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上を向いて歩こう

タック&パティ(Tuck&Patti)というヴォーカル・デュオの2004年のアルバム【A gift of love】が好きでよく聴いている。カーペンターズやビリー・ジョエルなどのヒットソングの中からラヴ・ソングだけをチョイスした全曲カヴァーアルバムで、とにかく女性ヴォーカルのパティの歌唱力が素晴らしい。

よく考えれば、これら地球上にくまなく知れ渡った王道のヒット・ソングばかりをカヴァーするなんてよほどの自信がないとできないことだろう。ほとんどの場合、たとえ有名なシンガーがカヴァーしたところで【やはりオリジナルに勝るものはない】と言われてしまうのだから。
ところがこちらのそんな心配をよそに、それらヒット・ソングはあたかもすべて彼女のオリジナルソングかのような安定感と自然さでのびのびと歌いこなされている。とは言えこのシンガーの声の持つ個性もなかなかのもので、その滑らかなビロードのようなハスキー・ヴォイスは一度聴いたら忘れられない説得力を持っている。

学生時代から雨の日も風の日も何千回と繰り返し聴いて、キャロル・キングの声と歌いまわしが耳にこびりついている【Up on the roof】だが、これをパティは言いようもない温かさと懐かしさを持って歌う。オリジナルに心酔した耳を邪魔しないどころか、心の底からこのシンガーの才能に感嘆すると同時に、なぜこのような素晴らしい歌い手がビッグネームとしてそれほど世の中に知られていないのか、不思議に思うばかりである。

そんな英語圏の超有名ヒットソングの間にそっと忍ばせるように置かれ、静かに存在感を放つ一曲。それが坂本九の【上を向いて歩こう】である。
【Sukiyaki】とタイトルを変えたこの1曲は、あたかも遠い異国の地でふと見つけた日本の居酒屋、或いはパリの街角でバタ臭いクロワッサンの香りに混じってアラブ人の店から漂ってくる鳥の丸焼きの臭いが、私たちの脳内に日比谷の高架下のあの焼き鳥の匂いを反射的に蘇らせるように、ふと抱きしめたくなるような帰郷の念を起こさせる。

このロマンティックなアルバムが持つ洗練されたカラーにすっかり溶け込んでいながらも、私たち日本人だけが見ることのできるもう一つの風景を携えたこの曲。
大戦からまだ20年も経っていない時代の日本で生まれたこのヒットソングが時代を超え、異なる文脈で世界の人々の耳に届く時、まるで細胞が生まれ変わるかのようにこのメロディが背負っていた古めかしいカルチャーが書き換えられ、新しく軽やかなものとなる。

これこそが音楽の持つ不滅の力だ。

池に向かって誰かが投げた一つの小石が無限に波紋を広げてゆくように、このような魔法の連鎖を作り出せる事こそがこの星に生きている素晴らしさであり、私たちはそれをしていかなければならないと思う。自分一人の持つ力がどんなに小さくても、次々と新しい手に渡され続けることでいつか途方もない力となる日を信じて。

https://youtu.be/wIoxkqSNo7U




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