私はなぜミュウツーの逆襲を名作だと思うのか?
2018年7月12日、20年前に上映された映画「ミュウツーの逆襲」がリメイク版として再び蘇り、映画館で公開上映された。ポケモン好きの私としては、勿論この機会を見逃す訳もなく映画館まで足を運び見にいった訳だが、上映中、あまりの懐かしさに思わず涙が込み上げてきた。
私がこの映画を初めて見たのは確か6歳ぐらいの時だったと思う。そして、当時この映画を見た時「ミュウツーは強くてかっこいい!!」ぐらいの印象しか持たなかった。しかし、今回改めて映画のリメイクを見直した時、幼少期の頃に見た時とは違う感情が芽生え、そのあまりに奥深いテーマに感化されている自分がいる事に気づいた。そこで今回、「私はなぜミュウツーの逆襲を名作だと思うのか?」というタイトルのもと、この映画の魅力をご紹介していきたいと思う。
まず初めに、”ミュウツーの逆襲”のあらすじを簡単にご紹介しよう。
ミュウツーとは、幻のポケモン”ミュウ”の遺伝子をもとにして造られたポケモンである。”ミュウ”はあらゆる技を使いこなし、姿も自在に変えられることからポケモン界トップレベルの強さを誇る。そんな潜在能力に目をつけた研究者たちがいた。彼らは、ただ”最強のポケモンを生み出したい”という無邪気で無責任な思いから、ミュウの遺伝子をベースにある生命を生み出した。それが、”ミュウツー”である。
ミュウツーは生まれてすぐ、サカキ(反社会的組織ロケット団のボス)と行動を共にする。もともとミュウツーは、「なぜミュウのコピーである自分が生まれてきたのか…。」と、その意味をつかめないでいた。”最強”のポケモンとして、ただひたすらに戦っていれば、自分が何者であるのかを理解できると思ったのである。しかし、人間が自分の強さを好き勝手に利用することで、次第に自身の尊厳を傷つけられ、自分の存在意義についてより一層苦悩を極める事になる。そしてついに、ミュウツーはアジトを抜け出して、コピーである自分を勝手に生み出した人間と彼らと行動を共にするポケモンたちに、”復讐”を試みるのである。
具体的にミュウツーが行ったことは、あらゆるポケモンのクローンを生み出すことだった。自分の作り上げたクローンがオリジナルのポケモンを打ち負かすことで、”強さ”を持ってクローンの優位性を示すとともに、オリジナルの存在を否定しようとしたのである。オリジナルとクローンは自己の存在証明をかけて戦いを始め、最終的に泥沼の死闘に突入する。しかし、この惨状に心を痛め、止めにでた人間が現れた。主人公・サトシである。ミュウとミュウツーの激突に身を投じ、死を賭して終戦の願いを訴えたのである。クローンもオリジナルも、ポケモンも人間も関係なく、ノーサイドで生命のぶつかりあいを一身に引き受けたサトシ少年の行動を目の当たりにしたミュウツーは、”生きている実体”としてコピーにもオリジナルにも真偽はなく、”本物”を証明することの無意味さを悟るのである。その後、ミュウツーはコピーポケモンと共にその場を去り、どこかの孤島で彼らと静かに暮らすことになる。
以上が本作の概要であるが、ここからは、私の注目するポイントを挙げていきたい。
まず一つ目として、この映画はミュウツーが人間のエゴによって生まれたポケモンである事である。遺伝子操作による問題は、今でこそ世界中で大きく取り上げられている。最近で言えば、2018年の11月に中国でゲノム編集をした双子の赤ちゃんが誕生し大きな話題となった話が記憶に新しい。しかし、映画が上映された1998年当初、どれだけ多くの人たちが遺伝子操作による問題がここまで現実的なものになると予想していただろうか。1996年に世界初のクローン羊・ドリーちゃんが誕生し世間を騒がしていたとは言え、”意志”を持つ生物にまで科学技術が応用され、その存在をテーマに掲げたこの作品は、まさに時代を先駆けていたと言えるのではないだろうか。しかも、それが児童向けアニメの劇場版第一作目で扱われたのである。
二つ目は、遺伝子ポケモンとして生まれたミュウツーの葛藤である。あらすじでも紹介したように、ミュウツーはミュウの遺伝子を組み換えて造られたポケモンである。その為、親もいなければ子供だった頃の記憶もない。そして、誰からの愛も受ける事なく育ってきた。では、ミュウツーのアイデンティティを保証してくれるものとは一体何なのだろうか。
私は誰だ。此処は何処だ。
誰が生めと頼んだ!誰が造ってくれと願った!
私は私を生んだ全てを恨む。
だからこれは、攻撃でもなく宣戦布告でもなく、私を生みだしたお前たちへの・・・逆襲だ!
作中の中で、ミュウツーはクローンポケモンを作り出し、オリジナルのポケモンとバトルをさせる。そして、遺伝子操作により強化されたクローンポケモンがオリジナルのポケモンを圧倒していく。これは、ミュウツーが自身の強さにしか存在価値を見出せず、オリジナルの価値を否定する事で、自身のアイデンティティを保つ唯一の手段として現実に抗った結果なのだろう。一方でオリジナルは、戦わずとも、もともとオンリーワンとして自分の対極に位置する傲慢な存在としてミュウツーには映っていた。ミュウツーの過剰な活動からは、ミュウツーの意識の奥にあるコピーポケモンとしての底知れぬ苦悩の大きさを見出すことができる。そして、だれよりも強く、苦しく、こう叫び、行動しなければ、ミュウツーは一つの独立した精神をもつ実体として存在できなかったのだ。
ミュウ、世界で一番珍しいと言われるポケモン。
確かに私はお前から作られた。
しかし強いのはこの私だ。本物はこの私だ!生き残るのは私だけだ!
最後に、本作品に散りばめられた台詞を振り返ることでエッセイのまとめとしたい。これまで見て来たように、ミュウツーの逆襲は、クローンとして生み出されたポケモン・ミュウツーの葛藤を描いた物語だ。その為、そんなミュウツーの葛藤から生み出されたストーリーは、人間の傲慢さ、生きる意味について数々の名言・問いとなって鑑賞している者の胸に深く突き刺さる。
・この世で別の命を作り出せるのは、神と人間だけだ
(フジ博士)
・本物は本物だ。技など使わずに体と体でぶつかれば、本物はコピーに負けない。(幻のポケモン・ミュウ(ニャース翻訳))
・なんなの、この戦い。本物だってコピーだって、今は生きている。
(ポケモンセンター・ジョーイ)
・生き物は、体が痛い時以外は涙を流さないって。悲しみで涙を流すのは、人間だけだって。(アイツー(完全版で登場))
「みんな、どこへ行くの?」
「我々は生まれた、生きている、生き続ける、この世界のどこかで。」
(サトシ・ミュウツー)
以上、ミュウツーの逆襲の見所を紹介してきた。
他にも、クローンを扱った作品(ジュラシックパーク、私を離さないで、など)といった作品は数々発表されている。そうした作品に勝るとも劣らない内容をもって、幾重にも絡む生命の問題に切り込んだ作品が”ミュウツーの逆襲”である。ゆえに、私は本作品を愛するのである。もしこちらのエッセイを読んで少しでも興味が湧いた方には、是非一度この映画をお楽しみいただきたい。
※ 追記
ミュウツーの逆襲名言紹介で、下記のフレーズを名言だと思う理由について友人がコメントを寄せてくれました。よろしければこちらも是非ご覧下さい!
「みんな、どこへ行くの?」
「我々は生まれた、生きている、生き続ける、この世界のどこかで。」
(サトシ・ミュウツー)
コメント
あえて言えば、コピーだとか、逆襲だとか他人から押し付けられた事情を乗り越えて、自分の生と自分の責任で向き合う覚悟を感じる言葉だからかな。
誰しも望む望まずに関わらず生まれてきて、それぞれに逃れられない境遇があるわけだけど、それを嘆くでも否定するでもなく、命があるという事実をそのまま受け入れて(肯定するわけではない) 歩んでいこうとする言葉に、心の強さを感じた。
自分の不運、不遇、憎しみは生きる上でわかりやすい軸ではあるんだけど、その大元を取り除いたり、諦めてしまったら何も残らない。かといって、取り除かなければ一生もがくだけの人生で、どこまで生きていったって空っぽな自分が続くだけ。
ミュウツーも始めは自分vs他者いう構図を自分の中に明確に作り上げることで、生きている実感を強烈に燃え上がらせた。でも、出口もわからない真っ暗な暗闇の中を不安に煽られてただ闇雲に走り回るのと似た感覚だったかもしれない。闘い続けても復讐者以外の何者にもなれないこと、復讐対象という寄る方をなくした時に何も残らないことに実は気付いていて、1人では不安だった。それを否定したくて、同じ境遇にあるクローンをたくさん作って、強さこそ存在価値だということを、帰納的に証明しようとした。
でも、その過程でそれはやっぱり違ったという事実に気付いてしまった。自分以外が命と命をぶつかりあわせる光景を目の当たりにして、命の本質にオリジナルもコピーも無いことを聡明なミュウツーは悟った。でも、その事実を受け入れるということは、復讐の対象だった"人間"や"ミュウ"に存在理由を預けていた"楽な"現状と、強さを絶対の価値と自分に思い込ませて歩んできたこれまでの生き方を180度転換することを意味する。そして、今度は誰に依存するでもなく、自分自身で自分の存在理由を定義づけなくちゃいけない。これは他人から独立した試みだから、正解の基準は無いし、全て自分の責任で行わないといけない。だから、ミュウツーにとってすごく勇気のいることだと思う。
でも、そんな葛藤のあったはずのミュウツーだったのに、このセリフを言う時はすごく清々しかった。力みがなくて、自然体だった。あらゆる人間とポケモンに生まれてきた平等な事実があることを理解したことで、何より自分が救われたんだろうなって思った。“ミュウ"がいることが自分の存在価値、幸せを否定する理由にはならないんだってね。これからは自分が生み出してしまった"コピー"を含めて、真っ直ぐに世界と向き合っていくんだろうなって感じたし、オリジナルと幸せを共存して幸も不幸も共有することを肯定していくと思う。
なにかと言えば他人が気になって、自分の存在価値を疑ったり相対的に見てしまう世の中というか人間だからね、この言葉みたいに爽やかに、自律的に、力強く生きていきたいものだよね。
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