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「生まれてこの方つらかった」|虐待、愛着、複雑性PTSDが取り落としてきたもの

 ああ、まただ。また「人はみなトラウマ云々」系の人だ。ちょっと期待してたんだけど、結局この人もこういうこと言っちゃうんだな。

 先日もそういう体験をしてきた。愛着、最近はattachment(アタッチメント)と原語表記されることも増えてきたこの概念を取り上げる議論には、いつも失望ばかりさせられてきた。つい先日も私淑している人から「人はみな云々」系のタームが飛び出してきたので、年度始まりだというのにすでに憂うつな気分になる。

 わたしは愛着理論を精神科医の高橋和巳(敬称略、以下同)から学んだ。高橋のUniqueなところは、被虐者という特異的なこころのあり方に「脳機能障害の母親〈役割〉×正常知能の子」という厳密な前提を置いた点にある。彼はアカデミックな文脈で持論を披露していないし、そもそも上記のような議論が社会的(倫理道徳的)に存立するとは考えていない。だからアカデミアで参照されることもないし、心理統計など科学としての要件も具備していない。したがって、科学の徒を自認する人たちの目に触れることはない。
 わたしにとっての高橋の理論は、様々な変形技法や類推適用などの膨大なオプションが必要なものの、コアコンセプト自体は未だに有効だと思っている。ただ、あまりに科学的な議論の潮流から離れているので、棲む水の違いというか、わかりあえないな、と思うこともまた限りなく絶え間なく、ということにもなるのだ。

 そういうわたしに言わせれば、「人はみな云々」という言説は人間が線形な存在であるという妄想を建前にして、その言説が積み上げてきた、或いは積み上げようとしている果実を帳消しに、或いは収奪する最悪の試みである。まぁ、複雑性PTSDについて言えば、提唱者であるハーマンが『心的外傷と回復』を愛する母に捧げた時点で、最初からこうなる運命にあったのかもしれない。
 彼女は急性ストレス反応―単純性PTSD―複雑性PTSDをスペクトル(現代風に言えばスペクトラム)だと言う。症状だけ見ればそうかもしれない。しかし、病因についてはそこに非線形な体験がごちゃまぜにされている。一度は出来上がった基本的信頼が破壊される場合と、基本的信頼が最初からなかった場合とは本質的には異なる。彼女はそうは考えなかったようだが、彼らには裏切る神も破壊される他者や地域社会との心理的紐帯も最初から存在しないから、もともと持っていなかったものを奪い返すこともできないし、元に戻るという意味での回復はない。そういう人たちは自分たちのこころのあり方を指し示す言葉としての複雑性PTSDに多かれ少なかれ期待を抱いたかもしれないが、実はあの言葉は生まれ落ちたその瞬間から、すでに半歩ずれていたのだ。そして今に至るまで、そのずれは大きくなるばかりと言わざるを得ない。彼らの絶望的なわかられなさはまたしても再演されている。
 なぜそんなことが起こるのだろう。なぜ、語り得ぬものを徒に語りたがる人たちがこんなにも絶えないのだろう。なぜ「人間は線形な存在である」という妄想に付き合わされないといけないのだろう。

 それは結局のところわたしたちが「わかりあえないから」ではないかと、わたしは思う。臨床家を含む大多数の人たちは、生まれてこの方基本的信頼を獲得したことがない、ということがどんなことか理解できない。その恐怖、不安は「調和的相互浸透的渾然体」(バリント)の中で丁寧に刈り込まれていく。高じて異常事態に置かれた人が刈り込まれた外側の世界に飛び出すことはあるけれど、彼らには元々の信頼も帰る場所もあるにはあるのだ。

 往時の臨床家の中にも基本的信頼を持たない人たちはいたらしく、彼らはその特異的なこころに肉薄したと思わせる筆致がある。けれど、それは妄想だということになるか、丁寧に埋葬されてその上に巨大な墓標が築かれた。出生外傷を始めとしたそれらの理論の足元には、提唱者たちの「生まれてこの方つらかった」という生々しい恐怖、不安、そして孤独が埋まっている。彼らはおそらくはその思いをそっとしまい込むことにして、パンドラの匣に入れたままあっちに持っていくことにしたのだろうと解釈すると、彼らの理論への見方は一変する。彼らの活動は「わかりあえないものをわかりあえる(かの)ように、わかりあっている人たちの土俵で書く」というほとんど絶望的な試みなのだ。それは悲しくて儚い、祈りのようなものだ。かように、実は彼らが何を言ったかと同じくらい、彼らがどういう心理的なポジションに立っていたかということが決定的に重要なのだ。
 しかし、愛され健康boys&girlsが先達の思いを埋めたその上に建つ墓標そのものを崇拝し始めたときに、極言すれば理論構築がピアなものでなくなったその瞬間に、理論は終わったのだ。

 複雑性PTSDの概念は集団的自衛権の行使には役立つかもしれない。それが自分たちを説明する言葉としては半歩ずれていることを弁えている臨床家との出会いを促すかもしれない。孤独なこころの仮の宿りにはなるかもしれない。しかしそれ以上に、運命論を求め彷徨う者、党派的政治的学問的覇権争いと知ったかぶりの専門家、そして結局はわかりあえなかったという経験をもたらす可能性の方がずっと高い。適応した生存者は往々にして「知ったかぶりの専門家」よりも厳しいのに、彼らとわかり合うことにはほとんど役に立たない。また、おそらくは、知ったかぶりをしないままいてくれる他者との出会いにはほとんど影響しない。
 理論としての虐待、愛着、そして複雑性PTSDは今後も希薄化し、対象を霧散させていくだろうと思うので、たぶん託された期待には沿えない、ということしかわたしには言えない。それはとても、申し訳ない話だけれど…


 
 

 

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