マガジンのカバー画像

ミラノ回想録

26
毎朝ウィーンのパン屋さんで [ヴィーナー•キプフェル(ウィーン風クロワッサン)ひとつ下さい!]と言っていた学生の私が、ミラノというもう一つのヨーロッパの都会から仕事人生をスタート…
運営しているクリエイター

#出版社

スポレートの夏

その夏は忘れられない夏だった。私たちのオーケストラはひと月の間、ウンブリア地方にあるスポレート(spoleto)というちいさな町で開かれる有名な音楽祭に招待されていた。アッシジの聖フランチェスコが‘神の声を聴いたか、幻視を体験したとも言われているこの町の中心にはドゥオーモと呼ばれるロマネスク様式の大聖堂があり、内陣はフィリッポ・リッピ(*)の見事な色彩のフレスコ画で装飾されている。私たちは毎日のようにこの聖堂でリハーサルをし、ファサードの下の冷たい石のベンチで涼んだり、おしゃ

音楽家のポートレート~Les portraits des musiciens

ユリウス ひどく落ち込んでいる時にわざとあれこれと予定を入れ、心身が麻痺するまで動き続けた挙句に寝坊して、一番大切な用事をすっぽかしてしまうのがユリウスだ。彼の砂漠のように果てしない心の空白は、休みなく動き回ることで辛うじて埋められていると言えるだろう。自分でもそれを知っている。 彼ほどはっきりと自分の欲しいものを知っている人はそう多くないだろう。それはまさに彼の心の中の砂漠をそっくりそのまま、得も言われぬ花の匂いに満ちた春の庭に変えてしまえる女性だった。でも彼にとってそれ

新しい友達

マーラーのコンサートの週に新しい友達ができた。 絹糸のように細くてしなやかな金髪を背中まで垂らした北欧系ドイツ人の彼女は  ウテという名で、オーケストラのハープ奏者だった。 ボッティチェッリのヴィーナスを思わせる完璧に美しい顔は、時々血が通っていないかのようで人を不安にさせるのだが、いったん微笑むと、その顔はとたんに子供のあどけなさを湛えた。 私たちが初めて言葉を交わしたのはマーラーのコンサートの休憩時間だった。 すらりとした長身をぴったりとした黒い衣装で包んだウテは、真

新生活

そうこうするうちに、オーケストラで新しい友達ができた。人懐っこいビオラ奏者のカーティア、そしてバイオリン奏者のマルコと,チェロのパオロは揃ってラヴェンナ出身で同郷というだけでなく、二人そろって背が高く美男だった。彼ら3人は、私がイタリア語を解さないと分かっていても毎日私に話しかけに来てくれた。私にとって素晴らしかったのは、カーティアが子どものような無邪気さで、誰とでも友達になる才能を持っていることだった。私たちは自然とひとつのグループを作り、休憩時間には連れだって,向かいのバ

雨の夜の出来事

ミラノで始まったばかりの仕事と家探しで疲れ果てていた或る晩、電話が鳴った。出てみると、オーケストラ専属の合唱団員の女性からで、私が事務局の掲示板に貼った「アパート探しています」の紙を見たとのことだった。彼女の家のアパートがちょうど一室空いたので、良かったら今夜見に来ないかという事だった。 時計を見るともう21時近かった。私と母は顔を見合わせたが、実際に部屋探しは困難を極めていて、私たちは今週トルトラさんのアパートを出て、日本人マダムの経営する小さなホテルに移ったばかりだった

仮の住まいからの初出勤

トルトラ婦人の真っ白なアパートで、私は27歳の誕生日を迎えた。九月も終わりに近づき、その日の朝はシーズン最初のプログラムであるマーラーの「復活」の初リハーサルの日でもあった。私はどきどきしながら、一週間後にマーラーでのこけら落とし公演を控えた新しいホールのある、ナヴィリオ地区へと向かった。この地区というのは大小の運河が顔を覗かせ、古き良きミラノの面影が残るいわゆる「下町」のような独特の界隈である。市電がポルタ・ティチネーゼの門をくぐり抜け、ゴトゴトとサン・ゴッタルド通りへ入っ

ミラノの5日間広場

二度目のミラノは相変わらず埃っぽくて、私は母を連れて Piazza-5giornate(ミラノの5日間広場)でトラムを降りた。二週間の間、私たちの「仮の住まい」となるマダム・トルトラのお宅は、賑やかな街中の広場に面したデパートから目と鼻の先というところにあった。 ちなみにミラノの5日間とは、1848年まだオーストリアの統治下にあったミラノが、オーストリア帝国の支配に対して蜂起した5日間に由来するらしい。皮肉にも150年後、その「オーストリア帝国」から私たち親子はこの広場を目

ウィーンの幽霊アパート

私の部屋のすぐ隣には、すでにウィーンでの留学生活7年になるトシコさんというピアノ科の音大生が住んでいた。 7年間の留学生活を送っている日本人学生は意外に多く、下の階に住むバイオリニストもオーボエ奏者も皆この幽霊アパートに7年住んでいた。 学生としての7年間の過ごし方というのは人それぞれだとは思うが、彼らは一様に26歳くらいにはなっていた。 つまり私と違い、彼らは日本の音大には行かずに(もしくは中退して)19歳くらいでこちらへやって来て音大で勉強しているのだろう。 ちなみにウ

知っているイタリア語は音楽用語だけ?

ただ、その程度の事がわかったところで母の不安が消えるわけではなかった。 私のイタリアでの生活の安全が保証されるわけでもなかった。 それに語学の問題もあった(それまで私のいた場所はドイツ語圏である)。私はイタリア語を音楽用語以外知らなかった(これは後になって分かった事だが、音楽用語としてのイタリア語を知っていれば簡単な会話ができるのである)。アンダンテ、モデラート、カンタービレetc..... 気の毒な母は明らかに[ゴッドファーザー]的イタリアが現実と思い込んでいて、[ニュ