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救いの手

ある日なんだかとてもくすんだ気持ちで、私はいつものようにパリのメトロに揺られていた。
ぼんやりとではあっても、このまま人生を続けていても一体どんな意味があるんだろうとすら考えていた。
そんな時ふと、ある人の事を思い出した。
ほんとうに何十年も忘れていた人だ。
まるで誰かが私の錯綜した記憶の中からそっと彼女を取り出して、ほら、見てごらんと目の前に置いて行ったみたいに。
途端に不思議なほど目に写っているもの全てが色彩を取り戻した。
彼女のニックネームはナオさん。

ナオさんといえば、私がウィーン留学前後からミラノのオーケストラ時代にかけて、最も影響受けた同じ世代のヴァイオリニストである。
かなり時代が遡ることになるけれど、私がナオさんに出会ったのは1993年の夏のことで、私達はレナード・バーンスタインが1990年に亡くなる僅か数カ月前に札幌で立ち上げたばかりの教育音楽祭に参加していた。
この音楽祭には私たちを含め世界各国からオーディションを受けて集まった若い音楽家の卵たちが参加していたのだが、私より3つほど年上のナオさんはその時既にウィーンに留学中で、現地でオーディションを受けての参加だった。
彼女は、私も後に師事することになるウィーン・フィルのコンサートマスター、ライナー・キュッヒルのお弟子さんだったが、既にもうその時点で優秀過ぎるオーケストラ・プレイヤーだった。

音楽祭では、様々な国籍の若者たちがひと月の間寝食を共にしながら毎日のようにウィーン・フィルをはじめとする世界の一流オーケストラのトップ奏者たちの指導をを受ける一方で、自分達もオーケストラを結成し各地で行われるコンサートの為あらゆるプログラムを消化することで、日々学んだことを実践に移す機会にも恵まれていた。
そんな日々の中で私はナオさんから途方もなく影響を受けることになったのだ。
彼女は演奏者としてとても優秀だっただけでなくオーケストラでの演奏にも慣れていたので、音楽祭では多くのプログラムでコンサート・ミストレス*を任されていた。

その中でも忘れられない演奏がブラームスのシンフォニー第1番のソロだった。
彼女の演奏を初めて聴いてまず驚いたのは、その美しくのびのびと表情豊かな音色だった。
それまで東京の某一流音大のオーケストラで聞いてきた音とは全く違う音色だったのだ。
日本の音大では確かに綺麗ではあるけれど、やけに均一でお行儀のいい音しか聴かれなかったのに対して、彼女の音は驚くほど表現豊かだった。
オーケストラなのにソリストのように堂々とした表現力あふれる演奏。シンプルな旋律の中に艷やかな色気とか、プロも顔負けの潔さを感じさせるナオさんの音を聴いて、彼女のすぐ後ろに座っていた私は鳥肌が立つほど感動した。

彼女の音が好き過ぎて、私はときどき宿泊先のホテルで彼女の部屋の前を通り過ぎる時、中から聞こえてくる彼女の練習を立ち止まってこっそり聴いたりしたのを覚えている。 
音楽祭が終わる頃、ナオさんは当時この音楽祭の音楽監督だったマイケル・ティルソントーマスに認められ、 彼がマイアミで立ち上げたばかりのオーケストラのコンサート・ミストレスに抜擢された。

そして音楽祭が終わっても、私の中に彼女の神々しい姿は刻印のように深く残された。
その翌々年からは、私もナオさんの後を追うようにウィーンで学び始め、自分の音や演奏を模索する毎日を送るようになったが、 私がオーケストラに就職しようと決めた動機の1つは間違いなくナオさんのようにかっこいいオーケストラ・ プレイヤーになりたかったというのがあると思う。
和気藹々としたミラノのオーケストラ時代においても、私の中にきらきらとした彼女の演奏は断固とした理想として残り続け、それは明らかにオーケストラ演奏に理想なんか持っていない一定数のイタリア人奏者たちとの間に自分から垣根を作る要因にもなっていたかもしれない、と今になって思う。
迷宮に迷い込み、少しづつ明確な目標みたいなものを見失い始めていた私にとってナオさんを再び思い出したことは、なにかトンデモナイものに向かってギラギラしていた時代の自分から喝を入れられたようで妙に目が覚めた。今は再び目標ってトンデモナイ方がいいのかもしれない、なんて思っている。

*コンサート・ミストレス 
オーケストラの第一ヴァイオリンのトップ奏者を指し、男性はコンサート・マスター。

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