ようやく書き上げたとき、雨はすっかりやんでいた
雨が激しく降っている。
昼から上がるという予報は当たりそうもない。
空もどんよりと黒い。
この色と音、そして雨の匂いは、僕を遠いあの日にいざなう。
*
小学4年生の夏休み、僕は慣れない神戸の町と格闘していた。
慣れ親しんだ明石から神戸に引っ越したばかりだった。
まずは夏休みの自由研究を片づけなければいけない。
僕は適当に済ませることにした。
少しだけ考え、体の慣用句を集めて整理しようと思い立った。
模造紙の真ん中に少年をでっかく描こう。
そして体のあちこちから線を引き、そこにまつわる慣用句を並べるのだ。
「口が軽い」「腰が低い」…
家には模造紙もマッキーもないから、買いに行かねばならない。
国道を進み、川を渡った先のダイエーで…いや、それは明石の話だ。
見知らぬ神戸で僕は途方に暮れた。
引っ越したのは、神戸は神戸でも塩屋という時が止まったかのような町。
空襲を一度も受けなかったため、入り組んだ路地がそのまま残る。
ネットのない時代、どこで何が手に入るかは歩いてみなければ分からない。
その日はあいにくの土砂降りだった。
僕は意を決して買い物に出かけた。
初めてというだけで道はこれほどまでに怖いものなのか。
歩けども、雨に煙った町に模造紙を見つけることができない。
靴は雨を含んでずっしりと重い。
町の真ん中を流れる川が激流となり轟音を立てている。
飲み込まれてしまうのではないかと恐怖しながら橋を渡る。
同じ道を何度も通って嫌気が差した頃、家々の間に「文具」の看板を見た。
*
ここまで書いて、ふと周りが静かなことに気がついた。
あんなに激しく降っていた雨が上がっていた。
小学4年生のあの日は、さらに激しく降るというのに。
*
せっかく買った模造紙を折りたくはなかった。
皺にならないよう、棒状に巻きたいのに。
でもこの雨だ、僕はあきらめて小さく折りたたんだ。
轟く谷川を挟んで向かいの丘に家が見える。
でもどの道が近いのかがまったく分からない。
雨は激しさを増し、側溝から水があふれだそうとしている。
僕は泣きたくなった。
ただ宿題を済ませたいだけなのに。
かなりの遠回りをしながら、やっとのことで家に帰り着いた。
もう全身ずぶ濡れだ。
窓から見る景色はすべてが灰色に見えた。
僕はマッキーを走らせた。
湿気でベトついた腕が紙にくっつく。
挙げた慣用句は20にも満たなかっただろうか。
ようやく書き上げたとき、雨はすっかりやんでいた。
ずっしりと心を重くし、恐怖まで駆り立てた大雨だったのに。
僕はただ脱力しながら、ぼんやりと窓の外を眺めた。
変わらず黒い世界と、そこにまだ漂う雨の匂い。
これから始まる神戸の暮らしを思い、僕はキュッと口を結んだ。
*
明石と塩屋。
今週末、ぐるめぐるでその2つの町を訪れる予定だ。
全国からご参加いただくみなさんといっしょに。
とんでもなく楽しみにしている。
でも願わくば、どうか激しい雨だけは降らないように。
(2024/6/18記)
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