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目指せ、自分のアップデート

紙幣のデザインがアップデートされたらしい。

そろそろ「紙幣といえば聖徳太子」から頭を切り替えて、次の方どうぞ!と待合室に声をかけようと思っていたのに、次の方が誰かはっきり覚えられないまま、また次の方が来るなんて。

紙幣に肖像画を入れる理由。
日銀によると、①親しみを持ってもらうため、②見慣れた顔を載せておくことで偽造紙幣にすぐ違和感を持てるため、とのことらしい。
だとしたら、僕にはまったく役立っていなかったことになる。
今日から誰が紙幣に載るかよく知らないが、きっとまたよく覚えられないまま次の方になるのだろう。

将来紙幣の肖像画になること、というのを人生の目標に置くのも悪くない。
そのために今日何をすればよいかは、いまいちよく分からないけれど。

アップデートで思い出したが、昨日あるnoterさんと面談をする中で、僕の記事が昔と今では大違いという話が出た。

昔というのは、古いマガジン〈ちょこっとひとこと〉に集めた記事のこと。

ここに入っている記事はすべて、僕が1999年から仕事で発行していた700号あまりのメルマガにしれっと何食わぬ顔で書いていたエッセイたちだ。
辛口が特徴で、クレームも多数、ファンレターも多数。

そんなエッセイと、今の記事がまったく違うよねという話になった。
僕もその違いはもちろん気づいている。
たまに以前のような辛口エッセイをあげたりもするが、そのときは「こんなのが書いてみたいんです」というコメントをいただいたりもして、やはり読者のみなさんは敏感にその違いを嗅ぎ分けておられるのだと感心した。

今でもそうやって辛口エッセイを書くことはできるのだけど、古いメルマガ時代と何が決定的に違うかって、やはりnoteはSNSであるということ。
メルマガは一方通行のメディアであり、クレームもファンレターもメールで直接届くから、他の読者の目に触れるものではなかった。
「公のメルマガでこんなことを書いて許されると思うなよ!」のクレームも、「他のメルマガは開封もしませんが、これだけはエッセイが読みたくて毎週楽しみにしています」のファンレターも、すべて僕にだけ届くのだ。

でもnoteだと、そうしたものは基本的にはコメントという形を取るから、当然多くの人の目につくことになる。
さらにはそのコメントに対してまた別の発展的なコメントがついたりして、まさにSNSの面目躍如といったところ。
これはつまり、僕の当初の考えとは違ったところでみなさんのコメントが独り歩きする危険をはらんでいるってことだ。
そんなことを考えていると、日々noteに書き下ろす記事はそこはかとなく無難なものになっていくのだ。

かといって旧のエッセイのようなキレキレの批評眼はずっと持っていたいし、権力を恐れぬ批判記事を書きたい思いもやはり胸の中にはある。
となると、旧のアレンジをした発信をしていくということになるだろうか。

双方向があたりまえのSNS時代、僕も自分をうまくアップデートしていかなければと思うのだ。

アレンジで思い出した。

一昨日は半夏生で生タコ刺しとタコ飯を作ったことは昨日記事にした。

その晩お泊まりで不在だった娘にも半夏生のタコは食べさせたいと、足1本を冷凍にしていた。
さすがにまた刺身は芸がないので、昨日はカルパッチョにアレンジ。

薄いそぎ切りの生タコに、オリーブオイルとレモン汁、沖縄の塩が絶妙に絡んで美味この上なし。

こんなアレンジが、自分自身にも必要なのだろう。
目指せ、自分のアップデート。

本日、連続投稿が1600日を迎えた。

めでたしめでたし。

(2024/7/3記)

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