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ようやく書き上げたとき、雨はすっかりやんでいた

雨が激しく降っている。
昼から上がるという予報は当たりそうもない。
空もどんよりと黒い。

この色と音、そして雨の匂いは、僕を遠いあの日にいざなう。

小学4年生の夏休み、僕は慣れない神戸の町と格闘していた。
慣れ親しんだ明石から神戸に引っ越したばかりだった。

まずは夏休みの自由研究を片づけなければいけない。
僕は適当に済ませることにした。

少しだけ考え、体の慣用句を集めて整理しようと思い立った。
模造紙の真ん中に少年をでっかく描こう。
そして体のあちこちから線を引き、そこにまつわる慣用句を並べるのだ。
「口が軽い」「腰が低い」…

家には模造紙もマッキーもないから、買いに行かねばならない。
国道を進み、川を渡った先のダイエーで…いや、それは明石の話だ。
見知らぬ神戸で僕は途方に暮れた。

引っ越したのは、神戸は神戸でも塩屋という時が止まったかのような町。
空襲を一度も受けなかったため、入り組んだ路地がそのまま残る。
ネットのない時代、どこで何が手に入るかは歩いてみなければ分からない。

その日はあいにくの土砂降りだった。
僕は意を決して買い物に出かけた。
初めてというだけで道はこれほどまでに怖いものなのか。
歩けども、雨に煙った町に模造紙を見つけることができない。
靴は雨を含んでずっしりと重い。

町の真ん中を流れる川が激流となり轟音を立てている。
飲み込まれてしまうのではないかと恐怖しながら橋を渡る。

同じ道を何度も通って嫌気が差した頃、家々の間に「文具」の看板を見た。

ここまで書いて、ふと周りが静かなことに気がついた。
あんなに激しく降っていた雨が上がっていた。
小学4年生のあの日は、さらに激しく降るというのに。

せっかく買った模造紙を折りたくはなかった。
皺にならないよう、棒状に巻きたいのに。
でもこの雨だ、僕はあきらめて小さく折りたたんだ。

轟く谷川を挟んで向かいの丘に家が見える。
でもどの道が近いのかがまったく分からない。
雨は激しさを増し、側溝から水があふれだそうとしている。
僕は泣きたくなった。
ただ宿題を済ませたいだけなのに。

かなりの遠回りをしながら、やっとのことで家に帰り着いた。
もう全身ずぶ濡れだ。
窓から見る景色はすべてが灰色に見えた。

僕はマッキーを走らせた。
湿気でベトついた腕が紙にくっつく。
挙げた慣用句は20にも満たなかっただろうか。
ようやく書き上げたとき、雨はすっかりやんでいた。
ずっしりと心を重くし、恐怖まで駆り立てた大雨だったのに。

僕はただ脱力しながら、ぼんやりと窓の外を眺めた。
変わらず黒い世界と、そこにまだ漂う雨の匂い。

これから始まる神戸の暮らしを思い、僕はキュッと口を結んだ。

明石と塩屋。
今週末、ぐるめぐるでその2つの町を訪れる予定だ。
全国からご参加いただくみなさんといっしょに。
とんでもなく楽しみにしている。

でも願わくば、どうか激しい雨だけは降らないように。

(2024/6/18記)

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