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No8 愛しのお召しはコスパ最高✨白木蓮の着物love



箪笥の中にひっそりと眠る
家族史のような思い出の着物達。

昭和18年に、ニューギニアで戦死した祖父の大島紬と袴。


その妻である亡き祖母が、
祖父に買って貰い大切にしていた繻子の帯。


その中に、65年前の母の嫁入り支度の一枚が残っています。


それは、赤と黒の太い縞が魅力的な「お召し」で、母は呉服屋さんの店頭で見るなり
一目惚れし、祖母に強請り買って貰ったそうです。


その「お召し」には、大切な
お役目が待っていました。

かつて、私が生まれ育った故郷の港町には、室町時代から受け継がれてきた古い風習が数多く残り、婚姻に関する行事も、その中の一つでした。


昭和30年頃の母の婚礼時には、ユニークにも思える
荷入れの写真が残っています。

親戚の男性達は、長持ちや、箪笥を担ぎ、女性達はお布団や日用雑貨を持ち、そこに、子供達まで加わって、まるで御神輿を担ぐ様に町の中を練り歩き、同じ在所の婚家まで運ぶのです。


その先頭を行くのは、紋付き袴姿の母の伯父。高らかに
長持ち唄を唄ってくれたと聞いています。


漁師町の細い沿道には、長持ち行列を観る人々が加わり、
写真からでも、賑やかな声が聞こえて来そうです。


戦後10年。まだ娯楽の少ない時代でした。おめでたい行事は、町を挙げて祝う祭りに近い感覚だったのかもしれません。

それは他の地方にも通じる風習かも知れませんが、私が独特に思うのは、花嫁が一張羅を着て行列の一番後ろを歩く事なのです。


当時この町では、花嫁衣装を身に着ける結婚式はまだ一般的でなく、この長持ち行列が、花嫁道中を兼ねていたようです。

母が一目惚れした「お召し」の役目は、この行列のトリを飾る花嫁衣装だったのです。

昔も今も、女の子達にとって婚礼の衣装は思い入れの強いもの。

着物好きな母でしたから、
妥協なくお気に入りの着物で嫁ぐ事が出来、どんなに嬉しかった事でしょう。


22歳の母は、愛しの「お召し」を纏い、輝くような笑顔で写真に映っています。


母の例が物語るように、戦後、染めの着物が礼装として定着するまでは「お召し」は
庶民の一張羅でした。


「お召し」は、正式には「お召し縮緬」と呼ばれる絹織物です。

徳川十一代将軍家斉 が愛用した事から「お召し」と呼ばれるようになり約200年。

着物はご存じのように、織りと染めに分類され、染めの方が格が高いとされているのは、よく知られてる事です。

織りは、大島紬や結城紬のようにどんなに高価でもカジュアルの分類。
それに対して染めは、どんなにチープでもよそゆき着の分類です。


お召しは、染めた糸を織り上げる技法で製作され、本来なら織りの着物ですが、家斉公が愛用した事でグレードアップし、織り物の中では最も染めに近い、格のあるよそゆき着になっているのです。


「お召し」は家斉公にあやかって別格扱いなんですね。


その影響でか、明治時代初期迄は、無地や縞など男性が着用する着物でしたが、徐々に女性にも広がり、大正から昭和にかけては、庶民の最高のよそゆき着になっていたそうです。

丈夫なシャリ感のある生地で皺になりにくく、身体の線も顕にならず実用的な上に、程々の格も兼ね備え、黒い羽織りを重ねれば準礼装にもなる便利さは、国民に愛された所以でしょう。


戦後は洋服が主流となり、日常で着物を着る人が減り、晴れの日には染めの着物を選ぶ人が増えた為に、昭和40年以降は、生産数が減少したのだそうです。


無地を選べば名古屋帯から袋帯まで締められ、応用の効く優れものですのに残念な限りです。


母の「お召し」は、少女の頃から経緯を聞かされて来たので私も愛着が湧き、長持ち行列から40年後に洗い張りをして仕立て直し、私の初代「お召し」となり、10年間存分に楽しませてくれました。

今、私が着ているニ代目「お召し」は黒の蚊絣です。

10年程前にネットの着物リサイクルショップで購入しましたが、これがコスパ最高!
なんです。


蚊絣は帯を選ばず、春、秋、冬、それぞれのバラエティに富んだコーディネートを楽しめます。

そして、洋服の中にも溶け込み、悪目立ちしないのが一番の取り柄だと感じます。

訪問着をリメイクした名古屋帯を合わせ少し改まった席に
メルカリで買った綸子の名古屋は少し肌寒い日に
ネットのリサイクルショップで見つけた織りの名古屋帯
譲り受けた綴れの名古屋帯




箪笥の中の一枚一枚に手をやりそっと撫でてみると、 
その着物の一枚一枚に、それぞれの物語りがあった事が
伝わってきます。

私の家族が生きた証…

着物とは、なんて奥深く
愛しいものでしょうか…

























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