「左川ちか」のテキストをめぐる雑感➀岩波文庫における昭森社版詩集の扱い


「左川ちか」というテキストをめぐる雑感


 

はじめに


 
 テキストを編むとはどういうことだろう。最近そんなことを思う。
 
 左川ちかの詩集は主に以下のものがある。それぞれに編者の見識のもと編まれたものだ。
 
・伊藤整編『左川ちか詩集』(昭森社、1936)
 
・小野夕馥・曾根博義・川崎浩典編『左川ちか全詩集』(森開社、1983)※2010年に新版、2011年に飜訳詩集
 
・紫門あさを編『左川ちか資料集成』[The Black Air:Collected Poems and Other Works of Chika Sagawa](えでぃしおん うみのほし、東都我刊我書房.2017)※2017年に同編『左川ちか詩集 前奏曲』など
 
・島田龍編『左川ちか全集』(書肆侃侃房、2022)
 
・川崎賢子編『左川ちか詩集』(岩波文庫、2023)
 
 さて、岩波文庫版『左川ちか詩集』(2023年9月)刊行から9カ月ほど経った。同書についてコメントを求められることも多々あったが、講義の準備などで忙しく、旧Twitterで発売日前に少し触れた以外は、とくに発売後はまとまった見解を示してはいない。ただ、拙編著『左川ちか論集成』(藤田印刷エクセレントブックス)の解説で、今回全4回で述べる内容をギュッと凝縮して数行で書いている。文庫は読者を広げる意味でとても大きい。しかし、それとテキストの評価は別になされなければならない。
 この間、関連するレビューの数々にも目を通し、なるほどと思うことも少なくなかった。そういったものにも触れながら、「先行するテキスト群との関係」という視点から書評代わりに私の見解や遺族の反応などを示しておこうと思う。文章の推敲などは不十分で、読みにくい箇所も少なくないはずだがご容赦願いたい。
 
※引用したレビューは限定範囲公開は対象とせず、全世界に向け公開発信されているものに限った。傍線箇所や太文字は引用者による。なおこれらのレビュアーは一人を除き、私と面識がない方々である。つまり「お友だち」や「身内」ではない点を最初にお断りしたい。
 
 

第1回:岩波文庫における昭森社版詩集の扱い


 
◆昭森社版左川ちか詩集を底本にする意味は何か
 
 戦前の昭森社版左川ちか詩集は、左川が死んだ年に刊行したタイトなスケジュールもあってか、編者の伊藤整による(故意か過失かはともかく)錯誤が相当数認められる。とくに詩篇の順番、ヴァリアント(異稿)のいずれかを採用するかなど、凡例に掲げられた以下の編集方針が実際には相当貫徹されていないのが大きな欠点といえる。
 
引用>
一、この詩集の編輯は発表順によつた。但し再度雑誌を更へて発表されたものはその最初の発表の時に順つた。
一、詩の改作されたものはその改作のものによつた。
一、題名の改められたものはその改題名によつた。但し「幻の家」は「死の髯」の改作ではあるが、思ふところあつて二者とも収載した。その他の改題は左の通りである。(後略)                                 編者覚え書き(昭森社版詩集)

 
・・引用終了・・

 ただ、単純な誤植は別として第三者が判断するに難しいのは、(当初椎の木社から刊行予定があった)生前の左川自身による改稿(整理稿)の可能性がある詩篇が複数認められることで、それも含めて問題含みのテキストなのだ。これについては、拙稿「昭森社『左川ちか詩集』(一九三六)の書誌的考察―伊藤整による編纂態度をめぐって」669号目次 (ritsumei.ac.jp)
で具体的に検証した通りである。
 
 とはいえ、拙稿でも強調したように、現在の研究上の到達点からみてそのままテキストに用いることは難しいとはいっても、戦前に左川ちかの言葉を一冊の詩集にまとめた文学史的な意義ははるかに大きく、その点こそを評価すべき詩集だと思う。
 
 80年代の森開社版左川ちか全詩集は、伊藤以上にヴァリアントを博捜した上で、昭森社版左川ちか詩集の配列を基礎としつつ、書誌的な検討を慎重に行い、足らざる部分を補って編まれた良書といえる。
 
 拙編著『左川ちか全集』はさらに一歩進め、昭森社版という伊藤の眼差しを一度リセットし、初出誌を含めた徹底的な校異を施した。繰り返すが昭森社版の内容のどこが伊藤による関与か、左川によるオリジナルなのかを明確に切り分けることは困難である。ゆえに基本的には生前に掲載された雑誌版を主としつつ、詩篇ごとに昭森社版がより適切と判断できる場合はこれを採用している。全集の配列は初出年順に統一した。左川ちかの意思を十全に反映することは不可能にしても、編者としてはできるだけそうあろうとの姿勢でのぞんだ。
 
 以上のように、昭森社版左川ちか詩集は今や底本として扱うには極めて難しいテキストで、左川ちかの言葉を伝えるのに第一に選ぶテキストではないと言わざるを得ない。そして2023年、なぜ岩波文庫版が昭森社版を底本として(巻末の編集附記に明記)、しかも文庫という普及版でわざわざこれをよみがえらせる必要があったのか、明確な説明はない。
 
 唯一、編者による解説に「『左川ちか詩集』とその後の発見と編纂課程を可視化するためにあえて」(p233)とあるが、それはアカデミックな関心がある人向けに意味ある話で、それであれば国会図書館デジタルコレクションですでに広く閲覧可能である。
左川ちか詩集 特製 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
 
 問題があるとわかっているのであれば、わざわざ一般読者が手に取る文庫に採用する理由にはならない。左川ちかを初めて読む読者も少なくないはずだ。伊藤の眼差しが深く混在する書を今蘇らせることに積極的な意味があるのだろうか。
 


 
 この点に関して最初に疑義をはさんだのがアエリエル氏のブログである。
 
・「再び『左川ちか詩集』について」(2023年9月26日)
再び『左川ちか詩集』について | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男 (ameblo.jp)
 
 
引用>書肆侃侃房版『左川ちか全集』(2022年4月刊)でのテキスト・クリティークとは異なり、のちの研究では問題が指摘される、伊藤整(1905~1969)編の昭森社版詩集が(岩波文庫版の:引用者注)底本として妥当なのか疑問視されるところです。また完全に昭森社版詩集を再現しているかにも問題があり、底本で収録詩篇の各篇が改行に趣向を凝らしてあるのを無視して全詩篇が文庫版の字詰めのベタ組みになっています。編者がモダニズム期の日本文学研究者であっても小説中心の研究者であり、現代詩への機微に感覚が稀薄なのがそうした面に露わになっており、問題の残る文庫版刊行になっているのが残念です。今後もっとも普及版として読まれるのが岩波文庫版『左川ちか詩集』になると思うと、ページ数が増えてでも底本に忠実な改行を再現した改版が刊行されるのを期待するしかありません。
 
 
 アエリエル氏は戦前の古い詩に大変明るい方で私も楽しく拝読している。興味がある方はぜひお薦めしたい。
 
 1文字空くかどうか、1行空くかどうかで詩の形は異なっていく。それだけにテキストクリティークには小説以上に繊細な神経を気張る必要があるだろう。
 
 ちなみにここでは十分に引用しないが、アエリエル氏は文字組みの問題も指摘している。
『左川ちか詩集』岩波文庫化! | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男 (ameblo.jp)
 
引用>昭森社版『左川ちか詩集』を底本・再現するのが編者の意図ならば、正字を略字体に改めるのは普及版詩集としてはともかく(かな遣いは原本に忠実です)、行組み・改行とも原本の再現に徹底すべきだったでしょう。
 

 全集に関していえば、底本としていない昭森社版詩集の文字組を本文に反映することは考えていなかったが、校本としての意味合いを踏まえると、注で再現できるよう努めるべきであったと考えさせられる。編者としては新校本宮沢賢治全集(筑摩書房)の詳細な注を理想としていた。ただこれ以上「注」の紙幅を増やすと、最初に想定していたギリギリ以上の価格設定を維持できないだろう予測があった。とはいえ、それは制作側の事情であり、アエリエル氏の要望は要望としてあり得るものだと思う。氏がいうように、富岡多恵子は左川の詩を引用するに際して昭森社版の文字組を崩すことなく引用している。
 
 岩波文庫が文字組を考慮すべきであったかどうか、昭森社版を底本とした以上、アエリエル氏の「昭森社版『左川ちか詩集』を底本・再現するのが編者の意図ならば、(略)行組み・改行とも原本の再現に徹底すべきだったでしょう。」との批判はより妥当性を増すものといえよう。つまり、「『左川ちか詩集』とその後の発見と編纂課程を可視化するためにあえて」(岩波文庫解説)復刻するのであれば、中途半端に「改変」されたヴァージョンでは混乱に拍車をかけるのではないだろうか。もちろん文字組を再現しなかったことに批判されるいわれはないとの反論もあり得るだろうし、その場合は編集附記に一言添えてもよかったように思う。
 
 
  ◆
 
 繰り返すが、伊藤の眼差しが混在しているテキストをいま蘇らせるのでなく、左川ちかの言葉をそこから「解放」すべきで、近年の論者たちはまさにそこに向き合ってきたのだ。書肆侃侃房版左川ちか全集も昭森社版詩集の特徴を校異から精査した上で、これを一度ばらし、詩人左川ちかの言葉をできるだけ元の状態に戻せないかと、新たに再構成したものだ。対する岩波文庫版がこのような研究史上の方向性に逆行しているのが残念でならない。
 
 実際岩波文庫版は詩の配列の他、百田宗治「詩集のあとへ」、伊藤整「左川ちか詩集覚え書」、川崎昇「左川ちか小伝」など昭森社版をそっくりそのまま持ち込んでおり、独自に作成した年譜がない。作品の「補遺」を除けば、表紙に昭森社版詩集の三岸節子の挿画を用いているのも含め実質は昭森社版詩集の復刻・再現といって間違いないだろう。
 
 ちなみに三岸節子の挿画はもともとは伊藤整訳『チャタレイ夫人の恋人』(健文社、1935)に用いられたもので(川村湊「左川ちかと三岸節子」(『左川ちか モダニズム詩の明星』参照、河出書房新社)、もともと昭森社版詩集のために描かれたものではない。三岸自身もロレンス作品から得た縞馬モチーフの意図を言及している(『みづゑ』367号、1935年9月)。関係者の証言だが、左川ちか詩集については記憶にないと後年書簡に記している。おそらく三岸自身の意図というよりは、編者の伊藤が昭森社版詩集に流用しようと考えたのだろうが、伊藤の思いを想像すると興味深い。この種の仕掛けをオートフィクションと文学史叙述に用意周到に施し続けたのが伊藤だ。そういった眼差しを再生産するよりも、いかにこれを対象化し新たな左川ちか像を求めていくのかが、これからも変わらぬ課題であるに違いない。私が伊藤文学の左川ちか表象に関心を持っているのもそういう狙いが第一にある。
 
 三岸節子を表紙に用いたことを含めて、ともかく伊藤による昭森社版の復刻・再現という体裁でありながら、編者の名は「川崎賢子」とあるだけだ。私の感覚ではこういう場合は「補訂」「新訂」の方がふさわしいと思うのだが。文庫の解説には「『左川ちか詩集』編集を実際に担当したのは伊藤整であるといわれている」(p233)とある。確かに昭森社版には伊藤の名は明記されていないが、実際には当時の詩集予告に編者として伊藤の名が明記されている。また、川崎昇や江間章子が証言しているように編者が伊藤であることは歴史的事実といってよい。私も実際に何度も典拠を引用し論文にそう書いてきた。であれば、昭森社版を復刻・再現した岩波文庫は、編者の伊藤の名をきちんと表紙に出すのが筋だと思うのだが、実際の記述をみると何か冷淡に感じてしまう。先人の仕事、テキストにどう相対するのかを改めて考えさせられる。次は森開社版全詩集との関係を考えてみよう。

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