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[若者の集団]という個性

オーケストラの仕事はどんどん忙しくなっていった。休みはほとんどなく、時には日曜日まで潰れるほどだった。それでも毎週のように、世界中からドミンゴやアルゲリッチをはじめとするクラシック界のスターたちが私たちと共演するためにやってきた。
有名なソリストの中にはリハーサルやコンサートの後も、楽団員と食事をしに行ったり楽しく交流する事を好む人たちもいた。どんなに有名な演奏家や歌手も、ミラノではどことなくリラックスしているようにすら見えた。彼らと言葉を交わすチャンスというのは、例えばリハーサルの合間の休憩時間に近くのバールでコーヒーを引っ掛けながらだったり、舞台の上だったり袖だったりした。演奏していない時の彼らは常に「ひとり」で、マネージャーと行動するわけでもなく自由だった。
それはもしかするとミラノがパリやウィーンとは少し違って街にも、そしてこの新しくできた劇場には特に、[文化の権威]のようなスノッブな空気が流れていないせいがあるかもしれない。

そんな中でそれほどオーケストラの人達に対して友好的ではない人たちも、もちろんいた。ある時、あのショスタコーヴィチ(*1)やオイストラフ(*2)とも交流のあった、ロシアの高名な指揮者がやってきた。大戦中の記憶とソ連時代のオーケストラ、そして栄光に包まれたソリストたちとのエピソードを背景に生きるこの老指揮者には、自分を前にしても楽しそうにお喋りばかりしている、この若者だらけのプロ・オーケストラが信じられなかった。
誰かが咳ひとつしても彼の研ぎ澄まされた耳の邪魔をしたので、彼の指揮棒は「水を打ったような静けさ」の時にだけ振り下ろされた(つまり私たちには感知できない、ほんの少しの雑音が聴こえても振るのをやめてしまう、ということだ)。
そしてリハーサル中は終始、小さな声でぶつぶつと悪態のつき通しだったので、思わず自分が「がんばれベアーズ」のような草野球チームにいる錯覚に陥った。彼がついた悪態の中で幸か不幸か、私が聞き取ることができたフレーズは、吐き捨てるように呟かれた ”こんなクソみたいなオーケストラ見たことがない!”というものだった。 彼にとっての[完璧]な静けさを求められながらの地獄のようなリハーサルが終わり、コンサートは無事成功した。最後のリハーサルくらいからやっと彼が微笑むようになり、私たちはようやく打ち解けることができたのだと思う。

ジャンニに口の中のガムを捨てに行くように命じたのは、やたらとエリート気取りの若い新進の指揮者だったが、誇り高きクラリネットのロベルトにイチャモンをつけた時には相手が悪かったので倍にして跳ね返された。
一方で演奏旅行でスイスに行った時には地元の大きな新聞に、[彼らは若く、美しく神の様に弾く!]と、いささか大袈裟に書かれたり、ロンドンのデッカから出したいくつもの CD がアワードを受賞したりもした。
でも、週一度の休みも満足に取れない上に安給料の私たちは、日々かなりの疲労を感じていた。

ある時、イタリアの人気女性歌手が歌曲のアルバムのレコーディングのためにやってきた。私たちは働きづめでクタクタになっている中で待ち望んでいた休日を、数日前に急にひっくり返されてこの歌手とのリハーサルへ臨んだ。
ところがこの歌手はなんと、ほぼ何の準備もせずにレコーディングにやってきたのだった。おかげで録り直しは十数回に及び、挙句の果てに時間延長を要求して来た。 皆が疲労と怒りの心頭に達していたその時、勇敢にもひとりだけ断固として席を立っていったのがクリスティーナだった。彼女はおもむろに立ち上がると、皆がしんとして見守る中ステージを降りてツカツカと出口へ向かって進んでいったが、それを阻もうとしたマネージャーとの押し問答の末、リハーサルはやっとそこで打ち切りになった。このことをきっかけに、オーケストラからは就労条件をめぐって事務所と度々すったもんだが起きるようになった。でも楽団員に発言力があるわけではなかった。ここはひとりのパトロンが実権を握るオーケストラだったので、皆どちらかと言えば意見を言うことについてびくびくしていたのである。

日曜日を返上しての教会でのコンサートも、相変わらず三日前になって告知されるというようなことが続いていた。 そして教会でのコンサートの際に、大理石の祭壇の上に段ボール箱で放り出されるパニーノ(ぺらっとしたプロシュートが一枚だけ挟まっている)を、早い者勝ちで取りに行くといったことに皆が疲れ始めていたある日、私は突然リハーサルをサボって、ひとりヴェネツィアを観に出かけた。
(続)

*1)ディミートリィ•ショスタコーヴィッチ (1906~1975) : 20世紀を代表するロシアの作曲家。
*2)ダヴィド•オイストラフ(1908~1974)  :  20 世紀を代表するロシアの大ヴァイオリニスト。


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