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試験とは落とすためにあるのではない

人が大人へなっていく段階で、誰しも何がしかの「試験」を受けてきたと思います。学校はもちろんのこと、運転免許、医師免許、弁護士試験、公務員試験、資格試験、昇格試験。世の中には、たくさんの試験がありますが、日本社会での「試験」の位置付けが、いつしか試験を通ることで達成する目的を見失いかけて、試験を通さない、いわゆる「落とす」ことに注力されてしまったのは、高度成長期、団塊の世代やベビーブーム世代の人数が多いことから「狭き門」を通すために発達した面が大きいのかもしれません。

とは言え、今の日本はもうその時代を通り過ぎて、先進国としての社会を成熟させる段階にあります。その段階の社会では、「試験」を篩( ふるい)に掛ける道具のようにしていては、人が成長するような環境は整いません。

先日、こちらアメリカで育った20歳の娘がこんなことを言っていました。「日本語補習学校の試験は、落とす試験だった。アメリカの学校の試験はきちんと勉強したかを確認する試験だった。」アメリカに住んで大きく違いを感じるのは、「試験」の意義です。個人的なことですが、私は今、パイロットライセンスの取得のため勉強をして試験を受けたりしています。そうした試験でも、筆記試験は(膨大な量ですが)約900問の毎年更新される試験問題は公開されていますし、その900問を暗記するよりも実際に多岐に渡る範囲をしっかり勉強してその問題全てに答えるようになることができるかどうかが試されますので、試験当日は70%の正解率を取得できると合格します。FAA(航空局)の試験官による「口頭試験」も受けます。その範囲も膨大なところですが、オープンノートと言って試験官の前で説明しはっきりと思い出せないことはその場で調べて構いません。車の免許の取得試験も同じことが言えます。筆記試験は基本的に出題される問題がはっきりしていますが、状況問題の中にある数字などは変わります。しっかり勉強したかどうかを「試す」文字通りの「試験」なのです。

車の免許や、学校の試験、パイロットライセンスに至るまで、その道を先に通った人がアメリカでよく

「先生や試験官は、しっかり勉強している人を合格させてあげたいという思いで試験をしている」

と言います。こうして試験を受ける人を応援して、合格することを前提に勉強するという文化が根強くあります。

こうして考えてみると、資格や学校、新しいことへ挑戦する意志を持った人への試験というのは、決して「落とす」ことが目的ではなく、「通す」ことが目的であり、人間の世代はどんどん先へ進んでいく以上、こうして「通る」ということを前提に人が前へ進むことを応援するのは、大切な「試験のあり方」なのかもしれません。

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