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読書:砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない


好きな本はなんですかと聞かれると言葉に詰まる。本棚の前にやってきて、まずは1冊2冊と引き出してみる。あれも好きでこれも好きで……沢山あるから立ち止まって悩んでしまう。しまいにはこれも良かったなどと読みはじめてしまうから、元来自分は人にものを勧めるのが下手くそなのだ。

それでも昔から、この本は好きだなあと言える本がいくつかある。ので、稚拙ではありますが紹介します。


砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない
A Lollypop or A Bullet (角川文庫)

30-40分くらいでさらっと読めてしまうので、まずは読んでほしいという気持ちがひとつ。
でもきっと苦手な方は苦手だと思うので、(万物に対してそうだと思いますが)(いちごもカレーも食べられない人間はいるものです)試し読みができるのであれば書店でぱらりと数ページ、この本と顔合わせをしてみるのもありだと思っています。


以下、富士見ミステリー文庫(現在絶版)表紙そでのあらすじより抜粋。

 大人になんてなりたくなかった。
 傲慢で、自分勝手な理屈を振りかざして、くだらない言い訳を繰り返す。そして、見え透いた安い論理で子供を丸め込もうとする。
 でも、はやく大人になりたかった。
 自分はあまりにも弱く、みじめで戦う手段を持たなかった。このままでは、この小さな町で息が詰まって死んでしまうと分かっていた。
 実弾が、欲しかった。
 どこにも、行く場所がなく、そしてどこかへと逃げたいと思っていた。
 そんな13歳の少女が出会った。
 山田なぎさ──片田舎に暮らし、早く卒業し、社会に出たいと思っているリアリスト。
 海野藻屑──自分のことを人魚だと言い張る少し不思議な転校生の女の子。
 二人は言葉を交わして、ともに同じ空気を吸い、思いをはせる。全ては生きるために、生き残っていくために──。これは、そんな二人の小さな小さな物語。

砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない(2004)


現在手に入る角川文庫のものとはまた表紙も装丁も異なるので、どうせならと富士見ミステリー文庫版を引用させていただきました。

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初めてこの本を読んだのは登場人物とおなじ13歳のとき。まだまだ世界が狭くて、手段もなくて、息苦しい毎日だったことを今でも覚えている。
雨が降る前の、分厚い雲が空を覆っていて、それからじっとりと暗くて不安になるあの感じ。
腥い臭いがして、汗で服が張り付いて、そのせいで寒く感じるあの空気。臭い。湿度。
全てがこの本の中にあって、子供にはなんの力もないんだというほんのりとした絶望が背中にべっとりと付きまとっていた記憶が手に取るように思い出せる。

「こんな人生、ほんとじゃないんだ」
「えっ……?」
「きっと全部誰かの嘘なんだ。だから平気。きっと全部、悪い嘘」


自分自身、しばしば話題に出すこともあるが、「こども」という存在はあまりにも無力である。お金、権利、法律──どれもがこどもにとってはどうしようもない事象だ──作中の言葉を借りるならば〝実弾〟を持たない、社会に力を持ってコミットすることができないちっぽけな存在。何より社会が狭いのだ。小学校や中学校までは、多くの場合が地元のコミュニティの上で成立している。田舎の場合だとこれが顕著で、ああこれからずっとこの世界で生きてゆくのだとすら錯覚してしまう。逃げようにも力を持たないから、砂糖菓子みたいに甘ったるい考えで〝家出をする〟、程度が関の山だ。だからどれだけ光の見えない毎日でも、どれだけ痛くても苦しくても、ただひたすら生き抜いて大人になる、しか方法がない。この世はそうやってできていた。少なくとも、わたしが同じ年齢の時は。

わたしがこの本と思春期のあの時代に出会ったのは、なればこそ、運命のようなものだったのだとおもう。だいぶスピリチュアルでドラマチックな形容になってしまうけれど、きっとそう。わたしはこの本を読むたびに、あの頃の〝わたし〟と出会う。
あの日々を生き抜いてきたこと、誇りに思っていいよ。がんばったね。少し大きくなったわたしは、まだまだ何もかもが甘ったるいけれど、それでもわたし、なんとかやってるよ。これが良いことなのかは、正直まだわからないけれど。


この本の素晴らしいところは匂い立つほどに苦しい描写だけでなく、その構成にある。角川文庫版の解説では辻原登氏が「オイディプス王」を例に挙げて読み解いているが、要するにプロットがあまりに鮮烈かつクラシックな構成なのだ。
冒頭、ある新聞記事の抜粋といった形式から始まる。内容はこうだ。〝早朝に山の中腹で少女の遺体が発見された。少女の身元は中学生・海野藻屑、第一発見者は同級生の少女〟──そこから話は遡って一か月前、転校生海野藻屑が教室にやってくる場面から始まる。つまりこの話は、少女たちが出会って別れるまでの、長い人生で見ればほんの瞬きの間の物語にしか過ぎない。
それでも13歳から見た一ヶ月は、その時期にしてはあまりに鮮烈な体験は、脳裏に深く焼き付いて離れない。

初読の印象と、繰り返し読むことで印象が変わる本がこの世には数多に存在していて、この本も例のごとくそのうちのひとつである。正確に言うとたぶん、読む時の年齢によって印象が違う。こどもと大人が読むのでは、見える側面が変わってくる。
初読のころはどうしてもどこへも行けない(行けなかった)ふたりのことが忘れられなくて、しばらくぼんやりとしていたものだけれど、今読むとなんとなく、この作品に出てくる大人の象徴であるなぎさの担任の先生の台詞が響いてくる。

「ヒーローは必ず危機に間に合う。そういうふうになってる。だけどちがった。生徒が死ぬなんて」
「あぁ、海野。生き抜けば大人になれたのに……」
「だけどなぁ、海野。おまえには生き抜く気、あったのかよ……?」


この先生はついぞ、少女を助けることができなかった。
大人はなんにもたすけてくれない。私たちのことなんて、全くこれっぽっちも見えていない。そうやって思っていた。でも大人だって、むかしはこどもだったのだ。何もかもがあまりにも遅いし、今更だと思うけれど、大人とこどもの時間の進み方は残酷な程に違うものである。暴力も喪失も痛みもなにもなかったふりをしてつらっとある日大人になった人間には、それらを助けるには少し、世で生きていくための枷が重すぎる。


ぐびぐび、ぐびと、ミネラルウォーターを胃に落とす。空っぽの臓器の輪郭がわかって、それはわたしの皮一枚隔てた下にはグロテスクでリアルな臓器がおさまっていることを強く自覚させる。ぽこぽことおもちゃの銃を撃ち続けた藻屑の肚にも、これが収まっていた。どれだけかわいい存在でも、イヌもウサギもヒトも、結局そうなのだ。それらに皮をかけて、服を着せて、白粉を叩いてラッピングして、生き物は生きている。うすぼんやりとした絶望を抱えたまま。

そうやって生きていくのだ。わたしも、きっと。これから。

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