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牛追い祭の町で腑に落ちる

 牛追いが行われる日の朝。真っ白いシャツと長ズボン、赤いスカーフを身につけ男たちが、緊張した様子でスタート地点となるサント・ドミンゴ通りに集まり、牛追いが無事に終わることを祈り、聖フェルミンに聖歌を捧げる。三度目の聖歌。彼らの緊張がピークに達し、その直後に放たれる花火を合図に、朝露に濡れた石畳の上を、十数頭の牛たち共に駆け抜けていく。

 聖人サン・フェルミンの記念日から一週間に渡ってパンプロナで開催されるスペイン三大祭に一つである牛追い祭り。へミングウェイの小説の舞台ともなったこの祭りは、12世紀に起源をもつ祭礼ながら、テレビの画面越しに見ていても、時おり、目を背けてしまうような危険を伴う行事でもある。

【バールが消えた!?】

 パンプロナ市内の探索がてら、さっそく、牛追いのルートとなっている道を順に辿って歩いてみる。初めて来た場所なのに懐かしい雰囲気があるのは、映像で何度も見ているからだけではない。

 しっとりと落ち着いた街並みは、その色合いも、人の吐息も、静寂も、空気までもが一体化しているようにシンと体に染み入ってくる。それは、温かで柔らかい心地良さではなく、程よい緊張感と孤独に包まれた一本のしなやかな芯のように力強い。

 そして同時に、この町にはバールが意外に少ないことに気付く。宿のおじさんに聞いたバール街は確かこの辺りなのだが、それらしき店どころか、看板も装飾も見当たらない。

 もしかすると、場所を間違ったのかもしれないと地図を見直してみる。やっぱり間違ってはいない。スペインに、バール街のない町なんてあるのだろうか。

 

 市街地から歩いて行ける距離に、フェリペ2世の時代にイタリア人軍事技師の手により建設された、五角形の形状をした大きな城壁に囲まれた公園がある。夕暮れ時までここで時間を潰して、もう一度、さっきの場所ヘ行ってみようかと歩いていると、カスティージョ広場の脇にあるレストランのショーウィンドウが目に入った。

 この場所の立地条件、店構えからして繁盛店のようなのに、それにしては情けない量の魚が数尾だけ、こちらに目を向けて並んでいる。

「今日は月曜日だからね、魚の数が少ないんだよ。」

 気配に気づいた店員が店の中から言い訳をするように教えてくれる。

 何てことだ。この国では、週末は漁船も沖に出ないので、月曜日には新鮮な魚が手に入らないのだ。つまり、鮮魚を扱う店の中には、月曜日を休業日とするレストランも多い。日本だと美容院が締まる月曜日に、スペインは魚屋が締まってしまうなんて、想像もしなかった。

 七分の一の確率で月曜日に当たってしまうのだから大したことはない。

 そう思うようにしても、旅行中の大切な一日のスケジュールが崩れてしまったわけだ。的が外れて一気に疲れが襲ってきた。今日はまだ、一軒も良さげな店に出会えていない。何だか、痛くもなかった足まで痛くなってきた。脳と言うのは凄い。散歩の予定を変更し、素直に宿に戻って休憩することにした。

 

 ***

 

 陽がオレンジ色の輝き引き連れて水平線の下へ姿を消した頃、もう一度、さっきのバール街に戻ってみることにした。
 
 すると、どうだろう。昼間は見つからなかったはずのバールが出現しているのだ。

 バールがないと感じたのは、どうやら閉まっていただけのようで、まさかこんなところにと思わせるような、間口2メートル程しかない小さな門構えが実はバールだったりした。牛追いの時に障害になったり、破損されたりしないように、間口には補強用の板や柵などが取り付けられていたのだった。

 格子模様の石畳の細長い道の両脇に立ち並ぶ奥行きの深いバールが、夜更けと共に次々と浮かび上がり輝きを増していく。路上にはテーブルとして古いワイン樽が陣取り、独特の雰囲気を演出し、昼間の街とは全く別の街が息づき始めている。

 

 天井からは何本もの生ハムが吊り下げられた、ひときわ賑わいを見せているバールに潜り込む。カウンターの隅で、頬と鼻先、額と顎を赤くしたおじさんが、《パチャラン》のグラスを手にして微睡んでいる。

 ≪パチャラン≫というのは、エンドリナと呼ばれている野生のスピノサスモモの実から造るアニス酒ベースにした果実酒のこと。果実は青黒いのに液体は透明感のある赤褐色で、アルコール度は25%vol.と強め。腸整作用があり、新陳代謝促進や疲労回復にも効果があることから、本来は食後酒として飲まれていたものだという。

 昼間、見つけられなかったのが噓のように、活気づく店内。炭火で香りよく焼かれた名物の細身の腸詰め《チストラ》が、バゲットパンにゴロンと乗っかっている。豚肉が主材料で、火を通すことで溶け出た脂身とパプリカと肉の旨味がそのまんまソースになって、白いパン生地を真っ赤に染め広がっている。

 こういう料理は、上に乗っかった具を落とさないように食べるのが案外難しくて、食べやすいように切り分けたりしないでバクッと被り付く。ただ、勢いをつけすぎて、口の脇を切ってしまったことがあるので要注意。

 

 次に何を頼もうかと見渡すと、《アホ・アリエロ》がある。この店では、細かくほぐした鱈の身と、トマト、ジャガイモ、玉ねぎ、ピーマン等と共に煮込んである。確か、ラ・マンチャ地方で食べたのは鱈とトマトだった。

 さらに、一口大の肉を白ワインでマリネしてから、にんにく、玉葱、トマトと煮込んだ後、卵でコクをつける羊肉料理≪コチフリート・デ・コルデロ≫は、カラリと揚げた羊肉を野菜と一緒にコトコト煮込み、さらに、レモン汁や酢でサッパリ感を添えるというものに成り代わっていた。

 同じ名前の異なる料理。なぜ、そういう作り方をするのか、どちらの方が正しいのかを聞いても戻ってくる答えは想像がつく。その地でずっと引き継がれ、子どもの頃から母の味、家庭の味として慣れ親しんだ味が正しい。それを、自分の「正しい」と誰かの「正しい」を比較して無理矢理一つの「正しい」を選び出そうとすることこそ間違っている。

 そう、「うどん」と同じかもしれない。関東風と関西風、それぞれの人が生まれ育った場所のうどんが「うどん」であるし、どちらかの場所に移って、別の「うどん」が自分の「うどん」になってもいい。ただ、大事なのは、そこに自分がいるのかどうか。

 料理のことに限らず、自分の「正しい」を信じる力というのは、自分が受け取ったものを信じ、その自分自身を受け入れることでもあり、生きる力にも通じている。スペインの各地方の多様性が今まで守り抜かれ、個々の独創的な文化を維持してきたのも、彼らのそういった生きる力があったからこそだと思う。

 

【牛を食うのか食われるのか】

 店内の壁に、牛追い祭りの写真がいくつも飾ってある。写真の中で、店のオーナーらしき人物が、白と赤のお決まりの服装で、十数人の仲間と一緒に笑っている。全員のウォォ~!と叫ぶ声が聞こえる活きた写真。

「ずっと一緒の仲間だよ。兄弟だよ」 

 写真の頃よりも皺が増え、前後左右に拡大されたオーナーが懐かしそうに言った。
 前年度の祭りが終わると同時に翌年の祭りに向けて走り込み、体調を整える。走る距離は約800メートル。一回の牛追いは、早ければ3分程度で終了してしまう。しかし、一回一回の牛追いが、彼らにとっては神聖で命がけの一瞬なのだ。

 祭りの期間中、父、祖父よりもっと前の代からの伝統を受け継ぎ、例年欠かさす祭に参加している男性たちが、牛追い祭の古参者として、テレビ中継のゲストとしてインタビューを受けることがある。

 牛と共に走るにあたって、一番大切なことは何かという質問に、彼らは口を添えていう。

「リスペクトです」

 彼らは牛に手を触れることは決してしない。牛たちの角にぶら下がって走ることなど論外だ。牛との的確な距離をキープしたまま共に走る。キリスト教の侵入以前に存在したケルト・イベロ族には雄牛信仰の風習があり、その名残であるともいわれている。

 牛の鈴音、石畳を蹴る蹄の音、走る彼らの息遣い、観衆の声が一つになる。大きなうねりが身体の中を波打つ。それは、命がけのスリルを味わうとか、運試しによるアドレナリン放出とは全く異なる。

 祭りは、牛を追って走るだけではない。朝露の残る街角では、身体の芯まで温めるスープが用意され、牛追いの後には、トロ(雄牛)の肉をワインで煮込んだ料理《エストファード・デ・カルネ・デ・トロ》を味わう。

 力強い雄牛の肉が、じっくりと煮込まれてホロリと口の中で崩れる。複雑で滋味深いソースを纏った肉片が、胃の一番底あたりにあるブラックホールヘと消えていく。「美味しい」とか簡単に表現してはいけない味わいがそこにある。

 腑に落ちる。

「腑」の中に吸収されていったものに名前なんてない。敢えて言うのであれば、高度の技術を用いても人工的に作り出すことなどできない栄養なのだと思う。

***

 翌朝、町の小さな肉屋に立ち寄ってチーズを買った。この国では、ワイン同様にチーズもまた原産地呼称制度によって統制されていて、1981年にスペインで一番初めにDO指定受けたのが、ピレネー山麓のナバラ側に位置する村ロンカルで昔ながらの伝統的手法で造られている羊乳のチーズ。

 このチーズと《パンプロネス》と呼ばれるチョリソを店で数枚ずつスライスしてもらう。焼きたてのパンに、濃厚で個性的なチーズとパプリカ、にんにくの味がよく効いたチョリソをたっぷり挟み込んだボカディージョを小脇に抱え、いよいよバスク地方へ向かうバスに乗り込む。

 折り畳み式のドアが、待ち構えていたかのように、シュッと勢いよく締まった。

≪次の到着地 ⇒ サンタンデール≫


日本でも、ほとんどの場合、行事にちなんだ食べ物があるものです。

それがいつの間にか、当たり前になってしまって、その食べ物がないと何か物足りない気がするし、食べ物だけあっても、中途半端な気分になります。

それだけ、行事と食べ物は密接に人々の暮らしのなかに溶け込んでいるのですね。

そこで、次回のSpacesのお題は『切っても切れない行事と食べ物について』です。

お題の回答はいつものようにコメント欄、もしくはTwitterで、 #食べて生きる人たち のハッシュタグをつけて投稿してくださいね。

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連載開始期間として、現在、無料配信となっています。そろそろ、日本でもよく知られているバスク地方に到着します。読み逃しのないように、マガジンフォローお願いします。



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