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世界の片隅で見つけた美味しい月

ずっと月を眺めている。

今、自分が見ている月は数時間前には地球上の別の場所にいて、そして数時間後には別の場所に、満ちたり欠けたりしながら姿を現す。

北半球と南半球で三日月の欠け方が違うことを今まで気づかなかったなんて言ったら笑われるだろうか。

それぞれが見上げる月の下では、全く異なる時空の『今』が流れている。月を眺めている『今』は自分の今日であり、誰かの昨日であり、さらに誰かの明日でもある。

人は月を通して自分の中を覗く。そして、どこかに置き忘れていたものをふと思い出す。

人は月に問いかける。まるで、自分の中に住む誰かに問いかけるように返事のない静かな問答をする。

人は月に向かって願う。それは、太陽のように燃える懇願ではなく、心の中にある小さな声。

そうやって、昨日のどこかで誰かが眺めた月を、今、自分が眺めている。

誰かが言った。学校を卒業後、友人のそれぞれがバラバラの道に進んだけれど、お互いに(元気かな?)(元気だよ!)を思う日として月を見る日を決めたのだと。

それぞれが自分の場所で月を眺める。月は地球上のどの地であっても穏やかに平等に人を見守っている。

人は月と繋がり、月は人と人を繋げている。



☆☆☆

日本:

『いつもそこにあるお月見だんごと月』 ルミ

慣れない子育て、仕事、家事を両立しながら必死だった頃の、無邪気な子どもの笑顔を思い出す。あれは初めて月と追っかけっこをした日。そして、子どもがすっかり大きくなった今、昔と同じように静かに変わりなく見守ってくれるのは月だったのだと気付く。成長した子どもと月見団子を作りながら過去を振り返る。

『月が綺麗な夜もあった』 姥桜きのこ

思春期の思い出は、まるで真っ白いラムネ菓子のように甘酸っぱい。夜道を歩く中学生の二人を静かに見守り、不器用で成績優秀なヤマザキくんが「月が綺麗だよ」って言えるように背中をそっと押してくれたのも満月だったのかもしれない。芽生える前の恋みたいにラムネ菓子がシュワッと溶けていった。

『欠ける、満ちる、食べる』 七屋 糸

結婚前に彼に作ってあげた味、彼をもっと喜ばせようと真似た義母の味。そして、今、再び彼のために作る味。出来具合なんかに関係なく、それぞれの思い出の味、深く心に刻まれた味こそが美味しい記憶となる。月のように黄色く丸い茶わん蒸し。いろんな思い出で味付けて、自分の味を育てていく。

『祖母と見た月を今でも覚えている』 長谷川 晃子

祖母から伝えられた日本の伝統的なお月見。「祭り事」は「祀り事」であるのを忘れてしまった形式だけのお月見ではなく、たとえ形は変わっても本来の伝統の根っこを大切に伝えていく必要があると思う。秋の実りに感謝し、次の豊作を願って月を愛でるという意義を置き去りにしてしまわないように。

『横浜でも食べる、関西の月見団子』 わたなべますみ

行事に伴う食の歳時記は、各地方、各家庭によってアレンジされて、それぞれの記憶の中の「行事の味」として次の世代に受け継がれていく。大人になった今、自分の手で作ってみる月見団子の味は、子どもの頃に食べた味と全く同じではない。けれど、あの頃の味の記憶は昨日の事のように鮮明に蘇ってくる。

『寝転んでみる月』 やま

人々の生活環境が変わっても、月は三日月、半月の月、満月と形を変えながらいつも変わらずそこにいる。まるで「変化しても大丈夫だよ」と言っているかのように。子育てを通して子どもから学ぶことは親が子どもに教えること以上に多い。彼らにとって月は絵本の中の物語で抱くイメージそのもの。甘かったり、しょっぱかったり、フワフワだったり。でも、きっとその全部が正解。

『月が追い掛けてきて』 百葉

月を想像させる食材として間違いなく上位にランキングされるのが玉子だろう。確かに、太陽のように強い光を放つのではないけれど、必ずそこにあるのが当たり前で、ないと不安に感じさせる存在感のある月は、何はなくともとりあえずキッチンに欠かせない玉子と似ているのかもしれない。

『石の月を食べる』 ふみぐら社

太陽に語り掛けることはないのに月には語り掛けたくなってしまうから不思議だ。月が返事をしてくれるでもなく、自分がたたじっと見つめているだけなのだけど、いつの間にか会話のない月との対話は進んでいく。月に向かって石ころを投げたのは嘘じゃない。月からもらった石を食べたのだってきっと嘘じゃない。

『月のない夜に』 仲 高宏

子どもは絵本の中に入り込んでしまう。そして、一緒にいる親もまた入り込んでしまう。だから「パパ、お月さまとって」という時はかなり本気だ。「よし、パパ頑張ってみるよ」と一緒にお月さまを超ロング柄杓で取りに行く。そうやって手に入れてくれた月はずっと心の中にある。きっとミカンを食べる度に思い出す。

『甘く切ないその月を手放したあの日』 あらしろひなこ

月が思い出させる過去は甘く楽しいものばかりじゃない。時として、思い出すのも辛い出来事であったり、切ない思い出であったりもする。丸い月になるはずだったあの時の甘いお菓子。手放した半分の月の甘さは薄れていくけれど、あの時の切なさは、きっとずっと消えない。 月のように……。

『月と氷と三角関数』 こげちゃ丸

子どもの頃の父親の言葉が急にふと浮かび上がる。父親が話してくれた月の話。その昔、父親が語ってくれた言葉が、 大人になった今、ようやく手の中でゆっくりと氷と共にとけていく……。月見酒を用意して 月を愛でる。グラスの中の丸い月がカランと回った気がした。

『お月見と中秋節』 秋

お隣中国の中秋節。日本では中秋節に月見団子、中国では月餅というのが一般的なイメージだけれど、実際にはもっと細かい違いがあるのかもしれない。文中の中秋節と書かれた大きなお菓子はどんなだろう。隣国であって風習の異なるお月見の祝い方。それぞれの国でそれぞれの方法でたった一つの月を愛でる。

『なっちゃんの三日月クッキー』 mapache

「ママが早く帰ってきてくれるように」という願いを込めた三日月型の手作りクッキー。寂しい気持ちを抑えながら自分のために頑張る母にクッキーを作る小さな女の子に月が見方をしてくれたに違いない。きっと少し歪でゴツゴツで、最高に美味しいクッキーだったはず。


アメリカ:

『欠けた月、満ちた月』 ことふり

海外生活の中では、お月見のようにその土地に存在しない日本の行事は知らないうちに過ぎていくことが多い。それなのに、ふいに月を思って懐かしくなることがある。そのきっかけは食べ物であったり料理であったり。そんな時、急に時空を飛び越して、たとえ真似事でもお月見をしてみたいと思ってしまう。


ニュージーランド:

『同じ月をみている』 サトウ カエデ

地球上の反対側で見える三日月は欠け方が異なる。まるで別物のように形は違ってはいても、月はあの時の思い出のようにたった一つしかない。曖昧で確かな温度を保ちながらいつもそこに息づいている。重い気持ちを洗い流すはずだった苦みのあるビールが三日月の光のように穏やかに尖った心を優しく濯いでく。


ドイツ:

『満月のマフィン』 まゆみ@ドイツでウェルネス

そわそわと落ち着かない満月の夜には、マフィンを作ってとっておきの甘い物で自分を満たす。理屈や科学で証明できないものを信じることを正当化する必要はないし、信じられないことを否定することもない。ただ自分自身に耳を傾け、感じられる事、思った事に対して素直でありたいと思う。


タイ:

『タイの食堂から見える月光』 アセアンそよかぜ

満月の夜の、タイのローカルレストランを舞台にした小説。汗ばんだ活気のある屋台で登場するダイナミックな地元料理の数々が彩る別世界での一夜。一年経った今、場所も異なり、あの時のように氷の入ったビールも飛び切り辛い料理もないけれど、満月は変わらず頭上に輝いている。

香港:

『月のないお月見と、塩気のない月餅』 マリナ油森

月を愛でる行事だった「お月見」の行事と、中秋節の贈り物として人々に親しまれてきた香港の「月餅」。共に、一点に留まることのない歴史の流れの中で、各国の文化習慣、味覚が取り入れられ、また、取り除かれて進化してきた。旧から新へと移り変わっても尚、人々の素直な心や月を愛でる気持ちは変わることなくあってほしい。


ブラジル:

『不吉な満月の晩と甘いお菓子』 Kikko_yy

ブラジル・サンパウロで月を愛でる。世界にはお月見文化のない国というのは多い。月で餅つきをしているはずのウサギはおらず、満月から想像されるのは不気味な狼男や不思議な力を持つ人魚だったりと必ずしも明るいイメージではない。だからといって月を愛でる気持ちには変わりはない。街角に並ぶ月の名をした可愛らしいお菓子は白く真ん丸でまさに月のよう。


ウズベキスタン:

『夜空の月、それはサマルカンドのナンのようで』 み・カミーノ

家族同然に暮らした留学生を慕って訪れたウズベキスタン。そのエキゾチックで美しい国でオレンジ色のサマルカンドの月に出会う。この国のこの場所でしか作れない艶やかで大きなナンを手でちぎって食べる。それは、月で繋がった人たちが、月をリスペクトし、大切な人たちと共に月の欠片を分かち合うことを意味する。


バリ:

『闇を照らす月を食べた』 湖嶋イテラ

南国バリの地で未来を誓う若い二人を照らす幻想的な月に引き込まれる。夜にしか売られない「明るい月」という名の食べ物。そして、国を超え、人種を超え、 宗教を超え、唯一無二の存在である月を信じて月と共に生きる島の人たちからの祝福。月夜の下で月の欠片を食べる時、人は月の一部となるのかもしれない。


シンガポール:

『星洲より月を望む』:月餅ラプソディー Nomad

季節のお菓子として親しい人たちに贈るという香港の月餅文化。別々の歴史を辿り独自の文化を築いてきた共にイギリスの植民地だった島シンガポール星洲(星の島)と香港(香る港)。二つの場所での月餅文化は明らかに異なり、どちらが良いとか比較するものではない。「落地生根」という言葉が深く心に染み入る。


イギリス:

『月とザンザレリ』 LUNA.N.

月が思い出させてくれるのは、今、自分が生きている過去だけではない。遠い昔の記憶にも語り掛ける。目を閉じて思い浮かべる中世イギリスでの物語。自分の心の中にある蟠りや偏った考え方を、多面的に考え直すきっかけをくれるのも月の仕業なのかもしれない。細い記憶の糸を手繰ってたどりついた黄色いスープは月のように優しく体を温めたのだと思う。


スペイン:

『月の雫が私の中に溶ける夜』 塩梅かもめ

月の主張はあくまでも優しく、その力は自然を動かすほど強い。遥か昔から人々の暮らしを支え導いているのを気づかないまま生きている。人々は月に問い、月に願う。月に忠実に自然の声を聞きながら育てられたブドウから醸造されたワイン。まさに月の雫。グラスに映る月の雫を心いくまで慈しむ。月の雫を取り込んで月と一体となる。


☆☆☆


この企画を始めてから、以前にも増して月の存在を身近に感じている。

企画に参加してくださった各国に点在する方同士が各自のコメント欄で繋がり、月を通して「ご近所さんですね」と親しみ合う。唯一無二の月を通して国を超えて繋がる。

月をテーマにした食を語るうち、別国間での相違点を見つけ、歴史を辿る。遥か遠い昔には、大陸も国も島も関係なく、だれもが人類だったのだと思い出す。

月が自分の過去を振り返らせる。時空を超越した自分たちの過去を見つめ直す。そして、その過去が今に通じ、明日に通じることに改めて気付く。

月が昨日から今日、今日から明日への自分を見守っている。


それぞれが生きるそれぞれの場所で、宇宙でたった一つの月を愛でる。

こんなにも恩恵を受けている月に私たちにできることは、そんな小さなことだけかもしれない。





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こちらの記事は「月」と「食」をテーマにした『世界の美味しい月』という企画に国内外在住のnoterから集められた記事をまとめたものです。

世界の片隅で見るそれぞれの月が一つであるように、これらの記事すべてを一つのものとして、『新しいお月見』コンテストへ参加します。

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『世界の美味しい月』マガジン



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