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独 獄

私が一人の人間として存在している内にこのメッセージを書き残して置くとしよう。
知名度や名声も何もないただ一人の私の声が誰かに届く事を祈ってだ。
別にこれは遺書なんかでは無い。
ただ一人の人間の心の叫びに過ぎない。
このメッセージが誰かに響けばそれでいいくらいの文ではあるが…。

日々日常を過ごす上で人々の残す混沌交じる声や街ゆく人々の笑い声や歩行者信号機の音或いは電車の音或いは自動車の行き交う音、これらの音が私にとっては時折雑音の様にも聞こえてしまう。
だから私はそれ等の雑音を遮断するかのように毎度毎度と街に出掛ける時はイヤホンを耳に掛けて出掛けるようにしている。
その方が案外楽だったりするのだ。
独り過ぎる私にとってはそれが唯一の救いだったりもしている。
何故なら、私にとって人々の笑い声やそれ等を取り巻く混沌交じる声や機械音は雑音となんの代わりもないくらいだからな。
イヤホンを耳に掛けて曲を聴く、それが唯一の命綱であったりもするのだ。
「みんなはあんなに楽しそうなのになんで私は…」なんて考えている暇もない。
寧ろ独り過ぎる私にとって他人を悔やむ等自殺行為に等しいくらいだ。
何故、私が孤独なのかは知る由もない。
単に与えられた罰だと思って日々日常を過ごしている。
「何の罰?」なんて聞かれても私でもよく分からないのが率直な感想でもある。
まあ私が何らかの犯罪や殺人を犯しているのなら、この罰を認める事はできるだろう。
しかし、私は何もしていない。
無罪ではなく、無実に等しい。
それにも関わらずこの様に日々は私を置き去りにしていく。
そんな運命を受け入れる事ができるだろうか。
私はもう10年以上もこの罰に耐えてきているのだから、本当に自分を褒めてあげたい程だ。

街に向かうのは新しい何かを見つける為でもある。

「死ぬほど熱中できる何かを見つけなければ…」

そんな思いが偶に頭を過ぎる事がよくある。
もう病気か何かなのかもしれないが、本当にそう思う時がある。

何故なら、私には固定している趣味がない。
「YouTubeのこれ面白いぞ」なんて出されても、他人が好き勝手に話すだけのしょうもない動画を5分間見ろと言われても嫌気しかない。
そもそもの話、私はそんなしょうもない動画に5分間を費やす暇なんてない。

今を生き抜く事で精一杯だ…。

私には何故か他人を想ってしまう謎の余計過ぎる感情がある。
この感情がある故、他人の痛みに感染してしまうと言う特徴を持っている。
それはその人が自分の過去と似ているからなのかもしれない、若しくは今の自分と照らし合わせているからなのかもしれない。
または寂し過ぎるあまりに他人を助ける事で自分に空いている穴を型の合わないパズルのピースで埋めたいなのかもしれない。

でもそれは逆効果だ……。

型の合わないパズルのピースで無理矢理その穴を埋め込めても外れるか、又は穴を拡大させてしまうかもしれないからやめた方がいい。

一体私は何故これ程にも孤独なのだろうか。
それを分かるものはそれを体験している私ですらも分からないのだ。
街に出掛けるとは言ったが、街に出掛けても単にゲームやら書店に向かうだけだ。

ゲームなんてしても一瞬の快感でしかないのにも関わらず本当におかしい話だよな…。
それにも関わらず、この世にはゲームだけで稼いでる人も居るのだから本当におかしいと思うよ。

街ゆく人の中に楽しそうにしている人を見ると、何だか自分はそこには存在せず、別のパラレルワールドからやってきた人の様にも見えてしまうのだ。
観測理論 なんて話も存在している。
シュレーディンガーの猫等そうだ。

シュレーディンガーの猫について簡単に説明すると、箱の中に猫を入れ時間が経過する事に中に毒ガスを充満させると言うものだ。
そして、箱を空けるまで猫は死んでいるのか、生きているのか分からない。
この時点で猫は半分死んで半分生きているという事になる。
観測されるまでその猫は死んでいる事にもなれば、生きているという事にもなる。

これは有名な量子力学の実験ではあるが、これと同じ事を私も経験している。

つまり、私の存在も誰かに観測されるまでこの猫と同じ様に死んでいるのか、生きているのかすら分からない状態になっているということだ。

友人か知り合いに観測されるまで私は死んでいるのであれば、生きているという事でもある。

私はシュレーディンガーの猫なのかもしれない。

この世に存在しているのであれば、常に死んでいるのかもしれない。

私がもし神様だったとしたらこんな腐れた世界はとっとと滅ぼしたい程だ。
あまりにも理不尽過ぎている。

実際私もこの受けている罰なのか何なのか分かりすらもしない呪縛を受け入れていない。
そもそもの話、私は何も罪など犯していない。
当然、そんな理不尽過ぎている運命等突然目の前に現れても受け入れられる訳がないだろ。

こっちは今を生き抜く事で精一杯にも関わらず、また次の様に次の様に日々はやってくる。
まるで自分を置き去りにして、今を楽しんでいる者たちだけを受け入れるかのようにだ。

そんな人生等受け入れられる訳がないだろ。
私の周りには色々と問題を起こしていたり、或いは犯罪、裏切りと言った行為を当たり前のようにしている奴らだっている。
何故、そんな奴ら等がただ単に生きているだけの私とは違い今を楽しんでいるのか?
私にはそれが理解できない。

「奴は何を努力した?」
「奴は一体何をした?」

そんな愚痴ばかりで頭が裂けそうにもなるくらいだ。
そもそもの話、遊んでばっかりな奴らだけ報われているのが腹が立って仕方ないのだ。
他人のあれやこれや痛みや傷口を切り刻んで叩きのめしている奴ら等が名声を獲得しているのだ。

この世界はあまりにも狂い過ぎてはいないか。

私なんかがこんな事言おうが、単なる社会不適合者の戯れ言なんて言われそうだが、あまりにもこの世界は狂い過ぎているぞ。

「努力は報われる」なんて有名な名言もあるが、ハッキリ言って戯れ言だろう。

何を根拠にして言っているのか。
私にはよく分からない。
何らかのエビデンスが存在するのであれば私はそれを肯定するだろうが、エビデンスではなく単に自分の経験がもたらした結果を得て解答した答えなのであるのならば、それは個人の見解に過ぎないのではないか。
それを恰も名言として言うのはあまりにもおかしい話ではある。

「ポジティブになれる名言集」なんてタイトルのサイトや動画だって存在するが、それは一種の宣伝効果に過ぎないし、それを見た所で自分が如何にポジティブになるか等知る由もないのではないか。

何もかも大袈裟なんだよ。

何もかも大袈裟だ。
まあこの文もある人には大袈裟に見えるだろう。
だが、これは私個人の見解を述べているのだから別に大袈裟だの、社会不適合者の迷言 なんて言われようともどうでもいいと思っている。

過去を幾ら振り返ろうが後悔ばかりしかしていないのだ。
過去を時には思い返すのも大事 なんて人もいるが、私にとって傷口に塩を塗るのに等しい。
私の後悔等他人にとってはどうでもいい事ではあるだろうが、後悔を掘り起こしては後悔なんて訳の分からない負の螺旋階段を下へ下へと降りていく行為に過ぎない。

ネガティブな事に浸ればそれは浸透してしまいやがては負の螺旋階段を下へ下へと降りていく事になる。

辛いことの後にはいい事がある

なんて腐る程聞いてきた言葉ではあるが、それは捉え方次第にもよるが、あながち間違ってはいないとすれば間違っているとも考えている。

私が大事な何かを失った時だってそうだった。
時間が解決してくれたのかもしれないが、、傷口はずっと空いたままだ。
今でも鮮明に覚えている。
悔し過ぎるあまりに雨の日にも関わらず、その日は外を飛び出していった。
恐らくその日はゲリラ豪雨の様なはげしい雨だった。
泣きながら雨の中を駆け抜けた。
服が濡れようとも、靴が濡れようとも、髪が濡れようともお構いなくだ。
何故その日はその様な行動を取ったのかも自分でもよく分からない。
ただ、「雨に打たれる事で何かを浄化できる」そう思っていたからだろう。

結局何も浄化される事はなかった。
仮に訪れたのは風邪と言う病魔に貪られる日々だ。
あれだけ心に傷を得たのに、さらに傷口を空けようと何かは私を飲み込もうとしてくる。
「私は死んでしまった方が楽なのかもしれない」そう思った日々も数え切れない程ある。

「死ぬのが一番の親不孝」

なんて言葉も存在するが、それを発するのなら私はその人にこう問いかけたい。
「だったら、あんたは私を助けてくれるのか?」と。
その時に私はこう思った。

「なんだ無責任な言葉を投げかけてくる時だけ人間ってすっごいポジティブになるんだな…」

これは事実だ。
だいたいの人は他人に「頼ってね」等言うが本当に頼って欲しい時にそれを言うと冷たい態度を取る。
まるで自分が前言っていた発言を前言撤回を通り越して忘却の彼方に忘れてきたかの様にだ。

人は誰だって無責任なんだよ

そう思っている私もいれば、そうとも思わない私だって存在している。
まるで自分が二重人格ではないのにも関わらず、無数の人格が存在しているかのようにだ。
本当は二重人格等存在しないのかもしれない。
仮に日々を塗り替える事に人の人格は切り替わっているのかもしれない。

正直に言うと成功者の声が一番自分は嫌いなのだ。
何故なら彼等は自分達が儲けようとしか思っていない、まるで詐欺師か何のような眼差しで私の様な独り過ぎる人間に取り憑いてくるからだ。
ハッキリ言うならば邪魔で邪魔で仕方ない。

だからあまり私はYouTubeなんかで実況動画なんか見たりはしない。
何故なら自分と照らし合わせてしまい、自分の違っている所を何も入っていないタンスの引き出しをひたすら何度も引き出す様に間違えを探してしまうからだ。
私にとってはその行動は毒みたいなものだ。
あまりにも危険すぎている。

「歌で成功しました!」
「ネットビジネスで成功しました!」
「ゲーム実況で成功しました!」
「恋人ができました!」
「入籍しました!」

ああ…そうかい…良かったな…

こんな事言っている自分は何かの病気なのかもしれないが、でも本当にそう思っている。
そもそも私にとって他人の幸福など邪魔で邪魔で邪魔で仕方ない。
自分がネガティブ過ぎるからなのかもしれないが、とにかく邪魔だ。

いや、本当に思うよ。
「あの、あいつって何かの努力したの?」
なんて思うよ。
だって不思議過ぎるんだよ色々と。
「あいつ遊んでばっかりだっただろ」って人に限って幸せを勝ち取っているからだ。

「あいつ他人の悪口やら人を叩いては正義ぶっていたな」って人に限って名声を勝ち取っていたりもしている。

なあおかしくないか?

独り過ぎる私なんかに罰等与えずに上記のような奴らに罰を与えてくれよ。
何故私なんだ…。

そろそろ独りも飽きてきた頃具合だ。
SNSに逃げ込んでも、要らない情報や他人の不要な情勢なんかでイライラしてしまうので、私は恐らくSNSには向いていない。

「SNSで勝ち取りたい」なんて目標も前にはあった。
だが、やってもやっても名声どころか何も伸びやしない。
私には「SNSで勝ち取る」なんて目標は今いる世界では達成できない目標なのかもしれない。
或いは自分がその目標を達成する人間として選ばれていないのかもしれない。
なんて考えてしまう日々も前よりかは多くなった様に見えてしまう。

別の界隈に入ってはやめて、入ってはやめての繰り返しだ。
今はともかく息をしているだけでも苦しいくらいだ。
身動きも中々取れずに息遣いすら困難でまるで現実と言う波に溺れている様な感覚にもある。

唯一の救いがパソコンから流れる自分の好きな曲だけだ。
この曲を聴いている時だけ自分はこの世に存在しているのかもしれない。
この曲が降霊術の様な役割をして死んだ自分の魂を呼び寄せているのかもしれない。
そんな感覚にだってなる。
でも私が聴いているこの曲も一人の人間が歌っている事に代わりはないのにも関わらず、何故か落ち着いてしまうから不思議な気持ちになってしまう。

なあこの世ってお金が全てなの?

何処へ行くにしても、逃げるにしても結局はコレばかりだ。
何かを得るにしろ、何かを欲しがるにしろ結局はコレが必要不可欠なのだ。

なんか 「働け」なんてよく言うが、結局はコレを得る為でしかないのかもしれない。
コレは貰えても幸せや人の温もり等貰えもしないから時給が幾ら高くても等価交換ではない。
それにも関わらず、私以外の人はせっせとそれに没頭するから不思議で不思議でたまらない。
まるで何かに取り憑かれたかの様に事を熟すから恐ろしいにも程がある。

結局何事も始めるにしろコイツだけは付き纏う。
そろそろ厄介なんだが…。
コレを手に入れた所で、人の温もりも、幸せも得る事ができるというのか?
これに確かな答えが存在するのなら、私は喜んでそれを歓迎するだろう。

私は犯罪等が殺人なんてものも起こした事がない。
それにも関わらず、何故ここまで孤独という呪縛を受けなければいけないのか。
この答えを見つけ出すまでに私はこの世に存在しているだろうか。
幸せと言う幻想を掴み取れているのだろうか。
或いは何かで成功し安定した生活が出来ているのか。

時は残酷に私の存在だけを一刻一刻と彫刻を作るように削っていく。

私はここに存在しているのだ。
それが誰かに響いたのならそれでいいさ。

今はこの様に文を書くことが唯一できる存在証明でもあるのだ。

私と同じ様に呪縛と言う罪に貪られている人にこのメッセージが届く事を願っている。

私はみんなが羨ましいよ。
こんな感情を持つ事が逆効果なのは分かっているがそう思ってしまう。

独獄と言う監獄に暮らす囚人である私から見れば、悔し過ぎる事もあれば羨ましくもある。

人の温もりも感じて、自分を思ってくれる人がいるのだからな。

普通に家で住人と暮らしていても孤独は感じるものなのだ。
おかしな話ではあるだろう。
人と住んでるのにも関わらず孤独を感じてしまうのだ。

イヤホンをして電車に乗っている時や街を歩いている時、周りからは 「あの人何してるんだろう」なんて心の中で問いかけられようともなんて事はない。
そもそも私はこの世界の臭いそのものが大嫌いに等しいからだ。

「今が幸せだと思え!」だのバカバカしいにも程がある。

それは私が戦争や争い、治安の悪さと言った環境下を体験した者でもないのにも関わらずこう投げかけるのには理由がある。
まあ、確かに戦争や争い、または治安の悪さそれ等を経験した人達にとって私のこの発言には我儘なんて感情を持つものもいるかもしれない。
だけど、私にとっては幸せとは思えない。
それは人の温もりが感じ取れないからなのか、又は何かが抜けているからなのか。

そもそもの話だ。

人は何かが抜けていれば幸せとは感じない生き物なんだよ

これは私だけの問題なのかもしれないが、一応共感してくれる人もいるかもしれない。
私は周りに「君は幸せ者だな」と言われようとも今ある私が属している環境が「本当に幸せなのか?」なんて考えてしまう。
まあ…私が裏切られてきたから周りに嫉妬しているだけなのかもしれないが。

本当に何故なんだよ。
「いや、あいつ何かしましたか?」って問いかけたくなる奴らに限って幸せと言うものを勝ち取っていやがる。

自分が欲しいものは誰かが必ず持っている

なら、その逆は?
自分の欲しいものは誰かが必ず持っているのか、ならその誰かの欲しいものは自分が持っているのか?
と問いかけたくなってしまう言葉だって存在しているのだから呆れたにも越したことない話だ。

なら私がうやましがるその誰かは私の持っている何かを欲しがっているのか?
単なる一般人だぞ。
調子こいた事言ってんじゃねえよ なんて言い返したくなってしまう。

そんな事言っても限がない問題には変わりはないのではあるが…。

本当にこの世界は狂い過ぎているな…。

本当に本当にこの世界は私にとって寂し過ぎるよ…色々と。

独獄と言う牢獄にいる私はこう呟いた。
この世界は自分にとってはあまりにも理不尽過ぎていて、狂い過ぎている。
それにも関わらず日々は塗り替えられていく。
まるで私を置き去りにして、今を楽しんでいるもの達だけを迎える様にだ。

だが、私もいつかはその明日へ生きたい。
この独獄から抜け出し、黎明を眺めてみたい。


独獄 〜完〜

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