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リュクサンブール公園

夏がほんの数日間しか姿を現さなかった今年のパリ。8月からの忙しさがひと段落して、急にいつも行かない場所へ行きたくなった。とは言えフランスの現状ではワクチンパスポートを持たない私は、いちいち検査を受けないと長距離電車にも乗れないしカフェにも入ることができない。
電車の利用に関しても大いに矛盾があって、例えば国境を越えて繋がる高速列車のTGVに乗って南仏やリヨンなどには行けなくても、TERという国内急行列車に乗ってノルマンディーには行けるというおかしな事態になっている。それに旅先でカフェやレストランに入られないとなるといよいよ旅の楽しみは半滅である。そこで結局私は旅を諦め、パリの中で普段全く行く事のない地区をのんびり歩いてみることにした。旅行代金はかからないし、健康にもいいので一石二鳥である。そんな私のアイデアに追い風が吹くように、9月に入ってからはようやく夏の日差しが顔を出し始めている。とっさに思い浮かべたのはもう10年くらい足を向けていないリュクサンブール公園だ。数々のフランス映画のロケ地にもなったサンジェルマン大通りや、公園の中の聖地であるフォンテーヌ・ド・メディシス(メディシスの噴水)をもう一度見に行こう。

いつものようにシャトレまではメトロで出て、そこからポンヌフを渡ればもう左岸である。ここまで来ると洒落た店が多く、観光客の大好きなパリの雰囲気に満ちていて、キャルティエ(=区)が変わればこうまで印象が変わるのかと改めて思うほどだ。パリ中心部にそう遠くないところに住んでいても、そこは「パリ市内」と言うだけで、「皆に愛されるパリ」ではないというのはあまりにも抽象的な言い方だが、ほんとうにそうなのだ。「パリ」というひとつのイメージは、観光客とそのニーズにも答えたい地元の人々との化学反応によって出来上がった、ある種の「仮想現実」であるかもしれない。それはあくまでも「雰囲気」と言う枠の中に留まり続ける掴みどころのないものだからだ。なので、その日私は「数キロ先の自宅」からやって来た観光客になりきって散歩を楽しんだ。発見はいたるところにある。
例えばパリに初めてやってきた頃、パリ最古のカフェである「カフェ・プロコープ」はどこにあるかなあなどとガイドを見ながら調べたりしていたが、そのまま忘れてしまっていた。すると散歩の途中、左手に現れたのはただならぬ風格とエレガンスの漂うカフェ。通りの反対側からでもわかるほど真っ白なテーブルクロスにはぱりっと糊が効いている。もしやと思って屋号を探すと、あのプロコープであった。パリに住み始めて17年後にとうとう実物を目にした憧れのカフェは、魅力的ではあるけれどちょっぴり慇懃な感じがして、あまり入ってみたいと思う場所ではなかった。

リュクサンブール公園の近くでカプチーノをテイクアウトし、いざ公園に足を踏み入れると極上の風が吹いていた。さっき通りかかったエレガントなプロコープにあまり惹かれなかったのも、もしかするとここ数ヶ月の公園での自由なコーヒータイムが板についてしまった証拠かもしれない。
いくつかの彫像の前を通り過ぎ、パンテオンの見える位置に腰を下ろした。いつも行くビュットショーモン公園とは正反対の、遠くまで見通しのきく平面的な公園という印象だ。あちこちに人々が寛いでいて、ほとんどの人たちはお約束のように鉄製の椅子をふたつ使い、足をのっけて寛いでいる。お行儀のよい日本では考えられない光景である。面白いのは、時々リクライニング型になった鉄製の椅子も見つかることだ。それを太陽の下に引きずって行って試してみた。背もたれが大きく後ろに倒れているので、普通に座るとどうも具合が悪い。かと言って中途半端に腰の位置を下の方へずらしたのではたいそう痛いうえに(勿論クッションなどついていない)ポジションが定まらない。思い切ってぐっと下の方まで体の位置をずらすと、やっと体の位置が安定し頭はのけぞった形で鉄の背もたれに固定できた。すると、あら不思議!さっきまで気が付かなかった大きな空や流れる雲、さわやかな木々の梢などが次々と視界に入ってくる。気を付けないと、気持ちが良すぎて眠ってしまいそうなくらいだ。

家族連れやお洒落なご老人、時にはすぐ近くのソルボンヌ大学の教授と思しき人が革の鞄を横に投げ出し裸足になって日光浴をしていたり、学生たちのグループが何やら熱心に議論をしているのを見かける。さらにそこへたくさんの観光客も加わって思い思いの時を過ごすのがリュクサンブール公園の特色だ。太陽が最後の輝きで宮殿や彫像を黄金色に染める頃、私はやっと立ち上がり未練たらたらに出口へと向かった。





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