないか。

そんなことを考えて、やはり、自分自身の認知的なバイアスが働いていると思いながらも「最大公約数的なことを言う人になりたくない」と思った朝でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?