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1年以上の苦難を経て、ヒトは動きたがっている

兵庫県に出されている緊急事態宣言がまた延長されるという。
病床数の逼迫などを考えれば、そうせざるを得ないのはよく分かる。

が、企業は昨年のようには宣言に応じておらず、電車は変わらず満員だ。
そんな状況での宣言延長に果たして意味はあるのだろうか。
しかも自粛要請は緩和するというからなおさらだ。
骨抜きの宣言に、もはや緊急事態を感じることができない。

感染対策に費用を投じた店にとって、休業要請は承服しがたいに違いない。
ガイドラインに従って改装したのに、酒は出すな、夜は閉めろって…
自治体から配られた「対策済み店舗:安全です」のステッカーが空しい。

政府の立場に立てば…まぁ打つ手がないのだろう。
オリンピックも2か月後に迫っているし、ワクチンがあまねく行き渡るまでは、状況の思わしくない都道府県に宣言を出しておくしか――
まぁまぁな思考停止だ。

宣言は、平たく言えば「安全な家でじっとしていましょう」。
どうせ気をつけられないんだし、だったら何も気にせずに済む家にいたら? と言われているのだろうか。
昨年国民は皆従い、確かに感染は一時封じ込めたが、気をつけて外に出るという意識は醸成されず、結果、宣言解除と同時にまた一気に広がった。

そんな宣言を繰り返して意味がある?
安全は自宅にしかない、という考えが根底にある限り、宣言、解除、宣言、解除…の無限ループから抜け出せないのは容易に想像がつく。

いい加減「ふつうの暮らしを取り戻すために気をつけましょう」にシフトしなければ、経済どころか、活動してなんぼのヒトの性分はもうもたない。
気をつけないのか、気をつけるのか、マインドは180°異なる。

1年以上の苦難を経て、ヒトは動きたがっている。
そのエネルギーは人類の発展の源泉であり、もっと尊重されるべきだ。
蔓延をもくろむウイルスにそれを利用させないためには、一人ひとりがただただ気をつけるしかない。

以前と変わらぬヒトらしい生活を送ろう、そのために社会はどうあればいい? 我々はどう行動すればいい?
そう問いかける宣言であってほしい。

(2021/5/26記)

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