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「虚構」と「非虚構」の狭間で漂う【REVIEW】 SCIENCE FICTION - 宇多田ヒカル

宇多田ヒカルが、キャリア初のベストアルバム『SCIENCE FICTION』(2024) をリリースした。

1998年にシングル「Automatic / time will tell」でデビューし、8枚のスタジオアルバム(海外向け Utada 名義を含めれば10枚)をリリースしてきた宇多田ヒカルだが、CD全盛期を生きてきたアーティストにしては珍しく、キャリア26年目での初ベストアルバムということになる。同アルバムに合わせて、7月から始まる計14公演の約6年ぶりの全国ツアーも発表された。


『SCIENCE FICTION』の前に、宇多田ヒカルのこれまでのディスコグラフィを振り返ってみたい。宇多田のキャリアは、初期、中期、「人間活動」後、最新、の4つに大きく分けられる。

J-R&Bの申し子としてリリースされたデビューLP『First Love』(1999)、2nd LP『Distance』(2001)は、当時アメリカ南部アトランタを中心にR&Bの一時代を築いていたプロデューサー集団 Organized Noise(オーガナイズド・ノイズ)や、80年代からいくつものR&Bの流行をつくり、実際に宇多田の「Wait & See 〜リスク〜」と「Addicted To You」を手掛けたプロデューサーデュオ Jam & Lewis(ジャム&ルイス)たちの影響を存分に受けた、王道のR&Bであった。そこに幾分かの J-Pop の要素を含ませることによって、聴き馴染みやすいがこれまでの J-Pop とは異なる、新しい J-R&B を定義することになった。

中期にあたる『DEEP RIVER』(2002)、『ULTRA BLUE』(2006)、『HEART STATION』(2008)の作品では、ハウスやエレクトロニクスにも接近し、作家性の幅はさらに広がっていく。R&Bの要素は薄まり、シンガーソングライターとしての存在感が強まっていくのもこの時期だ。

2010年、「アーティスト活動」を一時休止し、音楽以外の自身の人生に集中する「人間活動」に専念することを発表。復帰までに、母である藤圭子の死、イタリア人男性との再婚、長男の出産など、人生を変えうる出来事が次々と起こる。

亡き母に捧げたと言われているシングル「花束を君に」を機に「アーティスト活動」へ復帰。この頃から活動拠点をロンドンに移す。8年の時を経てリリースされた『Fantome』(2016)は、日本語詞のもつ特性や日本的価値観をもう一度抱擁するようなコンセプトをもっており、これまでになく率直で宇多田ヒカルとしてもパーソナルな作品になっている。『初恋』(2018)でも似たコンセプトが引き継がれ、中期のシンガーソングライターとしての作家性に加え、生演奏と打ち込みの無機質なサウンドとの違和感を、宇多田なりの世界観に落とし込もうとした作品であるとように感じられる。

パンデミック明けの『BADモード』(2022)では、エレクトロニックやハイパーポップで知られるイギリスのプロデューサー A. G. Cook(A・G ・クック)や、クラシックに影響を受けた同じくイギリスでエレクトロニックのアーティスト Floating Points(フローティング・ポインツ)こと Sam Shepherd(サム・シェパード)らを迎え、緻密にプロダクションされた電子音楽を、ポップな一枚のアルバムにパッケージすることに成功した。大手音楽メディア Pitchfork(ピッチフォーク)は、同アルバムを2022年のベストアルバム第31位、収録曲の「Somewhere Near Marseilles − マルセイユ辺り−」をベストソング第10位に選出している。


Disc 1に12曲、Disc 2に14曲の計26曲が収録されている『SCIENCE FICTION』の見どころ(聴きどころ)は、なんと言っても「2024年版ミックス」と「再収録版」だ。以下は、新規ミックス、再録、新曲のリスト。

Disc 1
M1. Addicted To You - Re-Recording
M2. First Love - 2022 Mix
M5. SAKURAドロップス - 2024 Mix
M7. Can You Keep A Secret? - 2024 Mix
M9. Prisoner Of Love - 2024 Mix
M10. 光 - Re-Recording
M11. Flavor Of Life - Ballad Version / 2024 Mix
M12. Goodbye Happiness - 2024 Mix

Disc 2
M1. traveling - Re-Recording
M2. Beautiful World - 2024 Mix
M3. Automatic - 2024 Mix
M5. 何色でもない花(New Track)
M8. Letters - 2024 Mix
M10. COLORS - 2024 Mix
M13. Electricity (New Track)
M14. Somewhere Near Marseilles − マルセイユ辺り − - Sci-Fi Edit

まず気になるのは "SCIENCE FICTION" という奇怪なタイトルだが、宇多田の音楽性や、含有されているコンセプトに注目すれば腑に落ちる。リリースと同時に公開された公式インタビューに、すべての答えはある。

たとえば「Automatic - 2024 Mix」1曲をとっても、オリジナル版には1998年当時の空気感がパッケージされている。当時まだ生まれてもいない筆者としては、この曲の冒頭のレコードスクラッチ、ドラムの質感、音像の全体のバランスのすべてが、「1998/99年」を強烈に感じさせる。対する新リミックスは、そういった「過去」という制約から解放されたような奥行きと軽やかさを感じる。本人が先に述べたインタビューでも語っているように、宇多田はこういった「過去」と「現在」の行き来といった、量子力学や相対性理論に造詣の深いアーティストであり、そこから、証明しきれない、あるいは実現しきれない「何か」を追い続ける宇多田の姿勢と "SCIENCE FICTION" というタイトルは、たしかにマッチしている。

本人によると新曲の「何色でもない花」が表象するのは、何色でもない=形のない=存在するかもわからないものであり、これもまた存在論的というか、唯物論的というか、非常に宇多田的である。

宇多田ヒカルは、「真実」や「事実」の関係性、そもそもそらは存在するのかという問いを常に投げかけるアーティストだ。「花束を君に」でも、「今は伝わなくても/真実には変わりないさ」と歌って、真実のある種の普遍性を唱える。

新曲「Electricity」のリリック「解明できないものを恐れたり/ハマる 陰謀論に/そんな人類みんなに/アインシュタインが娘に宛てた手紙読んでほしい/愛は光/愛は僕らの真髄」はハイコンテクストなので注釈が必要になるだろう。アインシュタインが娘に宛てた手紙は実は存在せず、識者の間では陰謀論と主観的な感情の関係性を揶揄する鉄板ジョークである(らしい)。つまり、人は解明できないもの(=真実と言い切れないもの)を恐れ、虚構の愛の手紙(=事実ではないもの)にすがるが、そういった人たちを結びつけるのは愛でしかないという宇多田なりの見解であると読み取れる。Christopher Nolan(クリストファー・ノーラン)監督の『Interstellar』(インターステラー)(2014)のエンディングを想像すればわかりやすいだろうか。

そう、宇多田ヒカルは、ジェンダーもジャンルも時も越境する。25年のキャリアを再訪する試みは、おそらく本人にとって、自分がいかに存在するのか、あるいは存在しないのかを問うプロセスだったのではないだろうか。何が「虚構」で何が「非虚構」なのか。宇多田ヒカルはそのどちらも否定することなく、答えの出せない "SCIENCE FICTION" に向き合い続けている。そしてその挑戦は、今の時代もっとも必要とされている。


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