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ミラノ回想録

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毎朝ウィーンのパン屋さんで [ヴィーナー•キプフェル(ウィーン風クロワッサン)ひとつ下さい!]と言っていた学生の私が、ミラノというもう一つのヨーロッパの都会から仕事人生をスタート…
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#オーケストラ

ローマの修道院で(2)

二回目のローマでの仕事は夏の終わりだった。私はすでにその年の初めからパリに住んでいたが、ローマのオーケストラでエルザに再会するのは楽しかったし、何よりもその時点でパリでまだ十分な仕事はなかった。リヨン駅からローマ行きの夜行列車に乗り込んだ私は, ヴァイオリンとスーツケースを抱えて少し不安な気持ちで自分のコンパートメントへ向かった。夕方の6時くらいだったが日はまだ高く、人々はそれぞれのコンパートメントでぼうっとしたり、おしゃべりに興じたりしていた。 私のコンパートメントにはすで

給料はどこへ?シューマンを弾いて忘れよう

私たちの仕事はどんどん忙しくなっていった。今週はパリからナタリー・シュトゥッツマンがマタイ受難曲を歌うためにやって来て、来週からはあのドミンゴとのレコーディングだ、というふうに休む暇もなかった。個人的には、イタリアの現代音楽の作曲家として有名なルチアーノ・べリオ本人がふらっとやって来て、自身の70年代の名作の数々を指揮したリハーサルの高揚感を今も忘れることができないほどだ。ただそんな表向きの華々しさとは真逆に、オーケストラのメンバーの給料がひと月も遅れるようになっていた。そし

ヴェネツィア~日常という幻想

2月末のヴェネツィアは、まだまだ春には遠い寒さだったが、アドリア海の上に島が見えてきた時 私は晴々とした気分だった。ずっと観たかったヴェネツィアという都市は、ミラノから電車でたったの数時間で訪れることができた。私がこの街を訪れたかった一番の理由は、ヴィスコンティの映画「ヴェニスに死す」で描かれた、死と美の壮絶な対比の中で、望むと望まざるに関わらず双方が引き立てあいながら共存している様に心を打たれたからだ。「死」があってこそ「美」が成立するという宿命は、人間から薔薇一本に至るま

[若者の集団]という個性

オーケストラの仕事はどんどん忙しくなっていった。休みはほとんどなく、時には日曜日まで潰れるほどだった。それでも毎週のように、世界中からドミンゴやアルゲリッチをはじめとするクラシック界のスターたちが私たちと共演するためにやってきた。 有名なソリストの中にはリハーサルやコンサートの後も、楽団員と食事をしに行ったり楽しく交流する事を好む人たちもいた。どんなに有名な演奏家や歌手も、ミラノではどことなくリラックスしているようにすら見えた。彼らと言葉を交わすチャンスというのは、例えばリハ

煉瓦色のことば

私が音楽用語の次に覚えたイタリア語の単語は[鉛筆](la mattita)だった。なぜかと言えば, 私たちオーケストラプレイヤーが鉛筆なしにその日のリハーサルを終えることはまずないからである。 楽譜は初めは何も描かれてないまっさらな状態なのだが、演奏会までにほぼ書き込みでいっぱいになる。 それは主に指揮者が指示したテンポのことであったり、演奏の仕方についてであったり、何よりも弓の上げ下げ(ボウイングと呼ばれる)に関する書き込みである。このボウイングに関しては、リハーサルの間ひ

クリスティーナの昼食

年が明けて、私のスタンドパートナーはルーマニア人のクリスティーナになった。 クリスティーナはフレッシュなミルクのように色が白くて、天使のようにクルクルした明るい金髪は思わず手を伸ばして触ってみたくなるほどだ。      同じ金髪蒼目でもウテのように美しく妖艶ではないが,  彼女は明るくて親切で、皆に好かれた。しかも本当に賢かった。5か国語を自在に操り、様々なことに興味があるので何について話をしても彼女独自の興味深い答えが返ってくる。賢者のような彼女との会話はしばしば議論にまで

ボローニャでのクリスマス

イタリアでミレ二ウムに向けての興奮が静かに高まる中、クリスマスが訪れようとしていた。私が初めて日本に帰省しない年の暮れをどう過ごそうかと考えていたところ、カティアがナターレ(クリスマス)を一人で過ごすなんてあり得ない選択だと言ってボローニャの実家へ招待してくれた。私は嬉しさとは別に、ヨーロッパのクリスマスがどれほど家族にとって大切なイベントなのかを熟知していたし、それはあくまでも身内の集いだと思っていたのでひどく躊躇したのだったが、どうしてもとカティアが言うのでボローニャに行

新しい友達

マーラーのコンサートの週に新しい友達ができた。 絹糸のように細くてしなやかな金髪を背中まで垂らした北欧系ドイツ人の彼女は  ウテという名で、オーケストラのハープ奏者だった。 ボッティチェッリのヴィーナスを思わせる完璧に美しい顔は、時々血が通っていないかのようで人を不安にさせるのだが、いったん微笑むと、その顔はとたんに子供のあどけなさを湛えた。 私たちが初めて言葉を交わしたのはマーラーのコンサートの休憩時間だった。 すらりとした長身をぴったりとした黒い衣装で包んだウテは、真

新生活

そうこうするうちに、オーケストラで新しい友達ができた。人懐っこいビオラ奏者のカーティア、そしてバイオリン奏者のマルコと,チェロのパオロは揃ってラヴェンナ出身で同郷というだけでなく、二人そろって背が高く美男だった。彼ら3人は、私がイタリア語を解さないと分かっていても毎日私に話しかけに来てくれた。私にとって素晴らしかったのは、カーティアが子どものような無邪気さで、誰とでも友達になる才能を持っていることだった。私たちは自然とひとつのグループを作り、休憩時間には連れだって,向かいのバ

雨の夜の出来事

ミラノで始まったばかりの仕事と家探しで疲れ果てていた或る晩、電話が鳴った。出てみると、オーケストラ専属の合唱団員の女性からで、私が事務局の掲示板に貼った「アパート探しています」の紙を見たとのことだった。彼女の家のアパートがちょうど一室空いたので、良かったら今夜見に来ないかという事だった。 時計を見るともう21時近かった。私と母は顔を見合わせたが、実際に部屋探しは困難を極めていて、私たちは今週トルトラさんのアパートを出て、日本人マダムの経営する小さなホテルに移ったばかりだった

仮の住まいからの初出勤

トルトラ婦人の真っ白なアパートで、私は27歳の誕生日を迎えた。九月も終わりに近づき、その日の朝はシーズン最初のプログラムであるマーラーの「復活」の初リハーサルの日でもあった。私はどきどきしながら、一週間後にマーラーでのこけら落とし公演を控えた新しいホールのある、ナヴィリオ地区へと向かった。この地区というのは大小の運河が顔を覗かせ、古き良きミラノの面影が残るいわゆる「下町」のような独特の界隈である。市電がポルタ・ティチネーゼの門をくぐり抜け、ゴトゴトとサン・ゴッタルド通りへ入っ

ミラノの5日間広場

二度目のミラノは相変わらず埃っぽくて、私は母を連れて Piazza-5giornate(ミラノの5日間広場)でトラムを降りた。二週間の間、私たちの「仮の住まい」となるマダム・トルトラのお宅は、賑やかな街中の広場に面したデパートから目と鼻の先というところにあった。 ちなみにミラノの5日間とは、1848年まだオーストリアの統治下にあったミラノが、オーストリア帝国の支配に対して蜂起した5日間に由来するらしい。皮肉にも150年後、その「オーストリア帝国」から私たち親子はこの広場を目

夜行列車

飛行機嫌いの母のおかげで、ウィーンからミラノまで夜行列車の旅をすることになった。 私たちは洗面台付きの、割に居心地のいいコンパートメントに入り、今度ばかりは喧嘩をすることもなかった。お互いに引っ越しの疲れで、ほとんど話もせずに窓の外をぼんやりと眺めていた。 ちょうど夕焼けで、はじめ黄金色だったコンパートメントはあっという間に真っ赤に染まった。窓の外の田園風景が、みるみるうちに燃えるような夕日に包み込まれていく様子は圧倒的なまでに美しく、私はそれを母と感嘆の想いで見つめた。

ウィーンの幽霊アパート

私の部屋のすぐ隣には、すでにウィーンでの留学生活7年になるトシコさんというピアノ科の音大生が住んでいた。 7年間の留学生活を送っている日本人学生は意外に多く、下の階に住むバイオリニストもオーボエ奏者も皆この幽霊アパートに7年住んでいた。 学生としての7年間の過ごし方というのは人それぞれだとは思うが、彼らは一様に26歳くらいにはなっていた。 つまり私と違い、彼らは日本の音大には行かずに(もしくは中退して)19歳くらいでこちらへやって来て音大で勉強しているのだろう。 ちなみにウ